「知る・触れる」編 ~知るきっかけづくり~
【第9回】 日本の武道を、知っていますか?
みなさんの背中はぴんとしていますか?
しっかり体を伸ばしてないと、周囲の変化に気づくための神経物質が体の隅々まで素早くゆきわたりません。
それは命の危険とつながります。
『自分が何を考えどう生きるのか』という姿が、すべて丸裸に見えるのが武道です。
相手と向き合いつつ自分と向き合っていく「心の鍛錬」ですね。
2.養神館合気道、aikido Shioda Gozo demonstration part1 1978-1981塩田剛三
日本の武道は、主に自分の身体、刀(剣)で自分の精神力をどこまで高められるのかを志向するものです。
微分積分のように生と死の境目をどこまでも切り刻んでいくと宇宙的な広さがあります。
そこは哲学の場所で、そこまでたどり着かれた名人はさらに先へと進みます。
もはや、誰にも追いつかれず共感も得られない場所だとしても、おそれず(おそれながら)先に進まれます。
文字を、ひたすら書き、研鑽し、また書いて、研鑽し…という無限の鍛錬は、時に苦しく感じることでしょう。
そんなときは武道を歩んでいる方々の姿を見つめるといいでしょう。
精神的な鍛練の道に立ち止まる暇などあるだろうかということをはっきり示してくれます。
武道で鍛錬を怠るということは『ぶざまな死』を意味しています。
『自分はどこでどのように死ぬか』ということもよく見つめなければ、生きる道もまた見えてきません。
文字の鍛錬をしなくても、即座に生命の危機にはなりません。ただ鍛錬しなかった人がそこに居るだけです。
しかし、命をかけて生涯鍛錬していった文字や人の姿はきっと美しいし目を惹きつけられるでしょう。
生きている間に評価されることはなくても、時間が評価してくれることもままあります。
人が文字を書く目的は、お金(生活)の為だけではないのです。
入門して1週間、1か月、1年程度で、全てを悟り無敵状態になった人などいません。
執筆も、鍛錬を始めたら、すぐに大作家になって誰からも大絶賛されるのではないですね。
欲を出せば、先は崩れるばかりです。
だからこそ、毎日無心に励み、続けていきましょう。
考えを深める過程を大切にしながら、自分の目指す道にのみ、集中して進んでいけるといいですね。
- 第10回(予定) 『(大寺院でない身近な)寺』について知っていますか?