As Story
作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82

7話―(2)
「おい!アビー!」分厚いライダージャケット越しでも竜巻のように荒れ狂う気流が全身を叩き、フルフェイスの裏の鼓膜に間断なく音の衝撃波を浴びせられていた。郵便配達の頃の約10倍の風圧に抗してきた首もそろそろ年季の入ったひな人形の如く逝ってしまいそうである。
「スピード落とせよ!こっちのマシンのことも考えろ!おい、聞いてんのか?!」
文字通り命がけで大男の真横に並んだ。
僅かずつだがまだ加速してやがる。コードの体力にも限界が来てるが、210km/hまで目盛が刻んである速度計が振り切れようとしているNinjaもエンジンも随分前から命を削って馬力を出しているような、断末魔の叫び声をあげている。
風速50mもの向かい風の中では2m離れた相手にさえ叫んだ内容が届くかどうか怪しい。当然二人はメットの内側にインカムを装着しており、常に明瞭な音声で会話ができるようになっているはずなのだが、右翼に並んだCB1300を駆るスピード並びに戦闘狂から全く返事が返ってこない。
「お、おい、どうしたんだよ……」全身に戦慄が走り、辛くも声を絞り出した。が、やはり返事がない。
ゴク――、喉仏が大きく上下し、鼓膜の内部に独特の音を伝えながらナメクジのようにねっとりとした液体が干からびた咽頭をくだる。脂汗というのは口腔内の粘膜にも発生するのだろうか。……また唾をのんだ。コードの口の中は味が無く妙に冷たい唾液が大量に分泌されていた。
ほんの僅かなコースのずれが致命的な事故に直結する状況で、元郵便局スクーターライダーは恐る恐る右横のマシンの手元を凝視した。ハンドルを握る手は何となく力が入っているように見えるが、スロットルが開いたままの状態で固定されている。
――や、ヤバい。このままじゃ本当に明日の朝刊に悪質な速度違反が原因の死亡事故で名を知らしめる羽目になっちゃうよぉ!
齢28歳。まだ世間では場合によっては未熟者だとか青二才と呼ばれることもある男は、すでに積立てをはじめている老後の年金をふいにしないためにも、深夜にもかかわらず罵声とクラクションの嵐を魁夷の相棒に浴びせた。ここでもし沿道に僅かでも民家が立ち並んでいたら、けたたましい騒音を住民に通報され、あの太い青年とのやりあった時の二の轍を踏んでいたかもしれない。しかし幸運にも道幅の広く真新しい国道は、水稲田や畑といった開闊地が水平線まで続く日本らしくない風景の中をぶっきらぼうに突っ切っていた。フルフェイスを付けているせいかそれとも仕事柄なのか、大音響に襲われたにも拘わらずCB1300をミニバイクのように乗りこなす巨漢の反応は極めて薄いものだった。
――うっ……もうすぐ直線が切れる……。
ままよ、とばかりにコードが息を止め前傾になり、可能な限り空気抵抗を減らす体勢をとり、極めて慎重に――彼らは今、拳一つ分ハンドルを切りすぎただけで0.5秒後には反対側の路肩に突っ込める速度で走っている――石像のように反応を示さない相棒の方へ車体を寄せていった。意識して目を逸らしていたスピードメーターが顔面に接近し、ボウフラのように揺らめくメーターの針の像が眼球の最奥に浮かびあがる。
「メーター、振り切れてる……」目から鼻から喉に流れ込む大粒の涙で泣き言も途切れ途切れに吐きながらも、より一層慎重に相棒の左ハンドルに手が届くところまで車体を寄せていった。奴に近づき、ハンドルを掴んでいる手をぶっ叩いてやればさすがに何らかのショックは与えられるだろうとコードは踏んでいた。あいつの横っ腹に蹴りを入れるという手もあるが、こちらが跳ね飛ばされかねないのでやめておこう。
いざ近づいたものの、近接した2台のバイクの間に強烈な大気の乱流が発生し、Ninjaの姿勢が大きく逆側に傾きそうになり、目を魚類のようにひん剥いてステアリングでバランスを整えた。驚きのあまり心臓を鷲掴みにされたような痛みひ弱な体躯を駆け巡った。歯がゆさばかりが募る中、思い出したようにコードが前方を見るとヘッドライトの光芒が途切れた先の闇の中にうっすらと浮かび上がるダークグレーの国道のセンターラインが緩やかな左カーブを描いているのが見えた。バイクのヘッドライトが照らし出せる距離はせいぜい数百メートル。くだんのカーブまで1キロメートルだとしても、到達まで20秒もない。いよいよコードが気違いのように相棒のコールサインを絶叫し、がむしゃらにバイクを寄せて両者の膝が軽く接触した。――今しかない。
「アビィィ!」
少し前まで二輪といえば原付か自転車しか触ったことのなかった青年が今、時速200キロを超える速度の中、片手でステアリングを制御し、もう一方の手を上半身が海老ぞりになるくらいに振り上げ、相棒の左手に鉄槌をくだした。
肉を叩く鈍い音が鳴り響くはずだった……。
コードが腕を振り下ろした瞬間、またしても乱流が二人の間に割り込み、青年の華奢な拳は巌のごときアビーの手をかすっただけでそのまま地面に引かれていった。
「あ――」

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