As Story

作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82



4話―(2)



 覆面の本能が後頭部の直撃を交わしたが、背骨を強かに打ち、刹那意識が薄らいだ。そして、激昂と共にP220を我が身の脇に立ってるであろう光曳に向けた。「野郎!シロブタの癖に逆らってるんじゃねえ!」

 そう言い放ってから覆面男は呆然とした。己の全重量を右エルボに託して巨体を宙に躍らせている猛牛が、覆面の視界を覆いつくし、自由落下を始めていた。
 僅かに安全装置の確認の遅れた覆面がこれを避けられるはずもなかった。

ボスンッ! 115kgの負荷がかけられたエルボが、お手本の如く鮮やかに覆面のみぞおちに刺さった。

 覆面の口から消化中の補給食が吹き出し、バラクラバと男の顔面の隙間に飛び散った。胃酸の悪臭が大気中に散らばることもできず男の鼻を激しくつんざいた。不幸中の幸いか、グラスの向こうで白目を剥いて失神した大男の嗅覚に、この臭いが伝わることは無かった。

 覆面にエルボをお見舞いしたはいいものの、光曳も体側を地面に強かに打ち付けた際の激痛で、呻きながらのた打ち回っていた。1メートルにも満たない高さから落ちただけなのだが、115kgという巨体が災いした。
 ふと視界の前方に、覆面の手が目に入った。手にはP220が握られている。覆面が動き出す気配は見られなかった。形勢逆転にはまたとなチャンスである。裏を返せば、この機を逸すると、光曳の命がないということでもあった。
 光曳は胸の中で咆哮をあげ、拳銃を握る手に向かって匍匐前進した。一歩足を進める度に針で神経を直接刺したような痛みが打撲傷を負った右半身全体にほとばしる。
 長い……。たった2、3メートルの距離なのだが、足がいうことを聞かず、思うように前進できない。何よりいつあの男が起き上がるかわからないのである。あと一歩のところで肉体が追随できずもがく自分があまりに情けなかった。ふと、2時間前に同じような状況を経験したばかりであったことを思い出した。あの時は14歳の少女のイラストがターゲットであったが。光曳は不謹慎にも口元が緩み、張りつめていた緊張が抜けてしまった。途端に悶々としていた何かが光曳の中で吹っ切れた。
 逸る気持ちから速く進もうともがくのを止(や)め、静かに移動することを最優先に前進した。街灯が二人を舞台のスポットライトのように照らし出す。光曳がじりじりと身動き一つしない人間にすり寄って行く様は、戦争映画で仲間を殺害されたシーンに似た光景であった。
 容易に拳銃に手が届く距離まで接近した。音も立てずに吐く息の靄が、光曳の口の隙間から漏れ出すように現れ、闇に溶け込んでいく様が繰り返されている。眼前には力なく放り出された覆面の右腕がある。光曳は顔の向きを変えずに横目で右を見た。バラクラバとサングラスのせいで男の表情が把握できない。代わりに食物が腐敗した臭いが嗅覚をつき、危うくむせ返りそうになった。念のため大男の眼前で手をかざしてみたが、全く反応がない。
 光曳は覚悟を決めて慎重に封面の手に収まっているP220に手を伸ばし始めた。男の体のの動きとP220を何度も繰り返し見つつ、手は自分でも動いているのかわからなくなる程にゆっくりとした動きだった。心臓の音も抑えんとばかりにもう片方の手は無意識に左胸を抑えていた。今し方この男の仲間と思しき人物の声がした方向で、まだ猫とやりあっている音がしていた。今の光曳の状況では耳に入るはずもないが。

 二人のはるか上方に浮かぶ街灯から、蛍光灯がじりじりと静かにうなりをあげている。接触が悪いのか、時折蛍光灯が明滅を繰り返す時があった。その度に光曳は激しい明度の変化で目を眩惑された。そして、その時はきた。
 光曳の左手の人差し指が、男が気絶しつつも握りしめているP220に一瞬触れた。ほぼ同時に街灯の明滅が始まった。連続写真のように光曳が宵闇に映し出される。光曳は銃身を鷲掴みにして奪い去ろうとしていた。覆面男の手からP220が引きはがされる。

――よしっ! 光曳は胸の中でガッツポーズをつくった。あとはP220を握りしめた左手を自分の体に手繰り寄せればよかった。そして、P220への握力を込めなおそうとした刹那――。

P220が左手から逃げた……。
 正確には別の手にP220のグリップを掴まれ、圧倒的な力によって光曳の左手から剥がされたのだ。

「しまっ!……」街灯に照らし出された静寂の舞台を突き破る絶叫は最後まで続かなかった。右方向に逃げるP220を取り返そうと光曳が上体を起こした瞬間、覆面が体を左に返しながら丸太のような左腕を突出し、顔より太い白首の喉笛を握りしめた。

「がぁっ……あっ……」肺から呼気が漏れる一方で、吸気ができない。大男がのどを掴んだまま立ち上がり、光曳を乱暴に立ち上がらせた。

――デカい……。

 覆面のがたいの大きさは際立っていた。光曳の頭頂部が男の顎の高さにあり、二の腕はジャケットの袖のしわが伸びきるほどに膨張している。こんな猛獣みたいな野郎に喉を本気で掴まれたら……。心臓が縮み上がる感覚がした。顔面が蒼白になり、まさに窮鼠となった光曳は怒号を発し、男の手を振りほどこうとした。男の腕を叩く、至近距離から蹴りを入れる、体をよじらせる。だが、大男は全く動じなかった。意識が混乱しているせいか、巨人の足元を例の植栽へ駆け抜ける小動物の影が見えた気がした。

「うおぉりゃぁ!」
 地響きのような雄叫びで光曳が反射的に視線を戻すと、己のかかとが数ミリ浮いていた。朦朧とした意識の中にあって、尚も豚男に激しく抵抗され、再び光曳の体が地に着く。だが、抵抗が功を奏したのも束の間、覆面は更に聴覚が潰されるような雄叫びをあげ、光曳を持ち上げようとした。あまりの大爆音で街灯の蛍光灯が小刻みに振動した。マンションの1階の住戸でも幾つか部屋で明かりが点けられ始めたが、鬼気迫る咆哮に恐れをなし、窓を開ける物好きはいなかった。