As Story

作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82



3話―(2)



 男は思わず息を飲んだ。満天に散らばる無数の星々がその薄い眼に飛び込んできた。


――こんなに綺麗な星空が見られたなんて……


 恍然としてその場に立ちすくみ、声にならない声を発するのが精いっぱいだった。眼前に広がる天空の絵画に今まで気が付かなかった事への悔恨、そして筆舌に尽くし難いその壮麗さへの感激を超えた嘆きのような感情が、二次元にしか興味を示さなかったオタクの中から噴き上がってきた。

 光曳は身も心も天に魅入られ、あまり広くはない歩道の上で大きな体をゆっくりと回し、幼い子供のようにはしゃいだ。愛らしいとか清楚といった類の形容詞とは対極の概念を体現したような男が、泥酔しているわけでもないのに笑いながら真夜中の道端で横旋回を繰り返しているのである。人通りが無いとは言え――いや、無いだけに尚更不審極まりない。

 当の本人もこれほどまでに頭上の星空に感激していることに驚いていた。確かに満点に散りばめたように無数の瞬きが見えるが、小学校の林間学校のキャンプ場で見た時の方が絢爛豪華であったように思える。星空に感激した刹那に気を緩めた途端、中で張りつめていた様々な感情が堰を切ったようにあふれ出てくるような感覚だった。

 一時の間満天の絵画と一体となった後、男はとても晴れ晴れとした表情をしていた。全ての目的を完遂したかのような……。


――このまま帰っていいんじゃないか?


 やにわ発せられた内からの声で現実に引き戻された光曳は左右に頭を振り、唇を真一文字に引き締めると、キっと前を睨んだ。いつの間にかポイントに4,5mというところまで接近していた……。ゆっくりと呼吸をして気持ちを落ち着ける。もう少しで結論が出ようとしていた。

 ポイント周辺の状況は、街灯が無くてもだいたい把握できたが、路面を仔細まで確かめたかったので、殆ど街灯の光が僅かにかかっている道路の中心に寄って行った。

 たばこの吸い殻、吐き捨てられたガムが変色してできた黒いシミ、変色したレシート、何故ここに落ちているのか不明な子供用の靴……。ポイントの10m四方を路面に以外にも、沿道の建物の壁や歩道のガードレール、路肩の金網など、可能な限り精緻に調査したが、目ぼしいものは何一つ見当たらなかった。

 こうなることは十分に覚悟していたつもりであったが、実際に目の当たりにすると光曳は肩を落とさずにはいられなかった。


「っくしょん!」


 高ぶっていた気持ちが急速に委縮しはじめ、今更ながら丑三つ時の肌を切るような冷気に気が付き、静寂を突き破る派手なくしゃみをした。マンションの壁で発生した山彦が僅かに響いた。

 肌の起伏がはっきりと見えそうなくらい鳥肌を立てている両腕を、ダウンコートの袖越しにさすりながら歩道に引き返し、その場にへたり込んだ……。

「寒ぃーし、さっさと帰ろ」

 自分に言い聞かせるようにそれを発すると、やおら立ち上がろうとした……。


 ん? 突然背後から迫る気配を察知し、その場から飛び去りつつ体を翻した。

 慎重に目を凝らしてみると、何やら黒い物体が蠢(うごめ)いている。黒猫の子供が一匹、目の前にちょこんと座っていた。寒さに震え、憐憫の情を誘うようなか細い声を絞りだしている。丸く大きな黒目は真っ直ぐ男の眼を見つめていた。

 首輪はつけておらず、野良猫であるらしかった。捨てられたのか、生まれつき野良なのかはわからない。光曳はそれよりも、背後の子猫に全く気が付かなかった事を歯がゆく感じていた。


――畜生、人間に媚びまくってそうなこの猫いつの間に近づいたんだ?


 光曳はいまいち煮え切らない表情であった。さっきの気配、こいつじゃないんじゃないか? この程度の猫なら気配があってもたぶん振り返ったりしない。もっと鋭い、気配なんてもんじゃない……。殺気のような……。


――カチャン。


 どこかで聞いた覚えのあるような音がした。耳を澄まさずともはっきりと聞こえた。

 光曳は眼をすぼめ、音のした方向を見据えた。マンションの周囲に植えられた高木の列のひとつから痩身な人影がゆっくりと現れてきた。
バリバリ、バリ……。 落ち葉を踏みしめ、足元の低木を押し払い、ゆっくりとこちらに近づいてくる。その距離、約10m。人影から発せされる威圧感のようなものに気持ちがしり込みし、肉体から神経をすべて抜かれたように固まってしまった。

 光曳は何とかして目線だけを動かし、人影から音の出そうなものを探し出した。人影の手でちらりとかすかに街灯の光を反射したそれを見つけるのは極めて容易だった。その瞬間、光曳のこめかみから顎の下にかけて緊張の汗が1粒、左の頬を斜めにつたって下に落ちた。眼も唇も固く閉ざし、ただその瞬間が来るのを待つしか許されなかった。



沈黙を守る人影の右手に握られた自動式拳銃(オートマチック)の銃口が、光曳に向けられていた。