As Story

作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82



6話―(5)



 倒れ込む光曳のすぐ脇で、ついさっき光曳がぶつかったもの――恐らく通行人なのだろうが――に覆面とその脇差が突っ込む様が視界の隅に映っていた。
「……すまないっ」光曳は一言つぶやいた。どのような言葉を使っても済まされることではない。そんな光曳の思いが、今の自分の回避行動で犠牲になった人間に聞こえるはずの無い、声を押し殺した償いの文言となって漏れ出た。そして、せめて犠牲になった人間の顔を卑怯な脳みそに刻んでおこうとアビーと共に倒れ込んでいく者の顔面に視線をやった。十数秒間、地上で人が生きるために最低限必要な行為――呼吸――を忘れた。腫れぼったい上下の瞼が今までの限界を超えて大きく見開かれ、全身の血流がぴたりと止まる感覚が全身を貫いた。そのつぶらな瞳の奥の網膜はよく見た顔を捉えていた。
「ね、ねえさん!」全く声にならなかった。男の眼が熱いもので満たされ、視界は滅茶苦茶に崩れ、気道は唾液と呼気で入り乱れ、心臓は収縮し、全身は脱力し、刹那身体の全ての機能が停止したかのように思われた。
 地響きをあげながら100kgをゆうに超える巨体が2体とか細い人間の体が地面に衝突した。いつものこととばかりにあっさりと立ち上がったのはアビー、そして次に肘をつき、顔を伏せたまま上半身を起こし、対戦車榴弾の炸裂を押さえこむかのごとく口を真一文字に結び全身をうちふるわせながら体を起こしたのは光曳だった。3人目の人間――光曳のかけがえのない姉弟――は両腕を投げだし、容姿端麗な顔に並んだ双眸は驚愕と苦痛に見開かれたままであった。脇差が抜き去られた鳩尾からあまりに鮮やか過ぎて気味悪ささえ感じる紅の動脈血が溢れ出ており、躯の周囲のアスファルトをどす黒く染め上げていた。
 相手は凶器を携えているのに対し、自分は丸腰。だがそんなことにかまっている余裕をしたたかさや駆け引きを知らないこの若者は全く持ち合わせていなかった。ただ激情に任せて相手に突進する信号のみが男の大脳から全身に発信されていた。
 我を失い、浮き出た毛細血管で真っ赤に充血した二つのまなこが顔の中ほどに居座り、平時の倍の心拍と血圧で拍動し続ける心臓によって全身の毛細血管が押し広げられ、光曳が纏う皮膚が見事なまでに紅潮する様は、さながら赤き鬼神であった。
 アビーも口許は余裕の笑みを浮かべつつも、脇差の構えは稽古の手本のように理想的な構えをとり、覆面に浮かぶ漆黒の瞳孔は若き白ブタの筋肉の動きをモーションキャプチャのように緻密に捉え、家畜を1頭狩る準備にゴキブリの入る隙もなかった。
 二人の睨み合いが続いた。2分、3分、4分……光曳はこのまま正面から突っ込んでも見す見す自殺しに行くようなものだと気付き始めていた。そして正気を取り戻し、打開策が浮かぶのを待とうとしていた。しかし、時間と共に記憶の中の姉の姿、非業の死を遂げた姉の苦痛に歪んだ顔が絶え間なく浮かび上がってきて光曳の内奥のマントルが沸き立ち、目から滴るしずくを味わうばかりであった。
 沈黙の記憶が5分を記録しようとした時、遂に耐えられなくなった光曳が薬物に侵された闘牛上の闘牛の如く鬨の声をあげながら無策に正面から突っ込んでいった。己の命などどうでも良くなっていた。どうせ勝ち目などない。せめて自分の全敵愾心を向ける奴の鼻っ柱をへし折ってやりたかった。だがそれも叶わないだろう。最後に定年をひたすら属服し続けるというこの男の最悪の性癖がぶり返してしまった。
 覆面のリーチに差し掛かっても光曳は全く変化を見せず、沈着かつ怜悧に成り行きを読んでいた覆面にことごとく利き腕側の肩を掴まれた。もう一方の腕が光曳の腹部を縦に貫く大動脈を断ち切らんと脇差を後ろに目いっぱい振りかぶった。
――くそぅ……―――弱弱しい、語尾がフェードアウトする声が漏れた。