As Story
作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82

2話―2
外の暗闇以外に何か青いものが窓越しに見える。それも近い……。梓は息をのみ込んだまま吐くことを忘れ、震える手で更に1mm程度カーテンの隙間を広げた。
目……?即座にカーテンを閉じ、その場から飛び退こうとしたが、混乱するあまり足がもつれ、二歩退いたところで強かにしりもちをついてしまった。
「梓!いい加減にしろ!」またも父親の怒鳴り声が響いたが、眼鏡がずり落ち呆然自失の男の耳には全く入ってこなかった。本能が体を窓から遠ざけようにも目を背けようにも、全身の力が抜けてしまい、言うことを聞かない。
いや、今動くとかえって危ないんじゃないか?下手に動いたら窓破ってくるんじゃないか? 深い呼吸を繰り返し、ようやく我を取り戻した彼は、ガラスの向こうを見透かさんとばかりに前方の一点を凝視し続けた。
あれから壁の時計が長針を二つ進めていた。男の呼吸はすでに落ち着きつつあった。走り屋の車もどこかに去ってしまったらしく、彼のいる居間は静寂が続いていた。更に1分の時間が経ち、しびれを切らした男は、音をたてないようにして窓際に接近し、バルコニーに背を向けるようにして、カーテンの端の脇に立った。
浅く息を吸い込み、息を止めた。意を決した梓は、カーテンを思い切り振り払った……。
下弦の月の光に照らされ、窓越しに少女の姿が浮かび上がった。チェック柄の中学の制服を身に着けた少女であった。正確には少女のイラストであった。
「あっ……」
それはバルコニー出入り口の窓に貼り付けられた、フィルムタイプの『等身大至紀智秋ポスター(冬服ver)』であった。
昨年のゲームショウ物販コーナーで購入した物であった。長らく放置していたが、智秋が憐れに思われたため、昨日の夜、つまり5,6時間前に窓に貼り付けたのだった。周囲の空気は凍りついていた。命がけでカーテンを開けた男は、生きてはいたが魂は抜けているようであった。
「こんなの、ありかよ……」
雪崩の如く疲労感が押し寄せてきた。喉が干上がっているのに気づき、よろよろとふらつきながら冷蔵庫に向かい、飲み物を探した。が、ドアポケットに料理用にと母が買いだめしたトマトジュースのパックがすらりと並んでいるだけで、喉を潤してくれそうなものは見当たらなかった。ちっ、と舌打ちした時、彼が元々玄関に向かおうとしていたことを思い出した。
「そういや外の自販でコーラのボトル買うんだったな」ぼそっと独り言をつぶやいた。
体ぶつけてコケたり、ポスターを化け物と間違えたり、さっきから俺は何やってんだ? と、先程までの騒動の顛末を思い返し、窓際の絵に文句の一つや二つぶつけてやろうかと、再び窓際に向かった。
しばらく無言で窓の花となっている少女を眺めていた。辺りに光はないはずだが、四六時中この手のイラストや動画を閲覧している梓には、目の前の少女の服や肌、目の色、髪の色、そしてソックスのワンポイントまでもが鮮明に想像できる。
肩より少し下くらいの背丈の2次元少女と見つめあっている――というのは一方的な思い込みだが――うちに、捨て鉢になっていた気持ちが急速に収まっていくのを感じた。
「……ま、いいか」息をつき、自分に言い聞かせるように、一言つぶやいた。
体を翻し、居間の壁の時計がかかっている方を見た。白い盤面上に12を過ぎた辺りを指す長針が浮かんで見えた。既に二時を回っていた。明け方までインターネットを徘徊したり、ゲームに明け暮れていることには慣れているはずであったが、今日はすぐにでも床に就きたかった。
自室までは10歩程度あるが、どこにも激突することなく入口にたどり着いた。くだんの失態を思い返し、おかげでジュース1本分買わずに済んだからいいか、と自嘲気味に笑いドアノブに手をかけた。その時……
梓のシルエットがくっきりと部屋のドアに浮かび上がった。男はとっさに振り返り、バルコニーの入り口を睨んだ。
約一秒、窓の斜め上方から強烈な白光が差し込んでいるのが見えた。カーテンは開け放たれたままであったため、白光と男を隔てるのは透明なガラスのみである。その脳裏に刻ませんとばかりに男の眼に光が突き刺さった。
梓が呆然としているうちに、白光は消え始めていた。その様子も異様であった。光の縁が円形にくりぬかれたようになり、その円がみるみる小さくなり、遂には消えてしまった。
「な、何だよ!あれ!」
ようやく気を取り直した梓は、叫びながら窓際に駆け寄り、ガラスの入り口を押し開けた。慎重にバルコニーに出て、柵から身を乗り出し目を凝らしてがむしゃらに四方八方を何度も見まわした。だが、何もなかったかのように街灯の電撃殺虫器にヒトリガが焼かれる音がバチッバチッと響くばかりであった。
梓は俯き、歯を食いしばり、バルコニーの柵を力の限り握りしめた。再三にわたり正体を見逃した悔しさからか、こみ上げる感情で肩が打ち震えている。しばらく男はその場から動けなかった……。
男が何やらつぶやき始めた。
「何だよあれ……。……何だよあれは!何なんだよ!すげぇぞ!」
この男、何も落ち込んではいなかった。まさかさっきのは、武者震いだったのか。
梓は玄関に向かって突進した。玄関の傍の寝室の奥から父親の怒号が再び響く。だが、それどころではなかった。とにかく外に出たかった。光のあった場所の下に何かあるかも知れない。いや、無くてもいい。無性にあの場所に行って現場を確かめたくなてきたのだ。
玄関でサンダルをつっかけ、ドアノブに手をかけた。ふと男が動きを止め、後ろを振り返った。その瞳が見つめる先には、男を嵌めた「窓の花」があった。
おかげですっげえ楽しくなりそうだ。冬服もに合ってるし、最高だ、智秋! 胸の中で叫ぶと、思い切りドアを押し開け、一歩を踏み出した。玄関脇に「光曳」と刻まれた表札があった。
巨漢のオタク、光曳梓が現実と虚構を行き交う物語に入り込んだ瞬間だった。

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