As Story
作者/ 書き述べる ◆KJOLUYwg82

6話―(4)
光曳の表情が苦痛に歪んでいくさまを楽しんでいるかのような覆面の攻撃が束の間止んだ。襲撃を受ける前から続いていた腹部の激痛に加え先の第4撃の深刻なダメージを受け、身体的な主な感覚の五感、平衡感覚が機能停止しつつあった光曳に、死神がまだお楽しみは終わらせないとばかりに猶予を与えたのかと、二組の瞼を開くことすら労を強いられるように感じられる手負いを受けながら、男の脳裏にそんな考えがよぎった。
だが、生涯味わったことの無い激痛に朦朧とする太めの男の網膜に眼前の光景がピンボケした形で結像された瞬間、高い保温性を誇る男の肉体と軟弱な精神が数多の銃火器を鉄の塊として葬り去ってきたロシアの冬将軍に晒されたかのように凍りつき、絶望の淵に突き落とされようとしていた。
ちょうど力士の又割りと似たような姿勢で両足が地面にめり込む程に踏ん張り、バラクラバから露出している死神の血走るまなこは眼前で蛇に睨まれた蛙のように身じろぎひとつできずにいる青年の胸骨の裏で脈打つ真紅の塊を捉えていた。
殺人鬼の二つの双眸が狭まり口許がさも楽しそうににやけついた。ようやくそれに気づき我に返った光曳が持ちうる全ての身体能力と日常では絶対にあるはずの無い全身のばねを駆使し、覆面の向かって右に飛び退いた。殺人鬼の渾身の突撃から逃げおおせようとする若者がアスファルトの道路を蹴りあげる時の衝撃も常軌を逸脱したもので、突進する覆面の正面には既に目標がいなくなっており、代わりに手りゅう弾の炸裂時に匹敵する規模の砂煙が覆面の前方を覆い尽くした。
あれほど派手な演出の回避行動をとっていながら、光曳は大股で3歩程度横に移動しただけであった。だが、身体能力が平時の愚鈍な状態に戻りつつあるにも拘わらず、120kgの大台に手が届くその巨躯は軽くなる気配を微塵も見せない状況において、先程の3歩は光曳の持ちうる最大の筋パワーを発揮した結果であった。
ほんのわずかの疾走で光曳の全身は玉の汗が浮かび、酸素を欲する脳やら筋肉やらが日ごろは怠けてばかりの心臓に鬼軍曹のように鞭をいれて苛烈な動悸を起こし、そのせわしない鼓動に合わせて肉の鎧をたっぷりと身にまとった左右の肩もひっきりなしに上下に動いいていた。
幸い覆面の突撃は既に軌道修正不可能な速度に達しており、進行方向からわずかに逸れたすばしこい白ブタにとどめを刺すのは到底無理であった。しかし覆面が光曳に最接近したとき、光曳は目を疑うような光景を目の当たりにした。漆黒のバラクラバに覆われた顔面で唯一露出している、迫りくる危機――場合によっては殲滅すべき目標――の状態を最も正確に母体に伝達する感覚器が無邪気に笑っていた。更にその時のアビーは光曳には殆ど注意を払っておらず、光曳が目線の先を追った限りではそこには二人を避けて中州で分けられた川のような流れをつくっている一般人――全く普通ではないが――のまばらな行列があった。
アビーは周囲の敵味方を問わずすくみ上がりそうな殺気と生暖かい熱気を辺りにまきちらしながら光曳の傍を掠めていき、そのままレーザー光線さながらに真っ直ぐすっ飛んで行った。アビーがこのまま突き進んでいけば何が起きるか、浅薄でうだつの上がらない日々を過ごしている光曳でも強い確信をもって予測することができた。が、絶対起きてほしくないし仮にそれが起きても目にしたくもない事であった。
「ま……マジ……カヨ」
光曳がわずかな逃走を図った際に起こした砂煙の向こうで、声を発せぬ者どもであるため、空気を切り裂く悲鳴こそ聞こえなかったが、激しく肉と肉が激しく衝突し骨がひしゃげたような、耳にいつまでも残る気持ちの悪い音がした。覆面と光曳を隔てる砂煙が、あの音の発生源を見せるのをもったいぶるかのようにゆっくりと前後に左右にとそよ風に揺られながら散開していった。その間にも、小動物がトレーラーに引かれた時のような凄惨な光景を想像してしまった光曳は体中の活力が肉体から蒸発してしまい、眼鏡越しにも焦点の定まらない瞳孔を砂煙の蒙昧としたシルエットに向けていた。
次第にシルエットの輪郭がくっきりとしてきて細部の色の区別もつくようになると、光曳は更に愕然とした。見慣れた巨躯からのびる腕の先には使い古されて関節部分から綿が漏れているテディベアのようにだらんと力なく腕を垂らしている人影が引っ付いている。そして覆面の腕の延長線上、ちょうど腕を垂らした人影の背中の後ろに暖かい太陽光を冷え切った白い輝きに変えて反射する鋼の塊が突き出ていた。想像を絶する激烈な突きだったのだろう、その光沢を穢す肉片や血糊などは微塵もついていなかった。
しばし悦に入っていた覆面であったがすぐさまいつもの強面に戻り、先程光曳が退いた方向を一瞥した後、首より上が先にその方向を向きはじめ、厳めしい素振りで巨大な体躯が後に続いた。アビーは相手を威嚇するために故意に動作を溜め込むようにゆっくりとする時があるが、この時の光曳にはその効果はてき面であった。死に直面した恐怖から体が過度の緊張をきたし、動きの鈍くなった体が母体を更に冥界への扉に近づかせようとする負のスパイラル。そこにあの覆面の歌舞伎の睨みのように威嚇してくる。
光曳は21年間の人生の中で一度だけトラックに轢かれたことがあった。当然一命を取り留めているのだが、あの時のトラックが自分の体に接するまでの僅かな時間、己の全ての運動能力、感覚神経の感度が絶頂に達し、時間の流れる速さが数百分の一に感じられたことがあった。その間は自分が死ぬという考えはどこかに影を潜めてしまい、己の網膜に映る光景に魂を奪われたように見入っていたような気がする。今まさにその時と同じように時間の流れが極端に遅くなり、瞬きはおろか男の瞳孔を覆面から露出した双眸から背けようとする意志をうち捨てられてしまったような感覚が大脳から脊髄を経て全身に張り巡らされた末梢神経に伝達していった。
あの時と違う点を挙げるならば、今は己の絶命の恐怖を絶えず感じており、男の足は今一度殺人鬼の突撃を回避すべく乳酸で満たされた筋肉を奮い立たせ、その跳躍にも似た疾走の準備を整えつつあるということであった。
今度はアビーの並はずれた踏力に耐え切れずに木端微塵になったアスファルトの破片がその足元から噴き上がった。そして呼吸をぴったりと合わせてきた光曳も数分の遅れもなく歩道の上っ面を駆り、真左に飛び出した。が、すぐに何か柔らかい物体に接触し一歩も移動しないうちに回避行動は完結した。
「なにぃぃ!」
とっさに覆面の方に顔を向けたが既にその距離は2メートルを割っていた。
光曳は猛牛の如き雄叫びをあげ肩が外れるほどに腕を振り、巨躯を捩じり、今度こそ最後の回避行動をとった。光曳の衣服の背中の部分の繊維と自身の表皮がアビーの脇差が擦過する際の熱によって焼け焦げ、大気の藻屑となって吹き飛んだ。光曳は再三にわたり絶叫したが、それはまだ我が命が絶たれていない何よりの証明であった。

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