ダーク・ファンタジー小説
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- 君の為に
- 日時: 2021/01/03 09:55
- 名前: ドリーム (ID: JbG8aaI6)
『君の為に』
この物語は昭和から平成に変って間もなくの頃、北陸は金沢で大学生が空手の稽古中に誤って親友を死なせてしまい、一九才の少年(堀内健)は苦しみ大学を中退し岩手県にある名勝、浄土ヶ浜近くのお寺へ精神修行する所から始まる。その寺の住職は合気道の達人で大勢の門下生に教えていた。その一人娘(小夜子)女子大学生も幼い頃から合気道を学び有段者であった。堀内健は修行して住職から色んな事を学んだ。精神面も強くなりまた合気道も教わるが、その小夜子の父である両親が何者かに殺された。堀内健にとっても大事な師匠である。小夜子はその犯人を追って、青年となった堀内健の力を借り犯人を追って岩手-東京-シンガポール-岩手へと修行から合わせて八年間にも及ぶ過酷な戦いと共に芽生えた愛と復讐の物語である。
『前回投稿した、宝くじに当たった男に続く長編ものです』
前回同様宜しくお願い致します。
- Re: 君の為に ( No.3 )
- 日時: 2021/01/10 20:30
- 名前: ドリーム (ID: JbG8aaI6)
君の為に 3
第一章 第一節 精神修行
弁当を食べ終えるとまた外の景色を見た。窓を開けると春だというのに氷のように冷たい空気が頬を射した。そろそろ降りる準備をしよう。大きなバッグを荷物棚から降ろして列車が停まるのを待った。堀内健は二十歳となり、その春は日本海の北陸から新たな地、太平洋側の東北から始まる事となった。健は何気なく呟いた。
「そうか俺は二十歳になったんだ」
健は二十歳になった事さえ気付かなかった。勿論成人式にも行っていないし親からも祝福された覚えない。あの事件以来、無用のものになっていた。
それよりも健の過酷な人生の旅が今また始まろうとしていた。
勿論、今の健には気付く筈もなく新たな人生が幕を開けようとしている。
そして健の過酷な人生の旅が今また始まろうとしていた。金沢から列車を何度か乗り継ぎ東北の岩手県は盛岡駅で降りた。そこから更にローカル線に乗り換えて最後はバスで一時間、山道を走ると懐かしい海の匂いがする。岩手県の名所浄土が浜の近くである。
東北は三月も半ば過ぎたのと云うのに、まだ冬のなごり雪が白い色を見せていた。やっと岩手県の陸中海岸があるバス亭で降りた。そこから小高い森に覆われた寺がある。
古いお寺が一軒、正堂寺〔せいどうじ〕ここが目的の場所である。その正堂寺には広い庭があり空気が澄んでいた。本堂の横には生家があり、その間には手入れされた池がある。
「こんにちは! 失礼します」
健が声をかけた。奥から五十半ば過ぎだろうか、清楚な感じの女性が顔を覗かせる。
「ハイ、どちら様でしょうか?」
「吉田教授の紹介で参りました。堀内健という者ですが」
「ああ……貴方がそうですか? 伺っておりますよ。少し、お待ち下さい」
と、言うと奥に向かって歩いて行った。
「小夜子! 佐田さんを、お呼びして。それから本堂にお客さんをご案内して差しあげて」
奥から若い女性が出て来た。背の高い顔立ちの整った西洋風の女性だ。
黒髪が長く、自分を飾るものは何一つ身につけていないが、歩く姿はスキがないと云うのかまるで武道家のような雰囲気が漂う。彼女は急ぎ足で本堂に走っていく。
後ろ髪が靡き、その姿に吸い込まれていきそうになる。暫くすると逞しい男性を連れてきた。
「初めまして。門下生の佐田と言います」
佐田と名乗った男が手を差し出したので、健もその手を受け取るように握手を交わした。
「師匠は、他の門下生達に座禅組ませて本堂に居ります」
確か寺の住職と聞いていたが、なぜ師匠と呼ぶのかと、堀内健は不思議でならない。
すると長い黒髪の女性が軽く会釈して。
「お荷物はそちらですか? 私が、お部屋にお持ち致します。佐田さんと本堂に、お足をお運びください」
大きな瞳をパチパチさせながら彼女は荷物に手をかける。かなりの重さがあるにも関わらず簡単に持ち上げ、それもケロリとして重さが感じないようにスタスタと歩いて行く。
「彼女は要山師匠の一人娘の小夜子さんだ。稀に見る美人だろう。あれでいて凄く強い。合気道の達人だよ」
佐田がそう言った。健が小夜子を見て、ボーとした顔を見て佐田が含み笑いを浮かべる。
「はぁ合気道ですか?」
健は噂では聞いた事がある合気道だが、まさかここでやっているとは知らなかった。
離れの生家から本堂までの間に長い廊下があり、先ほど垣間見た日本庭園が見えてきた。
古い廊下で軋んでいるが、佐田は物音一つ立てずに進んでいく。まるで空港など使われて居る歩道エスカレーターに乗っているように、スゥーと進んで行くのだ。
日本庭園には、敷き詰めた真っ白な小石がきれいに整列され、その向こうに池が見える。
竹の筒から水が流れ落ちて、そして水が満ちた時、コット~ンと心地よい音が響いた。
「要山師匠、お客さまです。あとは私が代わります」
佐田からそう言われた要山師匠、つまり住職でもあるが。「頼む」と言って代わった。
いきさつは健の恩師、吉田教授の手紙にしたためて送られている、教授の計らいだ。これから此処で期限なしで世話になるが和尚は全てを承知で引き受けたのである。
正堂寺の住職。要山和尚はただならぬオーラを発していた。
とても五十八歳と思えない体型で、体操の選手のようにスラリとしている。
「まあ座りなさい。君が堀内健くんだね。教授の吉田君から詳しく聞いたが、彼はこの地元の出身でね。君のことを心配して私に相談があったのだよ。まあ、そう云う縁だ」
健は要山和尚と、その隣の妻であろうか、先ほど出迎えてくれた婦人と大きな座卓を挟んで、健がここに来る事になった経緯を和尚は語ってくれた。
「まあ、その事故の事は忘れろとは言わんが、しかし余り自分を責めてもいかん。自分がこれから、どう生きるべきか、この寺で考える事だ。わしで分からん事は、この妻の登紀子に、なんなりと尋ねなさい」
健は改めて和尚の妻の登紀子に「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「登紀子です。東北は初めてだと訊いていますが、時間はたっぷりありますので。あまり思い詰めないで、和尚に言われた事を、キチンとやってくださいね」
健の傷の深さを知ってか、暖かさと厳しさのこもった言葉が感じられた。
つづく
- Re: 君の為に ( No.4 )
- 日時: 2021/01/11 18:45
- 名前: ドリーム (ID: JbG8aaI6)
君の為に 4
健の最初の仕事は寺の雑用から始まった。
翌日から健は無我夢中で働いた。無心に働く姿を他の門下生も健の働きぶりに感心していた。その和尚夫妻の一人娘は、健と同じくらいの大学生だ。盛岡市内の大学の為に、盛岡で下宿生活しているらしい。その為に実家に帰って来るのは、月に数回と言っていた。
たまたま健が初めて来た日が、月に数回の日に当たったようだ。
今はまた、盛岡に帰って居て、暫らく顔を合わせることもなかった。
寺では野菜など畑で作れる物は、和尚と妻の登紀子で作っていたが、健もその畑仕事を手伝っていた。それも修行の内だ。そして住職はこれから先生だ。ただ普通の先生じゃない。いわば生きて行く為の心の師匠なのかも知れない。それにしても、この和尚は一体、どれほどの合気道の力を秘めているのか? 強いオーラを発していた。健も空手三段の実力者、それも大学では名が知れた空手家だが、此れほどの威圧感はなかった。
寺の住人は若いお坊さんが二人と、住職夫婦と大学生の娘だけ。夕方から稽古生として数十名の人が訪れる。そう住職〔要山和尚〕はその名も轟く合気道の達人であったのだ。
しかし健はここに、合気道を習いに来た訳でもない。
今は、堀内健と云う自分を見失った。心の修行に来たのである。
やがて寺に来て三ケ月が過ぎた。最近では就寝一時間前に一人で座禅を組む。
住職に、そうするようにと云われたが、自分でもそう思っていた。
多少だが農作業にも他の仕事も慣れて来た。そんな姿を時おり登紀子が、他愛のない話で癒そうとしてくれた。
野菜の収穫する時の喜びは格別だから丹念に心を込めて作った。
その収穫が褒美だとも云ってくれた。言葉を多く語らないが一言、一言が勉強になった。
そんな人々に支えられ、全てを捨てた自分がここに居る。無からのスタートである。
だが健は、原田の事故を無にした訳ではない。毎日、原田の眠る方向に向かって手を合わせている。いつものように作業を終えた。
夕方、合気道の弟子達が寺の裏庭で今日は稽古をするらしい。
広さは一般的な幼稚園の広場ほどの庭だ。その弟子達が住職の前に整列していた。
健は空手だが空手は豪だ。合気道なら静といったところか。
やがて二人一組で住職に合い対した。
二人は同時に左右に別れて、ススッと擦り足で間合いを詰めて行く。
それに対して師匠は、なんのためらいもなく歩を進めた。二人一組は五組に別れて、その後列に続いた。住職は、そのまま二人の間を、すり抜けるようにススッと進む。
そして一組二組目と次々と、五組を通り抜けたかのように思えたのだが……。
健には少なくとも、そう写ったのだ。そして驚く事が起きた。
健は目を凝らした。その門弟が何故か顔しかめて全員が倒れていた。
その間、五秒程のことなのに一体なにが起きたのだ? 果たして合気道とは?
健は目を疑った。ただ通り過ぎただけのようだったのに。
何の殺気も感じない、そよ風が流れるように。その、そよ風に人が倒れて行った。
この合気道とは一体、どう云う武術なのだろうか? 空手とはまったく違うようだが。
遭遇した事のない衝撃に、健は己の身体に震いを感じた。空手とは違う、空手は空手で素晴らしいものはあるが、この合気道はあきらかに違う。住職は息ひとつ乱れていない。
何故? そんな事が現実に可能なのか、それとも魔術か。
あれ以来、毎日のように道場や庭の稽古を、そっと覗く日が続くようになっていた。
そしてその呼吸法、間合い、視線、体の位置、気の送りを目で学んだ。
やはり空手道をやって来た人間には、無視出来ない異種なる技であった。
武道家としての魂は消し事が出来ないのだうか。
そんな健の姿を遠くから優しい眼差しで見る者がいた。
つづく
- Re: 君の為に ( No.5 )
- 日時: 2021/01/13 20:43
- 名前: ドリーム (ID: JbG8aaI6)
君の為に 5
季節は夏に変わろうとしていた。山の色も新緑に覆われて景色は新鮮だった。
やがて五ヶ月が過ぎて寺の生活にも、どうにか慣れてきた。しかし心は沈んだままだ。
今日もまた裏庭で和尚と門弟達の稽古が始まっていた。無意識に武道家の血が騒ぐ。
健は不思議な合気道の魅力に、その体が反応して、手や足が自然と動く感じがした。
この住職の動きは。その動作、間合い、呼吸法、そして全てが擦り足から始まっている。
その動きを何とか盗み獲ろうと、健は懸命になっている。
自分の心が自然と合気道の魅力にのめり込んで行く自分がいた。
それは無意識に本能が導いて行く己に、気づくはずもなく、やはりもって生まれた武道家しての健の姿だったのか?
合気道を見れば、見るほど子供が玩具を与えられた嬉しさのように体が求める。住職も多分、そんな健の姿に気づいて居たはずなのに。だが声を掛けようとはしなかった。
和尚は健の心が、まだ病んでいる事を知っていたからだろうか。
〔健よ。今はただ無心で働き、その病んだ心を治しのだ〕
和尚はきっとそう云っている。そんな和尚の声が健には届いているのだろうか。
第一章 第二節 閃き!
時はあっと言う間に月日が流れ、十月に入っていた。
今日も健は精神修行の一環として小高い山の上で座禅を組んでいた。
瞑想の中に心を置く、その静まり返った丘に誰かが来たような気配を感じた。
優れた武道家と云う者には敏感に反応する。高台の丘に澄み通るような声がする。
その声の響きに聞き覚えがあった。
健は一呼吸してから、静かに眼を開けて座禅を解いた。ゆっくりと後ろを振り返ると。
其処には天使が舞い降りたのだろうか長身の若い女性が微笑んでいた。
それは坂城(さかしろ)小夜子であった。要山和尚の一人娘である。寺では余り話し機会もなく挨拶程度だった。それにしてもドキリとする美しさがあった。
「小夜子さんでしたか? 良く此処が分りましたね」
大学生で二十一歳とか聞いていたが。年齢は健より一才年上だった。
それにしても落ち着きがある。普通の大学生と云うよりも、ずっと大人に見える。
清楚な感じで改めて見て、凄い美人なんだなと感じた。小夜子は興味津々の表情で健を見つめた。その瞳は黒く輝き、また湧き水のように澄んでいた。
「もしかしたら、ここかなと思ったの。邪魔をしてごめんなさい。座禅を組んでいたのね」
にこやかに話かけてくる。小夜子と眼が合って健は、またドキッとした。
「ねえ堀内さんでしたよね。父から出身が金沢と聞いたけど、どんな所なのかしら? 日本海ですよね。私はまだ北陸には一度も行った事がないのよ」
何故か東北訛りが全くなかった。後で聞いた話だが小夜子の母、東京生まれの為に、東北に嫁いでも東北訛りに染まる事がなかったそうだ。娘にもそれが受け継がれているようだ。
「そうですね。寒いのでは、ここと余り変りませんが雪が凄く多い所なんです」
そうは云って見たものの故郷に浮かぶのは、やはり、あの日の出来事が脳裏を離れない。
まだまだ心は病んでいたのだ。小夜子も健が時折、言葉が詰まるのに何か思い出したくない事があるのだろうかと感じて話題を変えた。その高台の景色を眺めて言った。
「ほら! 見て。もう山の頂きは紅葉でいっぱいよ。綺麗ねえ」
健もそんな景色を眺めて、もう半年以上が過ぎたのだと思った。
無我夢中で働き考える事としたら、やはり原田だけ。あの日の出来事だけ。時はそんな思いと関係なく流れる。東北の秋は早い遠くの山々が秋色に染まりつつあった。紅葉の季節、木の葉が赤く色づき、その葉が地面を鮮やかに染める。
その赤く染まった落ち葉が、二人を包むように風がヒューと舞った。
それから数週間、小夜子がまた山へ登って来た。今日も差し入れを持って来てくれた。
「建さん、貴方は何か武術でもやっているのね……もしかして空手ですか、その手を見て思ったの、私も父が合気道を教えている関係で物心ついた頃から合気道始めたのよ」
堀内さんから健に呼び方が変っていた。遠く山々を眺めながら語り始めた。遠くには太平洋が広がり名勝、浄土ヶ浜が見える。二人の上を空高くトンビが数羽フワリ、フワリと舞っていた。
つづく
- Re: 君の為に ( No.6 )
- 日時: 2021/01/15 17:41
- 名前: ドリーム (ID: JbG8aaI6)
君の為に 6
小夜子は女性としては長身で百七十二センチあり、スラリとした美形であった。
それでも健の横に居ると肩ほどの背丈しかない。
健も、かなりの長身で百八十五センチと、がっしりとした体格だ。
その割には顔が面長で一見、おとなしく見えるが胸幅が厚く腕の盛り上りかたも凄く、物静かな顔つきは空手の試合が始まると、その表情が一変する。
「父はね。私に強くなる事を望んだのじゃなくて、精神の強さを教えてくれたのよ。私の場合小さい時から合気道を、やっていたから自然と取り組めたけど」
健は遠くを見つめながら小夜子の話にうなずいた。
健は以前から興味を持ち始めていた合気道に閃きを感じたのだ。
探していた物に、そう探していた物にそれは精神修行、合気道。精神を鍛える、真剣に合気道を習いたい。そう思った。
健はその閃きの熱い想いを。小夜子に、いきなりぶつけた。
「小夜子さんお願いです。教えてくれませんか。僕が探していた物を。貴女が云った言葉、精神の強さを合気道に感じたのです」
突然に健が心の閃きを合気道に感じて、真剣な顔をして小夜子に訴えた。
「僕に必要な物は、その精神を強く磨く事と覚りました。是非、いや、どうしても必要なんです。自分には今は何も見えないんです。今はそれしか言えませんが教えて下さい」
健はやっと自分がどうすればいいのか覚った。決して、あの事件を忘れる為じゃなく、強い精神を作る事で過去と向き合い、そして生きて行く為に。
小夜子は真剣な健の言葉に、驚きと純な心に感じるものがあった。
健がこの寺で探していた物を見つけたいのなら、その望みを叶えてあげたいと思った小夜子だった。
西の空から強い光を帯びて夕陽が二人を照らして、その影が長く二人を包むように伸びて夕暮れが迫っていた。そして今日もまた、健は山の頂で座禅を組む。
森の音が、鳥の声が、川の流れる音が眼を閉じていると、その音が奏でる自然のオーケストラのように健の心を洗い流してくれるようだった。
そんな時、健の心に語り掛ける者がいた。
(堀内もういい。お前の為に生きろよ)それは原田の声だった。
そんな声が川の、せせらぎの方から聞こえた感じがした。健は静かに眼を開けた。
山の頂きから夕陽が差し込む、木々の間の毀れ日が健を照らす健の身体を照らす。
健の閉ざされた心を開けと、ばかりに一点の光が見えた。
あれから小夜子には時々、合気道の心得や、その技など教わっていた。
師匠の娘だから合気道はそこそこに出来ると思っていたが、女性とは思ないほど強い。女性としては長身の百七十二センチから繰出す技と、その呼吸と間合いは、もはや完成された合気道であった。確かに達人だ。
そんな小夜子は健の過去には一切触れなかった。いや彼女の気遣いなのだろうか?
それとも今は、その時期ではないと感じて居たからだろうか。
そんな優しさと強さを秘めた小夜子であった。そして月日は走馬灯のごとく過ぎて行った。健も毎日が合気道と寺の手伝いと自らの心と技を磨く。勿論その肉体も更に強靭なものに変わって、精神修行に明け暮れる日々が過ぎ去って行くのだった。
つづく
- Re: 君の為に ( No.7 )
- 日時: 2021/01/18 21:20
- 名前: ドリーム (ID: JbG8aaI6)
君の為に 7
第一章 第三節 合気道の真髄
やがて堀内健は二十一歳になっていた。小夜子は父と縁側で話しをしている。
健の事は何も聞かずに自分が知っている限りの合気道の事は教えて来たのだが、しかしそれも限界に近づいて来た。それ程迄に健の合気道が上達している。やはり天性なのか。
「お父さん。堀内くんの過去を教えてくれませんか。彼の暗い部分が見えてくるの」
小夜子は健の、心の奥の影に以前から気になっていた事を父に訊ねた。
「どうしてそんな事を聞く? 知ってどうする」
父、要山和尚は逆に聞き返した。だが小夜子は男と女の仲を言っているのではない。
その眼を見れば分る。要山和尚ぐらいの達人ともなれば話さなくても、眼を見れば相手の感情を読み取る事が出来るのである。
「小夜子! ただの同情なら止めなさい」
いつも温厚な父に何故か一喝された。
聞いてはいけない事に触れたのかと思った。それ程までに、健の過去は暗いものなのか?
だが小夜子の真面目な顔を見て、やがて要山和尚は静かに語り始めた。
寺の庭にある池では小夜子の母、登紀子が鯉に餌を与えている。それは穏やかな朝の光景であった。縁側で父と娘が、その母の後姿を見つめながら話が続いた。健の過去を訊くうちに、小夜子の表情が強張っていく。健が偶発的な事故とはいえ親友を死に追いやった事を、そして大学まで辞めざるを得なかった事を。
そんな思いで正堂寺を訪ねて来た事を、小夜子は知って愕然とする。
小夜子はショックだった。その暗い過去を健が背負っていたことを。だから合気道から何かを感じ取って。私に教えてほしいと訴えた謎が、いま解けたような気がした。
そんな時、母、登紀子が来て小夜子の肩を叩き微笑んで、二人にお茶を入れてくれた。
堀内健には衝撃的な事件だった。生涯忘れる事が出来ない。親友を失い故郷を失い、いや失ったのではなく、自分がこのまま故郷に居ればまた原田の両親、親戚、友人と会う事になる。自分は堪えても相手には忘れようと思ったものがまた蘇ってくる。
自分の両親もその度、悩ませる事が辛い。だから故郷を去るしかなかった。
親友を殺したからこそ自分が幸せになってはいけないと幸福の文字に封印したのだ。
池の鯉が跳ねてバシャと音をたて小さな波を作った。父、要山和尚の話は、まだ続いている。
「いまの彼に必要なものは精神の修行しかないのだよ。小夜子」
小夜子は頷いた。健が重い過去を持っていたなんて、その苦しみを救ってあげたいと。
「お父さん……彼がね。私に言ったのよ。合気道の心を知りたいと」
和尚の表情が少し変った。健の心に何か変化が起きたのかと。和尚はやっと健が断ち切れそうになったのかと感じた。正堂寺に来て二年近くの日を経て、やっと感じたのか?
「そうか分かった。いずれ私が指導しよう。今はまだ、お前が教えてやってくれ」
要山和尚は思った。若い二人なら心も道も開けようと。しかし健に、あと何を教えたらと小夜子は考えていた。合気道は奥が深い、まだまだ教える事がある筈だと。
そもそも合気道とは合気武道から合気道になった。
合気道の創始者は現在の和歌山県田辺市が発祥地とされている。
それは明治四十一年頃、植芝盛平氏と記されている。
植芝盛平氏は、その頃、村の青年達に武術と柔道を教えていた。
それと同時に後藤派柳生流柔術の道場に通っていた。柳生とは柳生心眼流の剣豪で名高い。小説、映画などに登場してくる柳生十兵衛である。
そして、もう一人歴史を飾る剣豪、荒木又右衛門まで歴史を飾る顔ぶれが揃っていた。
柳生心眼流の流れを汲む六代目、後藤柳生斎氏がのちに、合気道へ多大な影響を与えたと記されている。今や合気道は世界に数十ケ国の支部があり、特に女性には護身術として海外の大学でも取り入れている。
小夜子は改めて、合気道とは何かを健に教えた。大学が休みの度に帰って来て教えた。
「合気道はね。心、技、体、気の総一なのよ。心眼で捉えるのよ」
つまり攻撃の為にあるのではなく護身術からの攻撃、女性には特に薦めたい武術である。
「そう、空手と違うのは力まない事なの。もっと楽にして」
門下生が帰った後に時々教わっている健も、その合気道の奥深さに魅入っていた。
流石に高校、大学と名の知れた空手家の健は呑み込み方が早かった。
それから更に半年の月日が流れ、心の部分が大きく変った。次に取り組んだのが〔気〕である。相手の気を見抜き、空気の流れ、肌に感じる温度、例えばドアの裏に潜んで居ても気で五感に感じ捕ることが出来る。
相手の身体の動き、相手が爪先に重心が掛かった時、次の行動を読み取る事が出来る眼の動き、手足の些細な動きも同じ事だ。常に相手の動きを先に読み取る。目を閉じていても相手の呼吸、空気の流れ僅かな音でも読み相手の動き力を利用して技を決める。これが合気道の心眼だ。
相手が踏み込んで自分に触れる寸前に、その動きを逆に利用して流れるように相手を瞬時にねじ伏せる。これが合気道の極意である。
つづく
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