小説の書き方 「技術」編~其ノ1

執筆をするにあたって、より具体的な技術を身につけましょう。

無駄な言葉はなるべく削る

例)
【小説カキオ】は【小説が好き】だ【った】。【小説が好き】だ【という気持ち】は【小説カキオ】の誇りだ【った】。歳を【重ねるにつれ】、この【小説が好き】だ【という気持ち】を【もっと】【もっと】ほかの人たちと分かち合いたいと【しだいに】【どんどん】強く感じるようにな【った】。

上は極端な例ですが、重複文章を使用する意図がきちんとあって、あえてそうしているならば別ですが、無意識に文章を何度も重ねがけして使用している箇所はありませんか? 注意が必要です。
無駄なくりかえしは「もう知ってるっちゅうねん!!!何回出てくるねん!!!!」「単調だし長いな~、もう読むのめんどくさい…」という印象を与えてしまいます。

どこに新しい情報があるのかを、毎文探り当てながら読み進めなければならないというのは、相当なストレスです。
「続きを読みたい!」よりも「読むのをやめたい!」気持ちのほうが勝ってしまうような小説では、どんなに良いテーマを扱っていたとしても残念ながら最後まで読んでもらえません。
読む側は、スルスルと読み進めたいです。
その小説世界に引き込まれたいと願っています。

執筆する側は、その読み手の願望をへし折ってしまわないように、特別な意図や必要性がない限り、無駄な重複はなるべく削り必要最小限の言葉で書き現せるよう、日々努力しましょう。
書いた文章を、アップする前に必ず2~3度は見直す習慣をつけるとよいでしょう。

いきなり潔癖&完璧にチェックする必要はないし、絶対に重複がだめだといっているわけではありませんのでご安心ください。
書く側の意欲やモチベーションが下がりまくるほどのチェックや修正は、悪影響を及ぼす恐れがありますので、まずは「ほどほど」でいいでしょう。
明らかに無駄な言葉についてのみ、少しずつ落として(削除して)いけばよいと思います。

しだいに自分の「書き癖」がわかってきますので、対処も楽になってきますよ。

台詞と台詞以外の文章の配分を考えながら書く

アニメは映像作品です。登場人物による台詞劇(会話劇)スタイルが多いです。
台詞が物語の骨格であり、物語そのものをひっぱっていきます。
小説でいう情景描写に相当する箇所は、基本的に絵(もしくは画)で描かれます。
文字以外の音声情報も多いので、それらで説明しきれないときに「ナレーション(言葉での説明や描写)」が付されます。

【アニメ=映像作品】
台詞=主
画(絵)・ナレーション(情景・心理描写)=従

一方、小説は情景(心理等も含む)描写が、物語をひっぱっていきます。
小説の情景描写は、アニメではおもに言語化されない「画(絵)」に該当します。
台詞(会話)は小説の重要な要素ですが、アニメと異なり文字情報しかないため、アニメで画や音声にされ言語化されないシーン表現にも文章ボリュームが割かれることとなり、結果として作品全体にしめる台詞の割合は、アニメに比べて低くなります。

【小説=文章作品】
台詞=従
画(絵)・ナレーション(状景・心理描写)=主

基本的には、この配分を念頭において執筆しないと、読者は読むだけでは世界や人物の気持ちをすんなりイメージしにくくなります。
アニメのシーン配分でもって文章をおこそうとすると「台詞だけしかひろわない」というのがよくありがちなパターンです。
「台本小説」というよりも「台本」そのものになっていきます。
アニメーターや演者などにより映像化でもされればともかく、台本ならではのお約束を知らない読者は多数なので、そこに書かれている台詞の羅列だけではなかなか読み進める意欲がわかないことになります。

台詞以外の描写部分にも気をくばってみよう

アニメにしたならばたった一枚のシーン画でも、そこに込められる、文章にするとものすごく複雑で相当な量の情景・心理描写を、文字ですべて表現してやるぜとかいう気概は、実際のところなかなか難しいことです。

当サイトで今ちょっとした問題なのは「作者本人が小説を書くつもり」で執筆したところなんとなく「台本っぽくなっちゃった」というケースです。

台本(台詞)という手法をとりながら、一つの作品として生き生きと読み手に世界観を伝えることは可能だし、すくなくとも当サイトでは、それは立派に「小説(台本小説)」だと思います。

出来不出来はともかく、作者本人が意識的に台詞主導の台本という「手法」をとってドラマを伝えようとしているのなら、まったく問題ないです。
しかし、作者本人に小説に情景描写の必要性や効果について無知・無自覚であり、その結果による台本(小説)であるならもったいなくて残念なことです。 その作品内容の良さを伝えるのに、本来なら台詞以外の描写にしっかり力を入れた小説スタイルのほうが適していたかもしれないのに、伝わりにくい方法で読者に発信してしまった可能性があるからです。

読者に、作者の頭の中の世界観をどう生き生きとイメージさせ、一緒にハラハラさせたりドキドキさせたりして巻き込んでいけるかが、小説を書く上での醍醐味でしょう。
読んだあとに読者に「あ~、おもしろかった!!」と言わせられるか。
素人だろうとプロだろうと、おそらく物書きが目指す方向は同じだと思います。

自分の狙いとおりに読者に読み進めてもらうためにも、取材や表現の手間を惜しんだりズルしないでとことん悪戦苦闘しましょう。そして自分が確信した方法で執筆してみましょう。
確信があれば、台本形式についてあれこれ言われても、もう気にする必要はありません。

この表現で本当によかったか、繰り返し考えよう

「台本」「読みにくい」等と言われてしまうという場合は、まず作品に占める台詞のボリュームをいったん減らし、台詞以外の文章で言い換えられないか、検証する作業からはじめてみましょう。

たとえば、作者は「ズドーン」という音声があたまに思い描かれているとしましょう。 そのまま「ズドーン」と書いただけでは、読む人によって伝わり方にものすごい誤差が出てしまい、まったく見当違いな伝わり方をするときもあります。
何がどのくらいのスピードで、どんな硬さの地面に、どのくらいの距離で聞こえたのか、キャラクターの身体にはどんな伝わり方をしたのか…とか、とにかく様々な情報があるなかで、何をセレクトしてどのくらの分量で描写すれば、どんな読者にも負担なく誤差少なく伝わりやすくなるだろうか、とか。
ささいな言葉でも「迷う⇒選ぶ」作業をしてみてください。

そうした作業を繰り返すうちに、なにを台詞にすべきか、すべきでないか、しだいに自分の感覚でわかるようにきっとなっていきますよ。

キャラクター性格を台詞の語尾だけに頼らない

【例】
「~~~~だにゃ」
「~~~~~~ですぅ」

登場するキャラクターすべてについて、台詞全部の語尾に違いをつけただけで「やった~がんばってキャラ考えた!!」で終わり!!では非常に残念な作品になりやすくなります。
特徴的な語尾のキャラだらけのコアなゲーム的状況に寄りすぎると、リアルから遠く離れていき、多くの読者は感情移入できず、その作品についていけなくなります。

詳細な設定根拠にもとづいた書きわけをしないと、そのうちどのキャラの思考回路も台詞も、作者本人かと思うほど画一的になっていき、読者は「あれ~こんなキャラだったっけ…??」と感じます。
または逆に、ぶっ飛んだ極端なキャラクター設定に頼りがちになったり、根拠なく性格が激変していったり…もうこうなっていくと「この作者ちゃんと考えてるんだろうか…せっかく最初の出だしは良かったのにな…」と読者は不安な気持ちでいっぱいになります。 追加でキャラが登場するたびにすっとんきょうな語尾を持ってくるという異常事態にもなりかねません。

本編の各キャラ設定にしっかりとした動機や根拠がないので勢いよく物語が流れていかず、つまるたび頻繁に楽屋ネタやサブストーリー連発で本編を脱線する、という、あんまり読者には嬉しくない流れになってしまいます。

キャラクターの違いを出すにあたって、語尾の違いがまず先にありきという考え方は邪魔になるので、いったんは捨てたほうがいいでしょう
順序を変えて、ひとまず最後の手段にしてください

特殊な語尾にしなくても、台詞の前にキャラクター名を入れなくても、各キャラクターに大きく違いは出せます。
表現方法は人それぞれ違いはありますが、台詞ではない描写の部分に力を入れていくことにより、おのずと各キャラクターの台詞の中身に違いが出てきます。

キャラが違えば、生い立ちも思考回路も理想も行動パターンも全く同じではないはずです。同じ状況に出会っても、みな感じ方や反応は違うはずです。
勝手にキャラが動き始める感覚を得られたときは、作者としてはちょっとした興奮ですよね。
うまく指揮して、いろんなキャラの個性を一つの収束(ラスト)に向けて面白く遊ばせながら動かしてください。

とくに根拠がないならできるだけ易しい表現をえらぼう

ふだんなじみのない難しめの熟語や言い回しを「ちょっと知的でかっこいい感じがする」という理由だけで使用するのは、読者無視の本末転倒な行為であると思います。

そのものにたくさんの意味やイメージを持つ漢字の良さをうまく利用して、文章で説明したらたくさんの文字が必要なところを、簡潔に数文字の熟語で表現できてしまうときに利用するのがよいと思います。

【例】
(文章)はなやかでうつくしい
(単語)華麗

どちらを利用するのがよいかは、文脈、世界観やキャラクター設定等によります。

たとえば5歳で精神年齢も年相応という設定のキャラクターに
「某<それがし>は当該事項<とうがいじこう>について門外漢<もんがいかん>である由<よし>…」
の発言は不自然ですよね。
読者は「何があったんだよその子供に…」と色々気になっておっさんか誰かの霊にとりつかれているとでも思わないとその台詞をナチュラルに消化することができません。

また、キャラクター個人の過去や考え方によって言葉の選び方や表現や態度が異なるはずなのに
  「リアルな自分(作者自身)ならこういうふうに言うから」
という理由だけでそのままをキャラクターに言わせてしまうと、矛盾が大きくなってしまったりします。

難語を使わないといけない場面状況もあるでしょうが、かといって万事難しい表現にしなければならないということではありません。
一般に漢字を増やせば増やすほど、口語から離れるほど、読みづらいと感じる読者の数も増えます。
やたら増やしたからって「知的~!」とは読者はあんまり思いません。
「あ~なんかこの作者、きっとこういう言葉使うことによって頭よく思われたいんだな~」くらいにしか思いません。
使うのは、その言葉を消化できるような気持ちが芽生えてきてからでいいのではないでしょうか。

漢字とかなを使用するバランスは人によって違う

「こうじゃなきゃいけない」小説なんてありません。
漢字を使いすぎたからダメ、使わなさすぎたからダメ、ということにはなりません。
たくさん漢字を使用しても魅力が増す(または衰えない)作品もあれば、たくさんかなを使用しても魅力が増す(または衰えない)作品もあります。

要するに、どんな文字をチョイスするかは
■作者の心
■小説の内容や雰囲気
■想定する読者
によって異なり、また、それでいいということです。

レベル1のときにレベル50用の武器を手に入れても、使いこなせなきゃ意味ないですよね。
算数も、全部難しい定理を知ってなきゃ絶対解けないわけじゃないですよね。
易しい法則を駆使して、同じ答えを導きだすことだってできます。
こども絵本や児童文学なども、つかわれる言葉こそかんたんですが、ある意味最高難度の奥深い世界・テーマが展開します

その時点での自分が使いこなせる語彙の範囲でだって、同じ哲学をしっかり表現できると思います
作品に不自然な感じや背伸び感を与えていないかどうか、適切な表現であったかどうか等
なんども読み直して推敲<すいこう>しましょう