As Story
作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82

5話―(2)
万策尽きてあきらめのため息と主に力なく目線をあげると、前方の電柱に止まる一羽の烏が偶然目に入った。光曳は眼鏡越しにその黒い生き物をぼんやりと眺めていた。通りの電柱で器用に鳴き声を使い分けながら仲間と交信しているのをよく見かける。ゴミ置き場を荒らして迷惑な奴だが、その知能の高さは感心させられることもしばしばあった。
目の前の奴もこれから仲間ときっと交信するのだろう。どんなことを話すのだろう、と再び歩道の隅で目を閉じ、何気なく耳をそばだててみた。
烏が胸を一瞬膨らませ、勢いよく首を前後に揺らしながら鳴き声を上げる動作をしている。
……おかしい。聞こえない。烏の声が聞こえないのである。目を皿にして眼前の烏を睨んだ。……確かに目の前の烏は鳴く動作をしている。
男の大きな体躯が凍りついた。一方、彼の脳は目の当たりにした異常現象を自己に説明するために火を噴くかのごとく限界以上の動作を求められた。
聞こえないのはカラスの声だけではなかった。自分の周囲の人間のも聞こえなかった、が、烏の場合と状況が少し異なっていた誰もが口を動かしていない。更に人々の血色が異常なまでに悪い。まるで死人のようであった。
肉付きのよい光曳の顔から徐々に血の気が引いていくのが傍目からも、そして本人にもありありとわかった。水をうったような静寂さに包まれた男の意識に、自らの声が一言問いかけをした。
――そういえば俺、どうやってここに来たんだ?
気が付くといつも使うの通学路に立っていた。意識が朦朧としていて無意識に歩みを進めていた。
光曳は今更ながらその前の記憶を辿ろうとした。家を出た覚えは?自室のベッドで目が覚めたんじゃないのか?
――最後の記憶は?
光曳の脳裏に警官の影が二つ、ゆらゆらと揺れている。一人はしゃがんでいるようだ。
――そうだ、確か警官に助けられたんだった。誰かに襲われたんだ。
意識中の警官に注意を戻し、彼らが向く先に風景をスクロールさせる。
猛スピードで蛇行するバイクが2台。一方には細身の人間が、もう一方には異様に大柄な人間が大型バイクを駆っていた。あの巨体……。
突然場面が変わり、覆面が視野の下方に映った。喉に激痛を与えられた記憶がよみがえり、歩道に佇んだまま男は激しく顔をゆがめた。
――こ、こいつにぶっ殺されかけたんだ、畜生っ!
光曳の意識の内奥からどろどろに溶けたマグマがその潮位を上昇させてくる。だが、同時に光曳はある可能性にも気づいていた。それは、あの男に殺され「かけた」のではなく、「殺された」という可能性だった。それもすぐに可能性ではなく、確信に変わろうとしていた。「後者」と仮定すると、何もかもつじつまが合ってしまうのである。
光曳の怒りは際限なく膨張していった。己の歯を押しつぶさんとばかりに食いしばり、爪の食い込んだん拳は、その内側を赤く染めていった。男の目の玉は充血し、悔恨の滴が流れ落ちようとしていた。
記憶を辿る作業はこれで十分だった。歩道で異常行動をとる光曳に、周りの歩行者から怪訝な視線を浴びせられたが、そんなことはどうでも良くなってきた。どうせ死んだ身である。周囲の人間の形をした影は自分の意識が創り出したのか、どこかのカミサマが送り込んだのかわからないが知ったことではない。
ただ一つ、自分を殺した男の名をありったけの恨みを込めて叫んでやりたかった。
男の名は、確か……。
その時背後からゆっくりとした足音が耳に入ってきた。重たい足取りであった。歩行に支障をきたしている時の重たさではなく、歩いている者の肉体の重量に起因するもののように思えた。それ以外に変わった音では無いのだが、この音だけほかのバックグラウンド・ノイズを制して男の耳に飛び込んでくる。
それは常日頃から数多の声優の声を聞いている光曳の聴覚のせいでも、相手の歩き方のせいでもなかった。人間ならだれでも有している「第六感」が光曳の中で働いたのだ。
第六感は人類の知能の高度化によって殆ど失われたかのように言われるが、それは誤った認識である。正確には第六感を使う機会が極端に減ったのである。しかし、光曳はある一つの足音を聞き分けたのだ。
殺気を察知するという人間の第六感を発動させて……。
光曳はその殺気を忘れるはずが無かった。例の足音は速度を保ったまま、一帯の空気を地面に抑え込むような圧倒的な殺気を発し、光曳に近づいてくる。一歩、また一歩と近づくたびに、先程まで爆発寸前だった光曳の激情が全く逆のものに変化しつつあった。そして、近づいてくる者が最後の一歩を今までと同じように踏み終えると、光曳は足を震わせながらゆっくりと――爆弾処理を髣髴とさせる慎重さで――後ろを振り向いた。いつか見た覆面が網膜に焼きつけられた。そいつの名前は――正確に名前ではなく、コールサインであるが――疾(と)くの昔に思い出していたが、相手の発する重圧で声が出ない。血の気の失せた光曳の表情を気にする様子もなく、向こうから声を掛けてきた。全く笑わない目と無邪気な声で最後通牒が伝えられた。
「野郎、お前は本当に運が悪ぃぜ――」

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