As Story

作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82



6話―(1)



 身じろぎひとつ許されなかった。全ての光明を飲み込む漆黒の瞳孔に向けた目線を外そうとしたが、金縛りにあったかのように体が言うことをきかない。通行人は何事も無いかのよう張り付いた顔をピクリともさせず、二人を避けて足早に通り過ぎていく。
「ア、アビ……」
 殆ど息の掠れる音しか聞こえない声を辛うじて絞り出した。だが、自分の耳に予想以上に大きく響き、己の声で右手がビクついた。
 出し抜けに現れた薄汚い死神に光曳は動揺の色を隠せなかった。何故再び光曳の前に姿を現したのか。一度殺したのには飽き足らずまた俺を殺りに来たのか。それも日の昇った明るい時に。よりによって通勤・通学の人間が大勢いる朝のこの時間にだ。そんなことはあいつの仕事には関係ないのか。何気無い素振りで周囲を見回してみたがパートナーだった痩せの姿が見えない。ビルの陰にでも隠れているのか、それとも正面の大男に……。それともう一つ、あの時俺が締め上げられた時に吐き出した唾液の断片が乾いてできたとみられる白いシミが黒いマスクの所々にこびり付いているが、あいつはあの時のバラクラバを被りつづけているのか?
 自分の置かれている状況を把握しようと光曳の頭の中で自身の声が一斉に騒ぎ出し、それが一層光曳の動揺を助長した。
 底の固い革靴を履いたアビーの右足がじりじりと半歩前に突きだされ、光曳との間合いをさらに詰める。
 巨漢の殺人鬼から烈々たる殺気が熱を帯び、その巨体の周囲に陽炎が見え隠れしている。そして極めてゆっくりとではあるが範囲を広げ、光曳を飲み込もうしている。
 立ちすくむ光曳の右の指先に陽炎が触れた。生暖かい感触が指の末梢神経から即座に伝達される。それを感じ取った男の脳が肉体に怒号をあげた。――逃げろ!早く!
 目を皿にしてアビーに見入っていた光曳が更に目を丸くすると刹那、大玉のような体躯を翻し右足で地面を蹴った。白ブタ野郎の咄嗟の行動が既に予定通りであったのか後ろから殆ど同時に反応したアビーの腕が伸びる。一瞬、光曳の肩に岩から削りだしたような硬く図太い指先が引っ掛かった。光曳が歯を食いしばり海老反りになりながら肩を振って辛うじてかわした。体勢を戻し数歩目の右足を踏み込もうとした時、意に反する方向に引力が働いた。総毛立つ寒気が全身にほとばしる。ただ一箇所、右足を踏み込んだ際に後ろへ振り上げた右腕だけは寒気の代わりに関節が千切れそうな激痛に襲われた。
 光曳はここ数時間のうちに幾度となく心の臓が止まる思いをさせられてきたが、その貴重な経験をまた一つ積むことになった。走り去ろうとした勢いのまま恐怖にゆがんだ顔を後ろに向けると、視界の下方をかすかな煌きが横に流れるのが見えたのと同時に熊の手のように大きく薄汚い手に締め上げられ、うっ血して膨れ上がっている己の右手首が目に映った。更に目線をずらすと、先程の煌めくモノが見える。数秒後の自分の運命を悟った男は束の間、心臓が縮み上がり、氷の張った湖に突き落とされたような震えと苦痛に襲われた。
 光曳の予想通りアビーは左手におさめられている脇差を握りなおした。持ち主に不釣合いな精緻さで鍛錬を施された刃(やいば)は朝日に負けることなく冷酷な光を放っている。その光を浴び、恍惚として目を細める大男の表情が覆面越しに窺えた。
 突然右腕が圧倒的な力によってアビーに引き寄せられた。
 しまった――。腰を落とし力に抗しようとしたが既に手遅れだった。100kgをゆうに超える光曳の巨体が一瞬宙に浮き、212cmの高さを誇る肉の要塞に顔面を強かにぶつけた。ボディーアーマーを装着しているとはいえ、凡そ人間とは思えない固い衝撃が前頭葉の頭蓋骨を縦横無尽に響き渡った。目に映るすべてのものが二重三重の分身をつくり、自分の周りをぐるぐるとまわっている。視線が左右に大きくぶれ、駅に吸い込まれていく無数の通勤客が映った。誰も彼も命の危機に瀕している光曳を全く気にかける素振りはおろか、眉のひとつも動かさない。皆、ロボットのように同じ角度で斜め下を向き一定の歩調で歩みを進めている。
強烈な脳しんとうを起こし混濁した意識の中で周囲の異常な状況を沈着冷静に把握しようとしている自分がいた。自分自身をを外から見ているような、至極奇妙な気持ちが光曳の中で膨張していった。次第にそれは絶望の深遠へと続く未来の想像に様相を変えていった
――ここは恐らく、いや間違いなく死後の世界。俺は……死んだんだ。
 腫れぼったい光曳の双眸がとらえた光景が否定しようのない現実であることを自らに言い聞かせるように、胸の中でゆっくりと低い声を発した。
――とするとアイツも死んだってことか?
 それは違うか。光曳は即座に否定した。理由は無い。ただ、平和ボケと世界からしばしば揶揄されるここ日本においては、あの大男が自殺でも図らない限り斃れるような事は無いように思えたのだ。アイツが自殺?そんなことは更に考えられない。あの殺し屋と運び屋のどっちが本業なのかわからない奴のことは殆ど知らないが、自殺どころか人から八つ裂きにされたってうごめいていそうな生命力を感じる。光曳が自問自答した。だが、それなら何故、アイツがここに現れたんだ?
 俄然、光曳の全身が戦慄した。ある単語――文明化社会、殊日本おいてはリアリティを全く失ってしまった概念――が疑問符と共に眼前に浮かび上がった。