メイドと追っかけと職人と巫女と
作者/マッカナポスト

第零話・・・ビール瓶≠いつもいつもいつもいつもいつも
*
優大が過去の記憶に浸りつつある事を確認した禅は、ふと溜息を吐く。
_____自分に過去などあったのだろうか。
不敵な笑みを浮かべつつもその顔は満たされておらず、泣きそうにも見えた。過去を、幼い頃の記憶をあまり思い出せない事に恐怖すら感じながら。
空は未だ朝から抜け出せないままで、駄々をこねる子供のようにぐずぐずとしていた。
黛 禅の過去。その過去は本人が打ち明ける事もできないものであった。_____打ち明けたところでどうなると言う事も無いのだが。
他人はおろかその記憶は本人でさえ風化しつつある。
思い出せない幼い頃の記憶。
思い出したくも無い記憶。
ようやくうっすらと思い出したのか、瞼を静かに閉じ、頬に一粒の宝石を伝わせる。その儚き宝石は拭う前に液体と化しアスファルトに落ちてゆく。
「虚しいね」
そう言って僕は笑う、嗤う、哂う。
電柱に拳を叩きつけ。
顔を歪ませながら。
十六年前
それは理想の家族。
お父さんが僕を高い高いしながら、「お父さんみたいに大きな子になるんだぞ」って。
それを聞いたお母さんは「でもお父さんみたいにお酒ばかりじゃだめよ?」って笑うんだ。
みんな、みんな笑ってた。みんな、みんな__________
だから僕はお父さんにビールを注ぎながら、お父さんとお母さんの顔を見つめてこう言うんだ。
「お父さんっ、お母さんっ、大~っ好きっ!!」
僕、沢村禅は幼い頃から妄想過多な少年であった。
当然、この理想の家族の“お話”も僕の空想の一つであって。
……その代わり、我が家では常に怒号と悲鳴が飛び交っていた。僕がお父さんに注いであげる筈だったビール瓶も我が家では凶器と化した。
アニメや漫画でよくあるスパルタ教育とは訳が違う。
一言で言えばドメスティックバイオレンス。通称DV。
原因は父の酒癖の悪さ。そして父の会社の不景気。
単純に言えばそれで済まされる話なのだが、最早暴力と言うよりは毎日半殺し状態だった。何度も警察に通報したが当時DVが世間に広く知れ渡っていなかった時代だ、警察は僕たちを嘲笑うかのように相手にしなかった。
母が必死で僕を守ろうとすればするほど、父の暴力はエスカレートしていく。母はいつも父に殴られていたため傷が絶えなかった。
母が壁に弾き飛ばされた時は酷かった。僕は守られる相手が傷ついたため必死で叫び、喚き、抵抗したものの、まったく効果は無かった。
僕まで投げ飛ばされ、いつものビール瓶が振り下ろされる。
_____そう、いつもの事だ。いつもの_________
汗まみれで涙まみれで鼻水が止まらない僕は気づかなかった。
母がいつもより多量出血をしていることを。母がいつもより苦しみを訴えている事を。いつもより顔が急速に青ざめている事を。
ちっとも“いつも”では無いという事を。
「母さんっ!!_______かっ…あさんっ!!!!!うっ、かっ、あさ……ん!!!」
気づいた時には既に遅かったのである。
自分の愛している母を、自分の愛する父に殺められる恐怖、それに気づいたのは母が死んでいることに気がついて暫くしてからだった。
不意に天井の方から低い声と酒臭い匂いがする。母を殺めた張本人だった。
「はははははっ、良かったな禅。これで俺たち金が手に入る__________」その声は途中で遮られ。結局その続きが放たれる事は無かった。
思いの外血というものは鮮やかな紅色だった。
「緑色の血でも出るのかと思った」当時僅か6歳だった僕は、恐ろしいほど冷静で。
_______殺す理由はこれで十分…でしょ。
僕は今までこんな下等人間から教育を受けていたのか、と思うと自分が恥ずかしくなった。
まあ、当時『下等人間』なんて単語は聞いた事もなかったのだが。
僕は思う。
この頃から、あの事件は幕を開けていたのではないのかと。
当たり前を、普通の家庭の言う日常を、そう、『いつも』を追及しすぎていたのだと。
罪悪感など感じない。だって、『正当防衛』じゃないか。
目撃者ゼロ。
“犯罪者”にとって_____そもそも犯罪者なんて基準は何処にも無いのだが_____打ってつけの状況である事くらい、6歳の少年でも悟る事ができたのだから。
…母は勿論、父が大好きだったのに裏切られた。
それによって感情が狂って外道へと導かれる。
これも世間にとっては『いつも』の事じゃないか。
どうしてだろう、ただ親子との唯一で最後の『思い出』を思い出しただけなのに。
涙が_________止まらない。
現在の僕は言う。
過去を懐かしむように。気づかれないほどの悲しみを全身に湛えながら。
「だからね、僕はビールが飲めないんだよ」
笑っちゃうでしょ。

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