As Story

作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82



4話―(1)



 黒い影の右手に突き刺すような視線を向け、光曳は徐々に接近してくる足音に全神経を集めていた。底の固い靴を履いているのか、人影が一歩近づくたびに立てる甲高い音の振動が、光曳の触覚を伝わってくる。
 極度の緊張で、左胸が酷く疼いた。「うぅっ」自ら発した呻き声で我に返った光曳は、弾けるように立ち上がった。一瞬、視界の焦点がぼやけ人影が左右に振れる。その間ももう一つの足音は冷たく乾いた音を響かせながらゆっくりとした足取りで進み、光曳との距離を詰めていった。
 既に3メートルまで縮められていた人影との距離を広げようと、光曳は体の向きを変えずに後ずさろうとした。が、後ろに左足を突き出した瞬間に柔らかい何かが踵の上のあたりにに触れた気がした。
 体の重量を左足で支えるつもりで一歩目を踏み出したのにその踵が宙に浮き、体勢が大きく後方に傾ぐ。「うあっ」巨大な図体からは想像もつかないようなか弱い声を発し、左にそびえるコンクリートの壁面から更に弱まった悲鳴が跳ね返ってきた。
 人影から逃げるチャンスを逸した光曳は、諦念の混じった苦笑を浮かべながら我が身に降りかかる重力に身を預けた。

 どうぅんっ――。アスファルトの凹凸の間に詰まった砂塵が、巨体を中心に放射状に吹き上げられた。誇りに混じっていた石英の粒子が月光に照らされて、プチ・ダイアモンドダストのようにちらちらと舞っている。
「お前、まだいたのか――」仰向けからふと右に視線を向けると、光曳の足をもつれさせ、退路を断った張本人が目の前にちょんと座っていた。それは漆黒の毛に覆われた全身が闇に溶け込み、全開になった2つの瞳孔のみが白い点となって宙に浮かんでいた。

 通りの途絶えた道路の静寂を破る固い足音が、転倒した光曳の足の傍で止まった。
「逃げろ」傍らにいる黒猫に声をかけたが、動くどころか呑気なあくびを返してくる。「わたしをを助けて見せろ、ってことですかぁ?」おどけるように黒猫に小声で話しかけ軽く笑った後、覚悟を決めて斜め上方にあるはずの人影の顔を睨んだ。その人物は眼のみが露出するバラクラバと呼ばれるフルフェイスの覆面を被り、更にその目を大型のサングラスで覆っていた。覆面の奥の表情を読み取ることはおろか、言葉の通じる相手なのかも定かではなかった。しかし、目の前まで接近されたことで2点明らかになったことがあった。一つはデカいということ、二つ目は……、改めて確認したくなかった。

 気持ちを落ち着けようと光曳が数回に呼吸を深くした。吐息の音に合わせて白い靄が対峙する二者の間に広がる。猫は、動く気配を見せていない。
 光曳は叩きつけるような心臓の拍動を感じながら、後頭部に両手を組んであてがった。何とかして立ち上がるチャンスを見出そうとしたが、覆面男はさっきから微動だにしていない。
 あいつに意図が伝わったのか?土下座でもしないとダメか?―― 光曳は答えの確認しようのない問答を幾度も繰り返した。そして、急に動いて相手を刺激することの無いよう極めて慎重に立ち上がろうとしたその時――

ヒュッ……。耳朶(じだ)をなでるそよ風よりも小さな風切音がしたような気がした。極めて小さな音である。少しでも息が乱れていたら、その呼吸音でかき消されてしまいそうなくらい小さな音が……。
 その音の出どころを確認するために、聴覚の記憶を手繰り寄せる必要はなかった。凍りついた大気が二人を取り巻いていた。二人の巨漢は息を絶っていた。覆面男の丸太のような腕が伸び切り、その先に握られた減音器(サプレッサー)付SIG P220の銃口は、中腰になった光曳の眉間に食い込む程に押し当てられている。

 光曳が黒猫に見せたあの勢いは全くなくなっていた。最早覆面に目線を合わせる事すら叶わない。当の黒猫もさすがに尋常ではない事態の気を感じたのか、毛を逆立て、威嚇するような鳴き声を発していた。しかし、覆面が黒猫を一瞥すると、たじろいだように後ずさり、体を丸めてこの対立の傍観者を決め込んでいるようだった。

「何をしている……」

 覆面男が言葉を発した。抑揚が無いが、嗄(しゃが)れて低く落ち着いた声で、聴く者の下腹にずしりとのしかかるような気迫がある。「な、な、何って……」光曳は中腰のまま狼狽した。全身の震えがP220を介して覆面に伝わってきた。

「質問に答えろ。何をしている」

 冷や汗を垂らすしかなかった。覆面が日本語をしゃべったことに動転し、更にこの質問である。どう答えても撃たれるに決まっている。光曳は完全に言葉を失ってしまった。

「見たのか……?」

 脊髄反射のように光曳が目線をあげた。それを制するかのように覆面がP220を握る拳に力を入れる。光曳が大きく鼻で息を吸い込み、腫れぼったい目を全開にした。脇で寝そべっていた黒猫が身の危険を感じ、今度は声も出さずに、覆面が現れた辺りの方向へ一目散に駆けだした。夜の梟のように静かな退避だった。
 覆面は全てを察し、光曳を凄まじい形相で睨みつけた。声無き怒号で光曳の全身に電撃がはしる。

「見たんだな……、死ね」
「ま!待て……」
「ひぃぃ!ねこぉ!」

 最後まで抑揚の無かった覆面の声、光曳の動転した声、そして何者かのうわずった、力の抜けるような声が深更の静寂を打ち破った。

――死ぬ!

 光曳は反射的に目を閉じた。
 だが、最期の声を耳にした途端、覆面の巌のような指がトリガーから外れ、一方の手を己の額に当てていた。うんざりした表情をしているのがバラクラバ越しに見て取れた。
「糞野郎、また喚いてやがる。今度は猫アレルギーか?この仕事のカタつけたらぶっ殺してやる」覆面がぼそりとつぶやいた。

「ここで待ってろ!お前を片付けるのは後……」覆面が一瞬声の方を向いた後、光曳に怒鳴りつけるのと、光曳が突進したのは同時だった。
光曳は低い姿勢で覆面の膝に突っ込むと、全身全霊の雄叫びと共に大男の両足を持ち上げてひっくり返した。