「知る・触れる」編 ~知るきっかけづくり~
【第3回】 『平安時代』を、知っていますか?
平安時代について、知っていますか?
平安時代=華やかな貴族による国風文化の時代と、広く理解されていますね。
梅(大陸文化)から桜(国風文化)に変わったという、象徴的なエピソードはよく知られています。
御所の入り口に、長年左近に橘、右近には梅が植えられていたのですが、梅の木が落雷(と言われていますが不明)で倒れたことを機に桜が植えられました。事件のにおいも……ゲフンゲフン。
ところで、大半の一般庶民は一体どのように暮らしていたのでしょうか。
お金持ち以外の人の暮らしの痕跡は、時代をさかのぼるほど書物から消えています。なぜでしょう?
今の常識で考えると、家に紙やペンがあって、家族全員が文字の読み書きが出来るのが普通です。
しかし、当時下級貴族であった紫式部でさえ、紙、硯、筆などの入った新しい筆入れをもらって「このような高級なものを!」と大喜びするほどです。紙に文字を書くことそれ自体が、とてつもなく『セレブな行為』だったのですね。
平安時代(……に限りませんが)では、働けない者=口減らし、間引きが当然で、親が子を意図的に殺しても罪に問われない時代です。
食べ物も薬もないので7歳になるまでにかなりの確率で死亡します。
・ご飯をお腹いっぱい食べること
・大人に成長すること
・病気や怪我から快復すること
それ自体が、かなり難しい時代でした。
したがって一般庶民が書いた書物というものは、まず見つかりません。
ただ、市場や祭り(鎮魂)などがあったようで、当時の文献から見つけることは難しいけれど、ささやかながらも生き生きとした庶民の風俗や文化が確かにあったようです。篠笛も庶民が生んだ、簡素な木製楽器の一つだそうです。一体どんなふうに言葉や歌声を交わしていたのか、色々想像したくなりますね。
漢字から「かな」が生まれ、唐風でなく国風の文化が花開いたとはいっても、国民=農奴であった大多数の一般市民から眺めた場合には、現代の我々と違って気軽に見たり触れることのできる距離に「文化」はありません。
見聞きすることだって一生に一度あるかないかの、あくまで天上(殿上)人だけで楽しむものでした。
庶民は「ござ」や「もみがら」のようなものを、土の地面の上に敷き、そこで食事したり眠りました。
布団にもそれらをかけるか、布団そのものが無かったようです。
沢山働くのでお腹がすくためか、食事は3回です。
・雑穀(年貢として納めなくてもよい、飼料用穀物)
・その辺の草をゆでたもの(味つけ無し)
・塩(or干した海藻のようなもの)
が主な献立だったようです。3品……泣けますね。お味噌汁が庶民に広ったのは室町時代からなので、まだありません。
塩もおかずとしてカウントされてしまうあたり、すさまじいですね。
ろくな道具もなく、運よく川で魚がつれた時や、鳥を石などで撃ち落とせた時にだけ、わずかに動物性たんぱく源を摂取できました。要するに、慢性的栄養失調がデフォルト(基準)だったわけです。
白米を作っているといっても、それはセレブの食事や役人の禄のための、年貢です。
マルッとほぼすべて持っていかれるもので、自分たちが口にできる食糧ではありません。
毎日、好きなだけ白米や肉魚を食べることのできる現代の生活とは、まるで異なりますね。
一方貴族は、一日のペースも、今とはずいぶん違っています。
きっと今のおじいちゃん世代の方が、貴賤問わずキビキビ活動されているでしょう。
官僚は、基本徒歩で出勤ですが、かなり高位になると牛で出勤も可能でしたが、きっと普通に歩くほうが早いですね。
しかも、方位が悪いと彼らは「方違え」を理由に出勤しないという、最強チート技を気軽に発動していました。
現代では言い訳にもなりませんが、その時代の貴族の人々は、大真面目にそうやって暮らしていたわけです。
上下いずれの階層にしても、生活環境が極端で、現代がいかに融通のきく環境であるか、あらためて実感できます。
富がごく少数の貴族階級に集中し、肉体労働をせずに暮らせるのでおなかが空かなかったのか、食事は朝夕の2回です。
ただし豪華に見えても栄養面では偏っていて、庶民とは別の意味で栄養失調傾向だったようですね。
ぐうたらにも見える貴族階級ですが、その分思索にふける時間がたっぷりありました。
途方もない時間というのは怖いものです。時間があればあるほど、一人で考えれば考えこむほど、マイナスで恐ろしい妄想に憑りつかれます。
究極に狭い人間関係のなかで暮らし、今日の味方は明日の敵となる政争(心理戦)を日々繰り広げているのでなおさらです。
上流階級だからこそ、心の闇に囚われ恐怖し、苦しんでいたのかもしれません。
読経や日記執筆などの「文字を書く・読む」時間は、深く思いつめる心から少しでも解放され、ともかくにも一定の時間をやり過ごすことができる「救い」でした。純粋な執筆意欲や信仰心とは別の、精神衛生上の効果も見出したことでしょう。
3.紅を和楽器で(完成版) X kurenai play by japanese instruments
平安時代といえば、施政者たちにひっぱりだこだった安倍清明も有名ですね。なぜでしょう?
秘密部署とはいえ陰陽道担当の国家公務員(中央官僚)であり、40代以降からの公務で当時としても遅咲きでした。
たんなる一介の役人にすぎない彼が、今日まで筋肉超人並みの伝説とともに伝え継がれてきたのは不思議です。
しかし、なぜだか分かりませんがもともとすでにラッキーマンであった道長にさえ敬愛された「超絶ラッキーマン」だったのは確かでしょう。
幸運という才能は、神めいていて凄いですね。
自身の生存中に名を馳せるには、運やめぐりあわせという要素が必要です。
紫式部も、たまたま彰子の教育係が空席だった、という偶然があったからこそ、道長に引き上げてもらうことができました。
清少納言という、今をときめく有名な文筆家が定子側にいた、というめぐりあわせがあったからこそ、紫式部は奮起できました。
もし、身近に運を呼び寄せるラッキーマンがいたなら、小さなことから大きなことまで、何かとあやかりたいものですが、最終的に平安時代しだいに『政治がぜんぶシャーマン(お祈り)状態!』となってしまい、その反動として武道リアリズムが台頭してくるわけですが、それはまた別のお話……。
平安時代とは、生命の格差が激しく、また、文字や道具はまず与えられない世の中であった、ということを覚えておきたいです。一般庶民である自分たちは(セレブの皆様はスルーしてください…)、当時の庶民層の多くが望んでも一生手にすることができなかった『紙』と『文字』をやすやすと手にしています。
その貴重さを思い出す、良いきっかけになるといいですね。
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