As Story

作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82



6話―(2)



地獄?

我知らず口の端が引きつった。
生前の世界における地獄と言えば戦争や災害、そして死後のそれは歴史の講義で紹介されるような地獄絵図を想像していた。だが今はそれらとは似ても似つかない通勤・通学で人々が歩き去る光景が光曳の視野を覆い尽くしている。だが、正面1メートル先の空間だけは光曳の想像した通りの、或いはそれ以上の凄惨な光景がこれから見られることを確信していた。
――アイツが地獄そのものなのか。まさかアイツに殺されても覆面の酸鼻を極む戯れから解放されないのでは?殺されも再び目を醒まし、よりエスカレートした苦痛を与えられて再び死んでいくのだろうか……。
器の小さい人間は悪い出来事が続くとすぐに自分はついていないだとか、不幸の星の下にに生まれたなどと被害妄想を抱き、それが新たな凶事を招くという負のスパイラルに陥ってしまう。昨夜から今に至るまでの光曳と言えば、運び屋のコスプレをした殺し屋との乱闘の末意識不明になり、いつの間にかここに佇んでいた。そして突如男を襲った肉体の異常に苛まれている真っ最中に長尺のナイフを手にした覆面との再度の遭遇と、泣きっ面に蜂とはこのことと言わんばかりの不憫さである。生来、あまり前向きとは言えない性格の光曳は、己の惨憺たる状況を目の当たりにし、自らの意思でどす黒い紅の底なし沼に変容させてしまった将来に向かって、周りを顧みることもせず真っ直ぐに突き進むような愚行を行おうとしていた。
――地獄?それならまだマシかもしれない。自分の犯してきた業を償うために受ける罰であるのだから。
もしかするとこれが神のいたずらというものなのかも知れない――。
ふと、突拍子もない考えが光曳の脳裏をかすめた。
あまりに平和で変化に乏しい下界の生活を見るのに辟易としていた神が、衝動的な思い付きで光曳という肉付きのよい羊を天上の享楽のための生贄として選んだのだろうか。
これが神の意思ならば今度こそアイツから逃れることは無理か――光曳はそう考えていたのだろうか。刻々と死の迫る己の運命と正対しているこの瞬間において、抗うこともなく諦念をたっぷりと込めたため息を一度深くついただけであった。
光曳の所作が終わるのを待たずして、光曳のすぐ前で破壊的な力によて締め上げられたナイフの柄の悲鳴と共に、耳を聾するしゃがれた罵声が攻撃ヘリの重機関銃掃射の如く降りかかってきた。
「なにがふぅ、だぁ!霜降りぃ!てめぇの状況わかってんのかぁ!!」
アビーのばかでかい声によって、思索にふけっていた光曳の意識が首根を掴まれて引きずられるように現実に戻された。逃げようとした際に右手を掴まれ半身のままであった体を反射的に右に旋回させ、罵声の方へ体を向けた。光曳の右腕がテニスのバックハンドのように自身の体を横切る形になった。
目線を整える間もなく右手首をつかんでいたアビーの左手が光曳の右肩を鷲掴みにし、次の瞬間アビーの同じ側の腕が甲高い風切音をあげながら光曳の鳩尾に伸びた。
 光曳が身に着けていたジャケット、シャツ、肌着の左脇腹に当たる部位に一文字の裂け目がくっきりと刻まれ、それは最奥の皮膚にまで達していた。裂け目からは生暖かい紅の流体が光曳の白い肌に一条の軌跡を描いている。今し方までの悟りを開いたかのような光曳の精神がたった一撃の――それも皮一枚切れた程度の――痛みを与えられただけで恐怖と驚愕を露わにし、二本足で立っていられるのが奇跡的と思えるほどに狼狽していた。
 光曳が驚愕したのはアビーが出し抜けに脇差で突き刺そうとしたことだけではなかった。そして同じ理由でアビーも光曳の方を向いたままキツネザルのように目を真円に開き、暫し立ち尽くしていた。唾をのむ音が沈黙を破り、アビーがやっとの思いで声を出した。最初の一言二言は本人にしかわからないようなか細いものであった。
 「よ、避けたのか?あの白ブタ……」言われた本人も返す言葉を失っていた。深刻な腹痛は今でも続いていたが、自分の体がいつもより軽いように感じていた。そしてあの大男の動きも異様にゆっくりと見えたので、特別なことをするでもなくただ体を左に反らしのだ。
 アビーは驚いた拍子に光曳の左肩の自由を奪っていた右手を離してしまっていた。物心ついた時からヤバい「お遣い」をこなしてきた手練れのアビーが滅多にしない浅はかなミスであった。
――ナマケモノみてぇな奴がぶっ殺されそうな時にゴキブリ並に器用に駆けずり回ってたことだってあったじゃねぇか。ブタに一度ナイフをかわされたくらいで動揺するんじゃねぇ!
 動揺を鎮めようと必死に自らに言い聞かせていた。幸いにも光曳との間合いは1歩強。アビーの長いリーチを以てすれば、光曳に声をあげる間も与えずにその男の体を貫くことができる距離である。露骨にこの二人との関わりを断とうとする通勤客たちは、中州に流れを分けられた川のようにルートを曲げ、滞りなく歩みを進めていた。
 突然の――光曳が隙だらけであったのが原因ではあるが――ナイフの襲撃をかわし、呼吸が整いつつある光曳は、精神の静寂と共に減少するアドレナリンとは対照的に、再び脇腹の激痛が鎌首をもたげはじめた。腹を抱え込んでしゃがみこみたかったが、すぐ前には死神の権化が虎視眈々と自分の隙を狙っている。
――隙など狙わなくとも自分の体を刃渡り40センチの脇差で貫通させるくらい造作もないのだろう。最初の一撃をかわせたのは全くの偶然かそれこそ神のいたずらに他ならない。
 奥歯が軋む程に食いしばり、片時も巨躯の運び屋――いや、やはり殺し屋か?――の血走ったどす黒い瞳から目線を外さないよう、分厚い瞼にうずもれた小さな瞳で睨み返していた。
 一回……二回……三回……。
 光曳が相手の呼吸のリズムとタイミングを合わせて不意打ちを避けようと、非常にゆっくりと上下動しているアビーの上半身の動作の回数を胸の中で密かにカウントていた。
 五……。声の無いカウントが途絶えた。斜め下に伸びる大男の足が地面を擦る音を刹那発した。聴覚が極端に高ぶっていた光曳は、いささか大げさな動作でアビーに近い方にある右足を引いた。
――アビーの足が単に足がぶれたのか?……何か、仕掛けてくるのか?
 再び光曳の交感神経が活性化の度合いを急速に高め、運動とは縁の無い肉体と精神が臨戦態勢に入り、聴覚もバックグラウンド・ノイズを取り除きつつあった。目の前の大男の呼吸のリズムが心なしか早くなっている。
――来る。……来る!