As Story

作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82



6話―(6)



 この場所でアビーの攻撃を回避した時の敏捷性はかけらも残っておらず、すっかりいつものさえない白ブタに戻り負け犬の面を仇敵に晒していた。
 光曳の肩の自由を奪おうとわしづかみにしている覆面の熊よりも巨大に見える手を振り切ろうと上半身を捻ろうとした時、左の肋骨の下のあたりにコンクリートブロックをぶつけられたような激痛が走った。すぐにそれは上半身全体に広がり、胃の内容物が男の図太い食道を遡った。
 紅潮していた光曳の面は急速に張りを失い、見る見るうちに土気色に変わっていった。男の瞳から脳に送られてくる映像は輪郭が定かでなくなり、次第に明度を失っていった。腹部で発生した激痛は時と共に激しさを増すばかりであったが、光曳の心は全く持って泰然自若としたものであった。光曳には己の体に起きた異変の原因そして結末までを真冬の夜空に映る星座の如く明瞭に想像できていた。腹部にあの殺人鬼の拳がめり込んだんだろう。もちろん、あいつが素手で殴るはずが無い。ついさっきまで手にしていた脇差が自分の体のど真ん中を、肝臓と腹部の太い血管を切り裂き背中の皮膚を貫いてその忌々しい先端が顔をのぞかせていることだろう。背中に手を回すとそれを肌で感じてしまうからそれはよしておこう。口の中に逆流してきたものは血か?それとも夜中に口にしたスナックか?
 命の灯が消える間際に今までの思い出が走馬灯のように駆け巡るとはよく言ったものだが、そのようなものは少しも浮かび上がってこなかった。どうでもいい事ばかりが脳裏を駆け巡る。――つまりは自分の人生は思い出す価値の無いものばかりだったのか、
 殆ど光を失いつつある世界を呆然と眺めながら声にならない声で自嘲の言葉を吐いた。
 忘れかけていた激痛が俄かに腹部の同じ位置で再び息を吹き返した。剃刀の刃ほどに薄く開けられた瞼を通して目の当たりにしたものは、アビーによってじわりじわりと自身の体躯から引き抜かれる脇差の血の内臓の繊維に染まった刀身であった。既に声を出す力すら失った男は口から夥しい鮮血と未消化のモノを垂れ流しにし、閉じた双眸から滲み出るような涙を流しながら、生命の活動を終えつつあった。
 重力を感じない、自分が立ち上がっているのか倒れているのかもおぼつかない世界を光曳は見ていた。瞼はまだかすかに開いているはずなのだが光というものが元々存在しない、そのくらい重たく、深刻な闇を見つめていた。
――まだ腹部に痛みがある。目だけ違う世界を見てるのか?まだ体はアイツに捕まれているのか。死ぬ直前に完全に体がいかれちまったみたいだな。
 この期に及んで自己をあざける笑みを浮かべながら――実際に顔の筋肉がそのように動いていていればの話だが――、遂にその双眸を完全に閉じようとしたとき、その時が訪れた。
 誰も自ら志願して行おうとしない、あの万能な儀式の条件が満たされたのである。


魂がこの世界から離脱するとき――。


 シンプルであるが、これが例の儀式を執り行うための唯一の条件であった。光曳はたった今、それを満たしたのである。ふと閉じられた瞼の隙間から一条の光が滑り込んできた。「えっ?」思わず光曳が瞼を全開にした。完全なる闇で開き切っていた瞳孔が強烈な光をことごとく通してしまい、視神経から光の代わりに痛みが伝わった。
――根拠はないが何となく物の気配がする。辺りがまっ白なのはまだ眼が慣れていないからか。

覚醒。

 2段階ある儀式の内の1つめが完了した。光曳は無意識に次の段階に入っていた。
――自分の声が聞こえる。心の中とかじゃなくて、耳から聞こえる!
 これは喜ぶべきなのか、それとも更に深い階層の地獄に来てしまったのか、光曳は体を動かすのを忘れて驚愕し、この上なく戸惑っていた。四方八方から閃光手榴弾を炸裂させられたような混乱の中、肥え切った自身の体に力があることに気が付いた。恐る恐る指を動かしてみる。緊張しているせいか何かの後遺症なのか、僅かに痙攣するもののとりあえず調理前のフランクフルトみたいな白くて太い代物はその機能を留めていた。
 次に、絞りと焦点を取り戻した眼球が目の前に広がるベージュ色の天井と蛍光灯を鮮明に映し出し、肉体が現在仰向けになっていることを脳に認識させた。
 その瞬間、肉団子のような肉体が弾けるように起き上がり、ぎしぎしと悲鳴にしか聞こえない金切り声が男の居る空間に響き渡り、どさりとなにか重たいものが男の右下方に落ちる音がした。慌てて音のした方を見ようとしたが、真っ先に目に飛び込んできたのはよく洗濯されて暖かい空気をたっぷりと含んでいる綿の掛布団であった。そして巨躯の下には悲鳴を上げた張本人、ベッドという器物が健気に120kg弱の負荷を支えていた。先程下に落ちたものは運動部の中高生が背負っているのをよく見かけるスポーツバッグであった。
 自分が飛び起きたのと同時に落ちたってことは、これが俺の体に乗っかってたのか?
 そのくらいしか考えられなかった。ここがいつの時代でどこなのか、これから我が身に何が起きるのか皆目見当もつかなかった。今までのが夢だったのかとも一瞬思ったが、ならば騒々しくポスターが貼り散らかされている自室のベッドで起きるのが筋である。再びアイツがそこら辺の物陰からひょっこり現れるのだろうか。とりあえず一命を取り留めたようにも見える光曳であったが、その表情は未だ売れ残って変色した牛バラ肉のような色をしていた。
 だがこのとき光曳は第2段階の儀式である「起床」をどさくさに紛れてやってのけてしまっていたのである。

 ふと、つんとした、決して幸せな気持ちにはさせてもらえなさそうな臭いが男の鼻孔に忍びこんできたことで我に返った。

「そういやここって、……病院?」