「語感」編

最初に感じる語感=名前

生まれた人なら(とくに親になった人は)一度は、語感について考えたり感じた経験があるかと思います。
最も身近な語感の例として、自分の(子の)名前が挙げられます。

名前はたんなる言葉や記号ではなく、親が好きな文字であったり、わが子への祈りや願いが込められています。
言葉に込めた意味や祈りが、わが子を導いてくれると信じる心があります。

DQNネームが近年取りざたされますが、見方を変えれば、目立ってほしい、人気者になってほしい、キラキラしてほしい、常識にとらわれないでほしい…等(その子の気持ちに立つと複雑なものはありますが)親なりの意味づけ行為は意外にもちゃんと行われていたりします。また、歴史を振り返ると外来語が入ってくるたびに、学識ある立派な人たちが時には珍奇な当て字も使いながらなんとか乗り切ってきた事実もありますので、一種の先祖がえりと言えなくもない…のかもしれません。


日本で使われる文字の歴史

はるか昔を振り返ると、漢字が日本に入ってくる前、国内にはすでに話すための言葉がありました。
ただ、その『声の言葉』をどうやって書くかについて、長いあいだ広く共通のルールがありませんでした。

漢字という文字が中国から入ってきたとき、漢字の持つ意味の深さに驚愕し「もしかして和語より便利じゃね?」「これは凄いのでぜひ書き言葉として取り入れよう!」「なんなら発音も大陸読みで揃えるか!?」ということで、そこにどんどん日本の言葉を当てはめられていきました。

たとえば「桃」という字は、中国では「トウ」と読まれ意味も「トウ」で理解されていました。ところが、すでに日本にはその同じ果実のなる樹木を「もも」と呼んでいる言葉がありました。まさに『衝突の予感!!』ですね。
ここでは「桃」=「トウ」=「もも」と併記するところに落ち着くまでの道のりを振り返ってみましょう。

中国から来た漢字(桃)と読み(トウ)だけでは、日本に暮らす人には意味がわかりません。
日本にすでにあった「もも」という声の言葉と、「もも」があらわす『薄もも色の美味しい果実のなる木』の意味を引っぱり出して、初めて『桃(トウ)』と書かれた文字の意味が理解できました。現在でいう、英語など外国語和訳の作業ですね。気が遠くなります。「桃と書いてトウと読むらしいけど、もものことらしいぜ~」というようなやりとりが幾万回も繰り返されたでしょう。

また「トウ」と書いただけでは、それが『唐』を指すのか『塔』か『桃』か『籐』か……等、意味が特定できず混乱します。
「トウは桃という字の大陸読み(発音)だとあらかじめ説明がなきゃ全然分からないぞ~!!」と多くの文句もあったようです。
それほど、きっと和語は書き言葉でこそなかったけれど、立派な一つの言語体系としてすでに、国内の人々の暮らしに広く馴染み、共有されていたのだと想像できます。

そんなわけで理解できないので広まらない『桃』という漢字を何とか定着させるために考え出されたのが……今ある和語を潰さずに『全部併記しちゃおう作戦』でした。

大陸からきた発音については、漢字から一部を簡略化して抜きだして作った新語『カタカナ』を使って「トウ」と書き『音読み』と呼ぶことにしました。 日本にもともとあった発音(和語)については、これまた同様に漢字から新語『ひらかな』を作り出し「もも」と書き『訓読み』と呼ぶことにしました。この整理のおかげで、日本人は、語の発音の違いと意味とを、混乱せずに理解しやすくなりました。

意味が完全一致しないものや、翻訳時の勘違いや、大陸にあって日本にないあるいはその逆の概念なども多くあったので、それは長い年月と大変な苦労があったようです。当時についての研究書を調べて見ると当時の人たちの心をを想像できてきっと面白いですよ。


和語と漢字がなじんだ理由

なぜこれほどまでに、日本にあった言葉(和語)と中国にあった文字(漢字)とが上手く混ざり合ったのかについては、色々な見解があります。ここでは『各文字に魂が宿るという考えが両国に共通していたことが大きい』いう立場で考えることにしますね。

「もも」にも「桃」にもそれぞれかけがえのない意味と歴史があることを、昔の人はちゃんと知っていました。
だから、一方の言語だけ残してもう一方を抹殺するのではなく、共に残し、互いの良さを生かせる使い方を目指しました。
日本語の、とても素晴らしい性質ですね。

今や、世界に類を見ないほどの複雑な言語体系を構築し、現代の日本人も、一つ一つの語が持つ意味や雰囲気を考えながらふさわしい文字を選び取り、相手に考えや想いを伝えあっています。何気なく使っている日本語ですが、いかに多くの先人の苦労による結晶であるか、その複雑な構造からよく分かります。例外が多い構造なのも、日本語の優しさです。


語感とは何か

語感を磨くとは、多くの難語を記憶し使うことではなくて、「桃」か「もも」か「モモ」かという簡単な文字を書く時にも、そこにこめる『意味合いの微妙な違い』『気遣い』を感じとれるか否かです。

何が語感かについて、良い答えはありません。しいていえば、一人一人が赤ん坊のときからずっと、父母、祖父母、教師、周囲の友人、書物等からどういった言葉を聞き、意味を引き継いできたかが、語感の基盤であり本質です。

文章を読む中でなぜ「桃」ではなく「もも」と書かれているんだろうかと、その意味や心を考えたり背景・状況を想像するのはとても大事です。その人物がその文字を使うのには理由や意味があります。

言葉は言霊なので、すべての言葉に『力』が宿っています。人格があるといってもいいかもしれません。
その力や性質を理解し自在に操り使いこなせる鍛錬ができたら、きっと素晴らしいですね。

その人の語感は、その人の人生、生き方そのものです。貴方の言葉が貴方です。

自分が尊敬する作家さんの書物に存分に触れて、込められている言葉の力を素直に受け取りましょう。
また書物だけでなく、将来の目標とする様々な世界の方々の姿、言葉や創作物に触れることも、自分の語感を育てるとても良い訓練です。出来れば、うつむいてすでに知っていた言葉を拾うのではなく。上を向いて、はるか上から降っているシャワーのような言葉の存在に気づいて、いっぱい浴びたいですね。※変な宗教ではありません

きっと、視野が広がりますよ。