As Story

作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82



8(2)話―10



 EC(ここ)がどれほど裏世界で恐れられているのかは知ったことではないが、人遣いの荒さだけは世界でも一級品と言いきれる自信があった。約10メートル先の扉をくぐり、EC(ここ)の長に辞意を伝えれば、形式上脱退の手続きが完了することになっていた。
 だが、拠点の屋敷の玄関から中にあがりこんだ篠原と園香は、右手奥にある大崎の執務室へ続く廊下をそそくさと進まず、なぜか左右の壁に張り付いて背中をかがめ、低い姿勢を保っていた。二人とも右手に拳銃を握り締めている。園香の右耳に、舌打ちする音が飛び込んできた。
 たちの悪いことに、二人は辞めるその直前まで仕事が残されていた。それは正式な手順を踏んで依頼されたものではない。二人が屋敷の中から不穏な気配を察知したために急きょ発生した事案である。
 更に追い討ちをかけるように、最後の任務の目標(ターゲット)はトップの執務室の中に侵入しており、肝心の首領はそこにはいない可能性が高かった。何より厄介なのは、一見大きめの個人邸にしか見えない拠点に入り込んでいるという時点で、今回の任務のターゲットはECの能力者である可能性があるということだった。
 廊下の左右の壁の上部に一定間隔で据え付けられたレトロなランプを模した白熱灯が薄暗く残りの10メートルを導いている。終着地点の扉が廊下の薄暗さ以上に沈んで見えた。そこに突っ込めと誘うように行く手を遮るものも何もない。

 畜生、何ビビッてるんだ。

 篠原が涼しげな笑みをつくろうとしたが、右の頬がひきつり戸惑いに満ちた表情になってしまう。無意識のうちに扉の向こうの闖入者に恐れをなしている自分に唖然としていた。真左に並んで低く姿勢を保っている相棒に目をやるとこちらも体が強張っているのか、重心の置き方、姿勢、気迫、目につく全ての所作がいつもよりぎこちなく見えた。
 超能力者ばかりを集めたこの組織に、人知を超えた化け物のような隊員がいたとしても、最高のバディは自分たちだと自負してきた。幾たびかミッション遂行に失敗したこともあったが、それは彼および彼女の卓抜した能力、連携を一層磨き上げるために必要なコランダムの研磨剤と考えていた。だがその最高のバディは今、お互いが相棒の銅鑼のように喚く左胸の拍動を肌で受け止めてしまったがために、煽られた恐怖心で呼吸が浅くなり、そのリズムが相棒のおぼろげであった不安の輪郭をより克明に浮かび上がらせ、それが相棒ののた打ち回る鼓動を更に昂進させるという底なしのスパイラルに陥ろうとしていた。
 不意に篠原が沈黙と焦燥で凝り固まった空気を砕氷船の如く打ち砕きながら自らの左肩の脇まで左の拳を持ち上げ、厳かに人差し指を天空に向けた。そして真夜中に暴走するトラックのヘッドライトに視覚を奪われた子猫のように固まっている園香を、固く唇を結んだまま錐のような視線で突き刺した。
 透き通るような純白のベールの向こうでシミにまみれた醜悪な悪魔に、魂に飢えた大鎌を振るうチャンスを虎視眈々とうかがわれている数多くのミッションの中で、大鎌がターゲット、組織の隊員のどちらに向けられるのか定かであるものは一つとしてなかった。この状況は部隊のメンバーに想像を絶する精神的負担をかけていた。だからこそ、ECでは何時(いつ)如何なる状況においても常に同じ集中力を維持するための訓練を、常日頃から欠かさぬよう新入りへの訓練の中で叩き込んでいた。

 園香、こっちを向け!

 脳みそを直に拳骨で殴られた気がした。彼女の意識をびりびりと震わせて鳴り響く怒号が廊下の壁や扉を叩くことは無かったが、体を丸めて縮こまっている暗殺者としての彼女を呼び覚ますには十分であった。
 最後にあの言葉を聞いたのはこの組織に入り間もない頃、新入り向け訓練の一環で、精神を落ち着ける方法を習得するため、まずは教官役の予備隊員からその方法を見出すコツを教わり。三日間かけてそれを決定する訓練の最中だった。声は今と同じように出し抜けに右側面から園香に向かって体当たりをしてきた。がさつな振る舞いに憤然としながらも初々しさ溢れる回想の中の彼女が声のする方を見た時、月下の女の瞳には欅の樹皮のようにごつごつした指先が映し出されていた。
 「指先睨めって言ってるんじゃないからな」記憶の中の篠原が溌剌とした声で意識に割り込んできた。「一点入魂だ」

 そうだ、一点……。肩にぎりぎり届いている黒髪をしなやかに靡かせつつ目線を正面に屹立する褐色の扉に戻した。無心になって任意の一点に集中する。篠原がたいした考えもなく編み出した集中法。もっといい方法が思いつくまでこれでいいと使っているうちに、すっかり月下の身ミッション前の準備としてすっかり定着してしまっていた。
 園香の瞳は執務室の扉のドアノブ左斜め上30センチほどのところにある木目の分岐点を、焦げ目が付くほどに睨みつけた。瞼を開いたまま視野を次第に狭めていき、気持ちを惑わす余計な事象を消していった。息を潜めるように天井に張り付いていた空調が、めったに見かけることのない年頃の女の訪問者の冷え切った体に吹き降ろす暖かい吐息の感触もなくなりつつあった。10余年にもわたる暗殺者(アサシン)としてのキャリア、三途の川を対岸まで渡りきってから何とか戻ってきたことは数知れず、それでも共に歩んできたパートナーの男と自然と体のリズムが同期してくる。両膝の力を抜き、更に姿勢を低く構える。長い前髪が槍のように鋭く天を向く睫毛にかかると、恍惚として蒼白の眸が細められ、隙間からうっすらと姿を見せる瞳は暗赤色の業に満ちた煌めきを見せた。

 ――扇、私の準備は整ったわ。