複雑・ファジー小説
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- 守護神アクセス【Epilogue-2・中編】
- 日時: 2022/05/19 21:16
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: m3Hl5NzI)
2020年、夏の小説大会で金賞もらっていたらしいです。
投票してくださった方々、ありがとうございました。
___
本編の完結とエピローグについて >>173
目次です。
▽メインストーリー
File1:知君 泰良 >>1 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6
File2:王子 光葉 >>9 >>10 >>11 >>12-13 >>14
File3:奏白 真凜 >>16 >>17 >>18 >>19 >>20 >>21 >>22 >>24 >>25 >>26
File4:セイラ >>27 >>28 >>29 >>30 >>31
File5:奏白 音也 >>32 >>33 >>34 >>35 >>36-37 >>38
File6:クーニャン >>39 >>40 >>41 >>42-43
File7:交差する軌跡 >>44 >>45-46 >>47-48 >>49
File8:例えこの身が朽ちようと >>50-51 >>52 >>53 >>54 >>55-56 >>57 >>58
File9:それは僕が生まれた理由(前編) >>59 >>60-61 >>63-64
File0:ネロルキウス >>65 >>66 >>67 >>68 >>69 >>72 >>73 >>74 >>75 >>76 >>77 >>78 >>79 >>80 >>81
File9:それは僕が生まれた理由(後編パート) >>82
File10:共に歩むという事 >>83 >>84 >>85 >>86 >>87 >>88 >>89 >>90-92 >>93-95 >>96-97 >>98 >>99
FILE11:人魚姫は水面に消ゆる夢を見るか >>100 >>101 >>102-103 >>104 >>105 >>106 >>107 >>108-109 >>110 >>111 >>112 >>113 >>114 >>115 >>116 >>117 >>118-119 >>121 >>122 >>123 >>124-125 >>126-127 >>128-129 >>130-131 >>132 >>133 >>134 >>135 >>136 >>137 >>138 >>139 >>140-141 >>142 >>143 >>144
Last File:12時の鐘が鳴る前に >>145 >>146 >>147 >>148 >>149 >>150 >>151 >>152 >>155-156 >>157 >>158-159 >>160 >>161 >>162-163 >>164-166 >>167 >>168 >>169 >>170 >>171-172
Epilogue-1 【守】王子 光葉 >>174-175
Epilogue-2 【護】知君 泰良 >>176-177
-▽寄り道
春が訪れて >>23
白銀の鳥 >>70-71
クリスマス >>120
▽用語集
>>8 File1分
>>15 File2分
>>62 File8まで諸々。それと、他作品とクロスオーバーしたイラストを頂いたのでそちらのURLも
▽ゲスト
日向様(>>7にイラストをくれました、感謝。What A Traitor!作者)
友桃様(Enjoy Clubの作者様。自分にとって小説の師匠や先生みたいな感じの方)
気軽にコメントとかもらえたら嬉しいです。
僕も私も異能アクション書いてるの!って子は宣伝目的で来てくれても構いません(参考にする気しかない)
- Re: 守護神アクセス ( No.88 )
- 日時: 2018/07/06 17:53
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
「いやいやいやいや、流石にこれは無理だろ」
「泣き言言う暇あったら動け!」
「いやいや、これただの愚痴だっつの」
「いいから! ボサッとすんな右来てんぞ!」
奏白の声を受けて、初めて右側から狼が跳びかかってきているのに気が付いた。小麦色の脚が地を蹴り、逃げるように瓦礫の山を駆け上る。そのまま瓦礫の山を盾にするように赤ずきんと距離を取った。
追いかけるような発砲音が、瓦礫の向こう側で。三発の鉛が折り重なるアスファルトを貫いた。覗いた風穴からは向こう側の景色。奏白が、赤ずきんが従えるおばあさんと真っ向からぶつかっている。さらに見えるは猟師の構えた狩猟用の長い銃身。
当たれば儲けもの。それぐらいの考えで撃ち放したのであろう。仕留めたかどうか確認する素振りさえなかった。
一人でも何とかしのぎ切れていたため、奏白とさえ合流してしまえば何とかなると侮っていた。しかし、エネルギー消費を考慮せずにひたすら攻め立てる赤ずきんは、自分たちが想像していたよりもずっと隙が無い。
クーニャンと、正面から一対一で戦っていた際には、消耗を避けるためか狼や猟師と言った眷属を同時に使役することは無かった。しかし、数的に不利な状況になった途端に、自分で勝手に定めていたその制約を解いた。正直なところ、狼による俊敏な動きに、気を抜けば飛び交う弾丸、強固な防壁と重撃を共に担うおばあさんの腕、それら全てが次々襲い掛かるのは脅威でしかない。
三つの眷属全てが強力で、一体一体対処法が異なる。それら全てに気を遣い続けるなど不可能に近い。それに特化したような能力者でも無ければ話は別である。奏白は確かに合流した。しかしそれ以上に、本気を出した赤ずきんの実力のギャップが、形勢に響いていた。
「ちっくしょ、真凜お姉さまいつ来んのさ、チャラ男ニキ!」
「ぶっちゃけ来れるかも分かんねえよ!」
ここで一番求められる能力は、まず間違いなくメルリヌスの予知能力だ。相手にいくつ選択肢があろうとも、未来さえ見てしまえば考慮すべき次の展開は一つに絞れる。だが、今彼女は琴割に引き留められている。もしかしたらそのまま知君が無理をしないよう見張りの番になる可能性もあるため、合流できるかは分からない。
「いやいやいやいや、お姉さま来ないと終わりだっての」
「そうはいっても仕方ねえだろうが」
「いや、だってよ! 冷静に考えろよ、他にここで足引っ張らない奴って誰がいるんだよ。悪いが王子に来られても邪魔でしかねえぞ!」
「そうだけどよ! お前絶対本人の前で言うなよ」
「わーっとるわ! だから今ここで愚痴ってんだよ」
「おい、もう一回黙れ! 後ろ来てんぞ」
奏白の言う通り、背後にはまた涎を垂らした一匹の獣。しつけえなと一声吐いて、その場で跳躍し、体を捻る。その勢いで、左足のつま先を叩きつける。槍のごとく深々と肉に突き刺さり、大砲のような勢いで側方へと吹き飛ばす。だが、それでダメージが通っているようにはちっとも見えない。
赤い瘴気による暴走度合いは個体差があるようだが、少なくともこの狼はそれこそ動けなくなるまで戦い続けるであろう。バーサーカー、そう呼んでやるに相応しい姿。月に吠え、次々と得物をむさぼり続ける餓狼のごとく、己の血すらも美酒のように啜る。
こんなもの、お子ちゃまには見せらんねえなと、また険しい瞳で睨みつける。
「クーニャン! 狙撃来る!」
「気づいてる!」
クーニャンの応答を覆い隠すように轟く銃声。だが、それと同時に桃太郎の刀が飛び交う弾丸を弾いていた。この場において最も無視してはならないのは、撃たれたと気づいた直後には死にかねない猟師の銃。それゆえ、狼やおばあさんへの注意が多少おろそかになってもそちらへの意識は常に向けている。
何とか対応できた。一瞬の安堵。しかしその隙がさらなる窮地を産む。途端に足元が陰ったかと思えば、エネルギー体の握りこぶしが、空から振り下ろされつつあった。これのどこがばばあの腕なんだよ。ガス欠気味の身体から活力を振り絞る。天から落ちる鉄槌に正面から衝突する。若い女性らしい小さな拳が、巨大な腕を打ち砕いた。
だが、そんなところで攻め手は終わらない。
「よっしゃ今っすよ! 狼さん!」
もうずいぶんと使われていなかった、赤ずきん最大最強、最高範囲の攻撃能力。首から上が特撮映画に出てくる怪獣のように大きくなった狼が、がぱっと口を開く。その喉元の先に広がるは奈落、あるいは無間の地獄。全てを飲み込みかねない神喰らいの一噛み。
その褐色の肌を引き裂き、鮮紅の血潮を舐め、鍛え抜かれた筋肉にむしゃぶりつこうと、牙が振り下ろされていく。それはまるで、断頭台のよう。退避しようにも、すぐに動ける態勢ではない。
「今度こそ決めるっすよ! グランフェンリル!」
大地ごと喰らい尽くそうとする、その姿は北欧神話の終末の日に活躍した、フェンリルのごとく。とはいえ、当のクーニャンはそんな事知りはしないが。
考えろ。今の状況では回避ができない以上、迎撃が唯一の手段。しかし一度目の時とは違い、体力が尽きかけている。さっきできたからと、今もできるとは限らないし、言ってしまえば不可能な気をもしていた。
一点集中して、自分に当たりそうな牙だけ追ってみるか。駄目だ、上と下の牙を同時に撃ち砕くだけのクイックネスが残っているとは思えない。急いで雉を呼びだしてみるか。しかし、上方さえももう狼の口が覆っている。横に飛んで逃げようとしたところで、口の中から飛び出す前にその口が閉じられる。
今度こそどうしようもないか。諦めかけた、その時だった。彼女は忘れていた、今の自分は一人でないと。
上顎の牙と、下顎の牙、乱暴に打ち付けようとしていた狼の身体が大きく吹き飛んだ。横向きに宙を舞ったため、牙の隙間から何とかクーニャンは無傷のまま脱出する。何とか着地する時には、茶髪を振り乱して空中に佇む奏白の姿が見えた。
「空中ならどうせ動けないっすよね?」
赤ずきんが、奏白へ銃口を向けるように指示する。それに従い、猟銃の暗い銃口がしっかと奏白を見つめる。
「ちょろちょろ庇い合ってて鬱陶しかったっすけど、これで流石に終わり! 猟師さん、発射!」
太く、皮が固く張った指先が引き金を引き切る。またしても、火薬の炸裂音。しかし赤ずきんには大きな誤算があった。
途端に奏白の姿が消えた。先の尖った弾丸が、誰もいない虚空を駆けると同時に、眼前に現れた男の姿に気が付いた。
「わり、俺空中でも動けるから」
直接殴るけるなどの荒っぽい手段を取りたくなかった奏白は、地盤がめくれるほどの台音圧の衝撃を、その空間に叩きつけた。狭い範囲に衝撃を圧縮したせいか、揺らぐ大気にその景色さえ歪んでいるようであった。周囲に漏れた衝撃だけでも、充分に内臓を揺らされる不快感。
赤ずきんの両ひざが、地に落ちようとする。何とかこれで終わったか。そう思っても、安心しきれない奏白は一度、距離を取った。
「すまん、助かったぜニキ」
「気にすんな。……あれ、終わったと思うか」
「まあ、クリーンヒットしたし、終わったと思いたいな。後は起きる前に王子が着いてくれれば万々歳」
「でも、なーんかこんなにあっさり」
「終わる気しねーよな。なんせ赤ずきんだし」
狼も猟師も、主が弱っているからか動こうとしない。指示が下りていないから、でもあるだろうか。
しかし二人とも共通してある認識を持っていた。絶対に、このまま終わりはしないだろうと。
刑事の勘と、野生の勘の双方が告げていた。
「真凜さん、今の戦況は、どうですか?」
未来視の能力の応用。座標指定を戦場に定め、一秒後の未来を視ることで、ほぼほぼ現場の様子をリアルタイムに知ることが出来る。自分がいない土地の映像を見るのは、映像にもややモザイク、黒塗りなどが現れるので、本来見るべきではないが、たかだか一秒や、それに満たない時間の未来ならば鮮明に見る事ができた。
病室、知君の目の前で守護神アクセスを行っている真凜だったが、今すぐにでも行かねばならぬと理解していた。しかし琴割ができることなら知君が無茶をしないか見張っていろと言う。それができるのは心を許されている数少ない人間ぐらいのものだと。
残されている人間はさっきから変わっておらず、王子 洋介に、琴割、そして真凜。さらにはベッドで横たわる知君ぐらいのものだ。人払いは為されている。琴割さえ居れば、ボディーガードなど必要ない。
「今のところ、苦戦してるけど問題無さそうね」
変に嘘をついてもバレてしまいそうな気がした。それゆえ偽らずに、今の状況を伝える。ほんの少し話を盛ってしまったけれど、この程度なら気づかれないだろう。苦戦しているところは事実だ。しかし、問題が無いかと言えばそれはむしろ願望に近かった。
何とかクーニャンの危機を兄が助け出したところは目にした。その後赤ずきんに手痛い一撃を見舞うところも。しかし、その後の様子がやけにおかしい。現場の二人は安堵するどころかより一層警戒しているし、倒れかけた赤ずきんも、不安定な姿勢で踏みとどまっている。眷属の狼たちはというと、怯えているように見守っている始末だ。
アリス戦時のトランプ兵に、ドロシーとの戦いにおけるライオン達の報告。それらを参照する限り、本体から生み出された守護神の眷属は本体の気絶と同時に完全に消えるか眠るか、あるいは戦意を全て捨ててしまう。しかし今の猟師たちの様子はそのどれとも違っていた。
善戦していると告げれば、嘘をつかねばならぬほど不味いのかと彼は勘繰ったろう。しかし部分的に真実を織り交ぜたことで彼は何とか信じ込んだようだ。
「言うとる間に王子達も着くやろうし、他の対策課員も駆け付けるはずや。そしたら多分戦力は大丈夫やろ」
「そう、ですね……」
真凜には歯切れの悪い返事しかできなかった。どうにも彼女には、そんな風に楽天的に見ることができなかったからだ。大量殺戮に長けた能力を有する彼女相手に、中途半端な実力者を何十人とぶつけるよりかは圧倒的な強者一人をぶつけた方がよほど有意義なのではないか。
何より、クーニャンも音也も、自分の援護が必要だと述べていた事に、突き動かされそうになる。早く向かわなければ、手遅れになるのではないかと恐ろしくて堪らない。
「……琴割さん、やはり僕が出た方が」
「あかん。まだ病み上がりや。戦場に出るべきちゃう」
「でも、超耐性が僕にはあります。今後シンデレラ相手に僕はあまり強く出られません。それなら、赤ずきんぐらいは僕が!」
「……お前が戦わなあかん相手は、むしろネロルキウスや。お前、今の状況でほんまにネロルキウスに抵抗できるか?」
普段は精神的に滅入っていたものの、体の調子だけはすこぶるよかった。脳細胞も毎回、疲れるたびに数日昏睡して快復させていた。しかし今はそれだけの余裕がない。抗い損ねた途端に体はネロルキウスに支配されてしまうことだろう。
「だい、じょうぶです」
「お前の大丈夫は信用ならん。悪い意味でちゃうぞ。無理しすぎじゃお前は」
「だったら、証明してみせますよ」
ベッド脇のphoneに手を伸ばす。いつも通りの旧型の端末を開閉し、ダイヤルキーと対面する。1と0、二つの数字だけが擦り切れてしまった携帯電話型接続端末。その、丁度擦り切れている部分のボタンに指を合わせた。
合わせた、はずだった。
「えっ?」
その間抜けな声を発したのは他ならぬ少年自身だった。頼りなく漂った弱音は、宙を彷徨い、宛ても無く消えていった。次に、phoneが床を叩く少し大きな音。何が起きたのか、知君は理解ができていなかった。勝手に、phoneがひとりでに逃げていったように滑り落ちてしまったのだ。
何で。そう己を問いただす。嫌だと駄々をこねて首を横に振る子供のように、両手は左右に震えていた。嘘だと否定したくて、その掌を顔に押し当てる。体は固定されている、震えているのは掌だけだ。だからその震えを打ち消すためにも顔に押し当てたと言うのに、より一層自分が怯えているのを自覚しただけだった。
ベッドから飛び降りる勢いで知君は再び、phoneを手に取った。その危なっかしい様子を止めようと真凜は寄っていこうとするも、琴割が止める。その必要は無いのだと、首を左右に振るだけで示した。
「そんな、そんな訳ない。何で……何でッ!」
拾い上げたphoneはやはり、お化けを見た子供みたいに、ぶるぶると震えていた。あるいは、父親の背中で、馬に乗りながら魔王を見た子供のように。今度こそ落としてしまわないように、両手で支える。ぶれぶれの指先を、何とか1番まで這わす。押し込もうとするけれども、ボタンが異常なまでに固かった。どれだけ指先に力をこめても、押し込まれてくれない。
「何で……何で押せないの……? まさか、琴割さん……」
「あんなあ、儂がお前相手に能力使える訳ないやろ。お前もELEVENやぞ」
「です、よね。じゃあ、これは、何で?」
知君に能力は効かなくても、phoneの性能を阻害すれば邪魔はできる。そうやってcallingを拒んでいるものだと思ったのだが、そうですらないようだ。琴割は、本当に何もしていない。とするとどうして、ボタンが受け付けてくれないのか。
「真凜さん! これ、一番のところっ、押せますか?」
突きつけられた端末。勢いに押されて真凜は示されたボタンを押した。軽やかな電子音が鳴り響く。そう、すなわちphoneにすら異常は無かった。
「どうせや、奏白妹。110まで全部押したれ」
「しかし……」
「大丈夫や」
琴割に指示されるまま、真凜はネロルキウスのナンバー、三桁全てを入力した。その状態で知君の方へ押し返す。後は、発信ボタンを押すだけだ。
「琴割総監」
「何や? どうした洋介」
「これは一体、何が起きているのですか」
「見とったら分かるわ」
またしても、同じ現象が起きていた。真凜に端末を渡してからは止まっていた掌の震えが、また。動悸は激しくなり、息切れすらも感じる。後は、左上の発信キーを押すだけなのに、それができない。どれだけ指先に力をこめたつもりになっても、反応なんて一つもしてはくれない。
どういうことだよ知君ぃっ!
返して……返してよ……。その子がいないと、私は。
俺らが大事にしてたもの全部奪い去ってぐちゃぐちゃにしやがったあいつは、何なんだって聞いてんだよ。
お前のせいで……お前のせいでぇえええっ! 私の、私の人生はっ……。
顔が真っ黒に塗りつぶされた人々が、知君に背後から詰め寄ってくる。その顔には人間の生皮なんてついておらず、ただただ深い怒りと、憎しみとだけが、煌々と燃え盛る様に塗りたくられていた。
「違う、僕じゃない僕じゃない僕じゃない」
唐突に、頭を抱えてしまったように真凜には映ったが、実際は違っていた。聞きたくない声から逃れるように、彼は耳を塞いでいた。さっきまで戦っていたphoneも投げ出して、その場に一人蹲る。
けれども、幻聴は一つとして消えてくれそうにない。今までネロルキウスの暴走によって生み出した、誰かの恨みと嫌悪が、彼の心を蝕み囁き続ける。
『何を言っているんだお前は』
脳裏に、ネロルキウスの声が響いた。当然、本人の声などではない。知君が観ている、耳にしているだけの幻想だ。だが、何よりもリアリティを持ち、目の前に現れる。
『余はすなわちお前の力だ。余が為した罪はすなわち、お前が犯したも同然だ』
そら見てみろ、お前の両手を。思い出せ、あの日自分がしたことを。彼は囁き続ける。耳を閉じてもやみはしない。きっと、鼓膜を破っても止まらないだろう。
『洋介の能力を奪った、それもお前の罪だ。ああ、そう言えば……』
目の前の女を傷つけたのは、それこそ余が顕現していない時の出来事でなかったか。
一層低い声で、存在するはずのない暴君が囁いた。見上げた先にいた真凜と目が合う。確かにあの日、自分は彼女のことを自身の手で傷つけていた。
「違う、違うんだ……僕は……僕はっ……」
「ねえ、どうしたの? しっかりして! ねえ!」
知君の嗚咽と、真凜の声が交わる中、放り出されたphoneは役割を果たせぬまま、ただ眠っていた。
- Re: 守護神アクセス ( No.89 )
- 日時: 2018/09/18 17:51
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
「返事をして、お願い」
自分がいくら焦っても、目の前の少年の方がよほど取り乱していることに変わりはない。それに気が付いた真凜は何とか、冷静に努めようと声を低くした。しかし、決して答えを強要しないように。強いるのではなく、促すような落ち着いた声音。痩せこけた頬を両手で包み、床を眺める首を前に向けた。目を合わせ、大丈夫だからとほほ笑む。
「ごめんなさい真凜さん……急に、取り乱したりなんかして」
気丈に努めて、何とか笑顔を作る真凜。彼女も動揺しているのだと、頬に添えられた掌の震えから伝わってきた。また、彼女に心配を、迷惑をかけてしまっている。何度も何度も、みっともないところを見せられないと、泣き崩れてしまいそうな自分を何とか踏みとどめた。
これまであまり見ないようにしてきた、一番初めの失敗。能天気な自分が、ネロルキウスは自分のために力を貸してくれると信じ込んでいたあの日。自分を管理していた研究者の一員、ピタゴラスの契約者であった女性はその守護神を喪った。それはきっと、世界で初めてのケースだったろう。何せネロルキウスがこの世に顕現したのはその日が初めてだったのだから。
あの日間違いなく彼は、一人の女性の職を奪い取った。その後の成功をも奪ったと言っても過言ではない。これまで積み上げてきた、過去の栄光をも。その人がその人として歩んできた、進もうとしていた全てを台無しにしてしまった。
そしてそれは、つい先日同じことを繰り返してしまった。ふと視線だけ動かして、病室の入り口の方を見る。そこでは、息子二人ともが居なくなってしまい、所在なさげにしている一人の男の姿。しかしその目は、心配そうに知君のことを見守っている。
王子くんのお父さん、なだけありますね。自分を見つめるその瞳に、怒りや憎しみがこもっていないことに安堵しつつ、だからこその後悔を讃えて、また目を伏せた。
「ちゃんと前を向いて」
自虐的になっていることは、お見通しだった。下を見て、自責にかられるのはもうやめなさいと真凜は知君に呼びかける。先ほどと違って、その声には叱責の色がほのかに混ざっていた。
「あの時、君がしたことは間違いじゃない。結果として、全員生きて帰って来れたの」
「でも……」
再び、洋介の顔色を窺う勇気は彼には無かった。だから、それから逃げるためにも真凜の瞳だけただ真っすぐに見つめる。その瞳もまた、知君のことだけを見据えていた。そう言えば、以前はこんな風に見てはくれなかったと思い出す。
以前はずっと、彼女は知君を避け続けていた。対話も避けて、お互い分かり合おうともしていなかった。我武者羅に頑張ればいつか自分は認めてもらえるだなんて信じていた。お互い、気合だけ入ってから回っていたのだ。自分が頑張れば頑張る分だけ、相手を焚きつけてより一層に危険な道へと歩んでいたと言うのに。
「それでも僕が、洋介さんのウンディーネを奪ったことに代わりありません」
「……そうね」
しばしの思案。しかし、ここで否定してもそれは嘘であり、慰めにしかならない。そして、慰めと分かり切っている同情など、知君の傷を癒すための薬にはならない。ならばそれを、認めた方が良い。真凜は浅く首肯し、「ほら」と弱弱しく囁く知君。また、沈黙が流れる。けれども今度は知君も、真凜から目を離さなかった。
「あの日、私が伝えたこと覚えてる?」
「……全部、ちゃんと覚えてます」
「良かった。……君はね、今まで何度も何度も私達の事を助けてくれた」
「自己満足ですよ、ただの」
自嘲気味に乾いた笑みを漏らした。けれども少年の顔はちっとも笑っていない。それがより一層、虚しさだけを呼び起こす。その実のこもっていない笑いに最も顔を歪ませたのは洋介だった。今まで、人々を護るために戦い続けた彼を、自暴自棄にさせたのは他ならぬ自分達だ。
流石に洋介自身は大人げないから、知君を罵倒したり冷遇したりはしようとしなかった。しかし、必要以上に干渉しようとはしていなかった上、太陽が彼を敵視していることに気が付いていながら、何も言ってこなかった。
ずっと失念していた。彼は警察の仕事にしゃしゃり出る部外者などでは無くて、息子の同級生の、友人の一人だということを。それゆえに壊れてしまった彼が、暴君である契約相手に呑まれてしまったことなど責める理由など無い。自分の守護神が奪われたのも、己の仕打ちに対する報いだとしか思えなかった。
こんないい歳こいた親父になって、近々祖父にもなろう男が、情けない。けれども自分が彼に、何をしてやれるだろうか。洋介には分からなかった。五十五という歳月を生きてきてなお、その少年の境遇に置かれた人間が求める言葉など予測も出来なかった。
こんな父を見て、光葉はどう思うだろうか。こんな優しい少年に対して、「友達だなんて願い下げだ」と息子に言わせるような父親は、果たして父と呼ぶに相応しいのだろうか。洋介は次男のことを甘やかして育てた自覚がある。それゆえ、今頃は突き付けた言葉のせいで逆に、光葉が苦悩しているとも察していた。
きっと知君にとって、次男坊の光葉が唯一に近い友であったと、これまでの話でゆうに想像がついた。その、たった一人の替えなど効かない初の友に、絶縁された彼の悲痛な思いなど、自分には分からない。その絶縁宣言を受け取った少年は、壊れてしまう直前と同じように、極めて悲痛な顔色に染まっていた。
戦う力を失ったことに、もう未練はない。しかしこうして守られる立場となった時、前に立つ者たちを支えられるだけの能がない自分が嫌になった。
「自己満足なんかじゃないわ」
「……そうだと、いいんですけれど」
「そんな顔しないで、思い出してよ。貴方は今まで何人の人を救ってきたの? 助けてきたの?」
「……僕が居なくとも、どうにかなってますよ」
「なってないわ。思い出してよ、私の前で初めて貴方が守護神アクセスした時の事」
君がいなければ、絶対に自分はアリスに殺されていた。あの日間違いなく君は、私のことを救ってみせたのだと。奏白にしたってそうだ、知君がいなければアリスに囚われの身、今頃生きていたかどうかも定かではない。
「それに、スカイリンクがジャックされた事件を解決したのも君なんでしょう? あの時君は、何百人という人を救ったのよ?」
「……そんな事もありましたね」
「私は、君のおかげで殻を破れた。だからこそ壊死谷を検挙できた。成長できたから、多くのフェアリーテイルを倒せるようになった。君が居なきゃ、私はこんなに立派な自分になれなかった。私が助けた人々も、元をただせば知君くんの力で救ったのよ」
「関係ないですよ。それは、真凜さんが救った人たちです」
「だったら、君が救った私が生きているのは、君のおかげだって認めて」
違いますよと、知君は首を横に振る。自分の力で救えたのではない。知君という少年は、ただ幸福な星の下に生まれただけの話だ。そのための力を持って産み落とされたからこそ、救えただけだ。
「真凜さんを救ったのは、僕じゃなくてネロルキウスです。彼の力が無ければ、アリスになんて勝てていませんでした」
知君の声が、自己嫌悪のせいで震え始める。虹彩も雫で滲もうとしているが、琴割の前だからか知君はその熱い雫が瞼の縁から零れ落ちようとするのを必死にこらえる。
「だからあれは、僕じゃなくて」
「ねえ、そんな事本気で思っているの?」
「えっ……」
見る間に眉はつり上がり、眉間には皺が寄っていく。怒気を孕んだ声が、悔やんでばかりで藍色の心の海に落ちつつある意識を貫いた。
「ネロルキウスが暴走した時、彼は私達全員を従えようとした。別に彼は私達を助ける気なんて無いわよ」
「そう、ですね」
「そんな人が、私を助けてくれただなんて思わない。私を助けてくれたのは、そんな大きな力を誰かを護るために振るってみせた、君だよ」
「でも……あれは僕の力なんかじゃない!」
「いいえ、紛れもなく貴方の力よ」
「そんな事……。だったら、今のこの状況はどう説明するんですか。彼にcallingするのが怖くて仕方なくて、ただの無能力者に成り下がった僕に、誰が助けられるって言うんですか」
「別に、誰も助けなくていいの」
「また……そうやって僕を置いていくんですか」
「違う。知君くん、たまには私達のことを信じて」
いつもいつも、自分が解決することに躍起になっているが、それは裏を返せば自分でなければならない、他の人間にはどうしようもないと突き付けているようであった。
「君はずっと、私より前にいる。ずっと前に立って、護ってくれている。私はね、後ろにいるだけの自分が不甲斐なくて、嫌で嫌で仕方なくて、君の横に立てるぐらい強くなろうって決めたの。君の事を認められなかったのはきっと、どこかで君に頼られたいと思っていたから」
知君に頼られる人間になれば、自分は目指す自分になれたと納得できると思ったから。彼以上に力があって、優しい、正義と呼ぶに相応しい心根を持った人は他にいないのだから。
「今までずっと、私達は君に支えられてきた。それこそ、君無しじゃ立てないぐらいに。でもね、今度は違う。立ち方を忘れてしまった君を、今度こそ支えて見せる。いつか君がまた死地に立つんだとしたら、その日まで私達は待っているから。君なら、こんなトラウマ簡単に乗り越えられるって、信じてるから」
横に立つだなんて、今の自分にはまだおこがましい。けれども、後ろに立っているというなら、せめてその背中ぐらい押してあげたい。疲れて立ち止まった彼の事を、一旦追い越して、「待っていたよ」といつか出迎えたい。
「君が、私より強いって分かってる。頼りになるとは自覚してる。けれどね、今は休んで。休みなく動き続けられる人なんていないんだから。……多分このまま兄さんたち二人に任せてても、赤ずきんには負けちゃうわ」
「そんな! だったら尚更、僕が今から……」
「待って、知君くん。……総監、お願いです。今の彼なら洋介さんがみているだけで充分引き留められます。私も出動させてください」
「お前が出て行って何が変わるんや」
「支援能力なら私は高いです。撤退のための誘導を行います」
「一度、体勢を立て直すんか」
「ええ。周囲の民間人は全員避難が済んでいます。まだスタミナの残っている、現着できていない王子さんやその弟、私がいればおそらくは逃げ帰ることぐらいできるはずです」
このままクーニャンや奏白を失う訳にはいかない。知君が易々と守護神アクセスできない中で、最も多くのフェアリーテイルの討伐に貢献したのはこの二人だ。クーニャンに至っては、多少の手加減をしていたとはいえ赤ずきんを単独で足止めできるほどに優秀な傭兵。そしてそれに逼迫した戦力である奏白はこんな時期に失えない。
「今出れば、王子さん達と同じぐらいに到着できます。今しかないんです」
「なるほどな……。確かにそれなら」
「危険ですよ真凜さん。忘れたんですか、赤ずきんは一対多数の戦闘で本領を発揮するんです。向こうはこちらの人数が増えても的が増えたと思うだけ。被害者が増える可能性の方が高いです。奏白さん達は決して無茶をしません」
特にクーニャンは、生き残る術に関してはいくらでも学んできている。プロである以上、退くなと言われたらそれこそ死ぬまで抗い続けるが、それでも引き際を間違えない程度には場慣れしている。本当に、どうしようもないと判断した時には撤退を自ら奏白に宣言するだろう。
「そう簡単に逃がしてくれると思う?」
それなら、抵抗する人間の人数は多い方がいいに決まっている。それが真凜の主張であった。相手が攻撃してくる瞬間を易々と見極められるメルリヌスの力ならば、逃げおおせられる可能性も飛躍的に上がるだろう。
「だから、私が出るの。一旦待っていて。無事に戻るから」
「待ってください」
詰め寄る様に知君に接していた真凜が、不意に離れて虚空へと手を伸ばす。何もない空間に真っ暗な次元の裂け目が現れて、そこからスノーボードの板を取り出した。今にも病室から飛び出して、ボードに乗って駆けて行ってしまいそうなほどに。
走り出そうとする彼女の腕を、知君は掴んだ。切実な眼差しで焦る彼女の顔を見る。そして、たった一つの懇願をする。
「未来を予知してみてください」
「……いつの?」
「真凜さんが着いて、本当に皆無事に逃げられるかどうかの」
「……大丈夫、それを変えに今から行くんだから」
これ以上語れば、引き留められてしまうだろう。少年の細い腕の、か弱い握力を振り払って彼女は駆け出した。これ以上、時間を無駄にしてしまう訳には行かない。
そう、彼女は既に忌避すべき事態を予見してしまっていた。苦戦する一方の戦場において、王子が撃ち殺されてしまう未来を。その場に自分の姿は無かった。だからこそ、自分が助けにいかなければならないのだ。
「待ってください!」
「ごめん、帰ったら謝るから!」
「絶対! 絶対ですよ、破ったら許しませんからね!」
知君の部屋は一階にあるため、すぐに屋外に出ることができる。外に出てしまえばメルリヌスの能力ならばすぐさま現地に向かえるだろう。
しかし、真凜が先ほどの問いに返答しなかったことが気がかりだった。あれはつまり、真凜が行く場合か行かない場合か判別はつかないが、不穏な未来になりかねないという事だった。
だとしたら、変えなければならない。だらんと頼りなくぶら下がる右腕、その先に握りしめたphoneのことを思い出す。
「callingさえできれば……それさえできれば、僕も向かってもいいですよね?」
「ああ、できるんならかまわん」
「なら、今ここでしてみせます」
発信ボタンに合わせた親指に、ぐっと力をこめる。それなのに、ボタンはびくともしなかった。真凜が触っていた時にはあれだけ簡単に押し込めていたのに。
「どうして……何でッ、何が駄目なんだ……。早く、早く早く早く早く早く早く早く早く……いいから反応してくださいよ、お願いだから!」
藁にもすがらねばならない。暴君にとて、懇願せねばならない。不幸な未来を回避するためにはどんな危険な橋だって、渡って見せたいのに。体が言う事を聞かない。
洋介はもう、知君がどうして守護神アクセスできないのか理解していた。少年自身、体の変調を理解していた。彼の意志がどれだけ投げやりに己の命を投げ打って戦おうとしていても、体がそれを拒んでいるのだ。恐怖を振り払ったつもりでも、体の芯には闇を恐れる畏怖がこびりついている。
だからこそ、ネロルキウスを認めないために指先に力が入らない。決して、この脆弱な体に、身に余る力の権化を顕現させてしまわないように。
彼が戦うことを拒んでいる存在は他の誰でもない、彼自身だった。
「来てください……来てください、何でもいいから。ネロルキウスだって構わない。その後僕が消えちゃってもいいから……早く、早く……手遅れになる前にきてよ……ネロルキウスっ!」
拒んでいるのは、少年自身。それでも、力を求めているのも少年自身だった。心と身体、二つの自己が二律背反で契約相手の守護神を捉えている。それゆえに生まれた自分の中の齟齬。受け入れなくてはならない存在を、無意識が否定し続けている。
「やっと……やっと真凜さんが認めてくれたんだ……。王子くんにも謝らなくちゃいけないんだ……。奏白さんも、クーニャンも、失いたくなんてないのに。これから、これからなんだ……。全部これから始まるんだ。フェアリーテイル事件が終わるんじゃない、これからやっと平和な未来になるはずなのに何で……何で今に限って僕は……」
その先の言葉を、自分では紡げなかった。使えもしない残酷な現実をつきつけるだけなら、こんなもの無い方がましだと、泣き崩れた知君の掌から琴割はphoneを奪い取った。
握りしめていた端末を失った瞬間に、言葉にしていなかった絶望がどっと押し寄せてくる。
知君 泰良は自覚した。
「何で今に限って僕は……無力なんだよ……」
教えてくれと呟いても、返す言葉など無い。
当然のこと、ではある。
それでも残酷なことに、ネロルキウスは何も答えない。
- Re: 守護神アクセス ( No.90 )
- 日時: 2018/07/11 01:01
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
ベッドの脇で蹲る少年、彼は生まれて初めて己の無力さに震えていた。これまで過ごしてきて、そんな想いを抱いたことは一度だけだった。今と同じように、ネロルキウスを呼ぶことを恐れていた日々。そんな生活に終わりを告げたはずの、あの日。奏白が目の前で倉田 レタラに操られた瞬間、何もできない自分が嫌で仕方なかった。
だからこそ、長年恐れていた守護神を呼びだして、今までの自分を打ち破ったのに。またしても、あの頃の己の姿が重なってしまう。しかも今度は、大切な人がもっと増えたというのに、だ。自分には助けられるだけの力がある。今まで何度もフェアリーテイルを下してきた。
それなのに、今になってまた、弱虫で惨めな被検体に逆戻り。誰かの涙を拭えるように、って立ち上がったはずなのに、いつしかまた膝を付いている。地面が目の前に見えるのは、何も視覚的な問題だけでは無かった。一人で歩いていると思っていた自分が、倒れ伏してしまったようで。
再起することもできないまま、無力さを噛み締めさせるための地盤だけが、目の前いっぱいに広がっていた。
「洋介……ここは任せてええか」
「どちらへ?」
「最悪、儂が出なあかんからな。となると国連の方に要請出さなあかん」
時折規則を破り、些事に能力を用いている琴割ではあるが、戦闘のために能力を使用するためには、流石に国際的な機関で議決を取らねばならない。平時であれば確実に許可など下りようもない。しかし、この国の治安維持組織が匙を投げる程の脅威であれば話は別だ。
申請に数時間以上は確実にかかってしまうだろう。それでも、指を咥えて見ているだけよりはずっとましだ。秘書には、予め申請書のフォームを記入するようにと言いつけている。知君が出られないと推測できていたための処置である。
「そいつが、無理せんように見張っといてくれ。といっても、もうphoneは儂が預かっとるから何もできんやろけどな」
今となっては懐かしくもある、開閉式の旧型端末。それをつまんでひらひらと掲げて見せた。これを所持している分だけ、知君はより一層己の無能を嘆くだろう。それゆえ、武器を琴割は預かった。それさえ持っていなければ、戦地に赴く理由がなくなるため。すなわち、彼が余計に傷口を広げなくてよくなるため。
無理やりにネロルキウスを呼べたとしても、それが知君にとって望ましい未来に繋がるとも思えなかった。今呼びだしたところで、自身もなく、当然体力も抵抗力も無い彼は、乗っ取られてしまうだけだ。
それならば、せめて彼だけでも護るためにその強硬策に出るのは仕方の無いことだった。これで不意に知君が赤ずきんを処理できる可能性の芽は潰えることとなったが、仕方ない。今はそれよりも優先するべきものがある。労わってやるべき人間が居る。これまで、それを避けてきた分、これからは彼の安全をも考えてやらねばならない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
ただひたすらに、か細い腕を病室の床に突きながら彼は、謝ることしかできなかった。
弱くてごめんなさい。
大事な時に頼りにならなくてごめんなさい。
足手まといでごめんなさい。
ふと、見上げた病室には洋介と二人きりで取り残されていると気が付く。そして湧きあがる、もう一つの慙愧。
貴方の守護神を、奪ってしまってごめんなさい。
彼が涙していることは、琴割もとうに気が付いていた。幼い日に、あれだけ泣くな、己の意志を見せようとするなと指導してきた彼も、もはやそんな事は強要しなかった。人間、辛い時には泣いておくべきだと、心の趣くままにさせてやった。
皮肉なことに、行楽日和の快晴の空。それなのに街中では、大量殺戮の狂い果てた守護神、赤ずきんが暴れていると言う。そしてこの真っ白な狭い空間では大粒の雨が降り注いでいた。
俺は一体、何度同じ過ちを繰り返すつもりなのだろうか。王子 洋介は、これまで弱みなど一度も見せてこなかった少年が、ようやっと子供らしく肩を震わせて泣いている様子を見て、自問した。
彼を悲しませているのは、何もその非力さだけではないだろう。ウンディーネを奪ったが故に、自分に顔向けできないと思っているだろうことも予想できた。何せ、知君にとっては大切な友人、洋介にとっては大切な息子である王子が、それ故に怒り、悲しみ、そっぽを向いて出て行ってしまったのだから。
彼を傷つけていたのは、自分だって同じだと気づいたばかりではないか。自分の半分も歳を取っていない奏白 真凜が、これまで支えられてきた分彼を支えると言ってのけたのに、自分自身何もできないままで、いいはずがない。
何より、このままでは光葉に顔向けができない。息子の不始末の責任を取るべきは、親である自分自身だ。光葉が負わせた深い心の裂傷をも、自分が代わりに治してやらねばいけないのではないか。
「いや、違うな」
知君にも聞こえないぐらいの小さな声で、自分を諭すように彼は一人呟いた。
奏白 音也は常に、誰かを救うためにアマデウスと手を取っている。真凜も、平和な世界で生きる人々のため、メルリヌスの手を借りている。光葉とて、未熟ながらも誰かを救えるヒーローとなるため、人魚姫と手を繋いでいる。
これまで三十年以上、警察官として、phoneが開発されて十年以上、捜査官として働いてきた彼に、誇りが存在しない訳が無い。自分とて、強きを挫き、弱き者のためにこの職に就き、常に第一線にいたというのに。
それなのに、今目の前で崩れ落ちた少年の心を、そのままにしておいていいはずがないだろうに。
それだけではない。ここで何も声をかけられないなど、男として、二人の息子を持つ父としての名折れに他ならない。目の前にいるのは息子ではないなど、言い訳にもならないだろう。自分にとって無関係な人をも救う、それが父親、今立っている病院の院長から教わった教えであり、自分が従い続けてきた矜持であり、嫡男次男に受け継いだ精神ではなかったか。
「まだ君は、決して報われてなんていない」
あの日真凜は、知君とて報われるために生まれてきたのだと自分の目の前でもある場所で語っていた。だが、少年を信頼していた奏白兄弟だけから認められて、何が報われたものだろうか。これまで関わろうともしてこなかった自分のような者でさえ彼を支えてようやく、報われると称するべきだ。
ならば、自分がするべきことはとてもシンプルなものだ。真凜は、粉々になりそうな彼の心を何とか繋ぎ止めた。その後の襷は、自分が受け取ったと信じていいはずだと、洋介は頷く。両足を沼の中に絡めとられた彼を引き上げ、奮い立たせ、背中を押してやる。
今、それができるのは自分だけだ。あの日あの時、『これまで一番近くにいながら頑なに認めてこなかった』真凜が、彼を受け入れてやることに意義があったように……今この瞬間、『彼の力により守護神との絆を断ち切られた』自分こそが、彼を救うに最もふさわしい人間だと、覚悟を決めたのであった。
「知君くん、一旦ベッドの上に戻ってくれ」
このままでは体に障るかもしれない。そんなもっともらしい理屈をつけて、話をしやすいように柔らかなマットレスの上へと誘導した。肩を担いで、起こしてやって。光葉よりかはましかもしれないが、この子も手がかかるな、などと父親のいない少年の、義父にでもなったつもりでその身体をベッドの上に持ち上げた。
座らせることには成功したが、ちゃんと布団の中に潜ろうとしなかった。寝付いてしまえば、もうそこから逃げ出せなくなりそうな強迫観念が知君を襲っていた。だからただ、座すだけ座して、立ち上がることもできないまま、目の前に立つ洋介の脚だけを見ていた。
「おじさんとの話は苦手かい?」
「いいえ……校長先生なんかとは、話し慣れてますので」
「そうかい。それは良かった」
「話……って何ですか?」
委縮し、肩を竦めて彼は問うた。切り出したのは、先日ネロルキウスが守護神を奪い取ってしまった洋介。そして、話しかけられたのは自分。嫌な予感しかしなかった。罵り、蔑まれるのではないか。そんな妄想が、ふと頭をよぎる。
それもしかたないか。自分のせいでまた、誰かの人生を狂わせてしまった。歴戦の兵、その矛を奪い取ってしまったのは間違いなく自分だからと、納得させる。むしろ、常識をよく知る彼ならば、適切に罰を与えてくれるだろうとまで。
だから、返せと詰め寄られ、それはできないと頭を下げるぐらいの覚悟はしていた。許してもらえない、それを受け入れる心構えも出来ていた。
しかし洋介はというと、不意に突拍子もない話題を口にした。
「君も知っての通り、私には二人の息子がいるんだ」
「……はい?」
王子 光葉と太陽を指すのだろうなとは、不意な言葉に驚き、狼狽した知君にもすぐに分かった。
「太陽は光葉よりずっと年上でな……。もうすぐ、長女が生まれるんだ」
初孫なんだと朗らかに笑いながら伝える洋介。おめでとうございますと、ちぐはぐな頭で何とか祝辞を述べたが、どうしてそんな事を今語られているのか分からなかった。せめてもの情けで、戦地から意識を逸らそうとしている、のだろうか。
「私は我ながら、随分子煩悩で、二人とも甘やかして育てたもんだ。特に光葉は次男で末っ子だからな。随分と可愛がり過ぎた」
あの子が十歳になった頃に、太陽が警官になったんだと洋介は昔を懐かしんだ。小学校の高学年に上がった光葉はというと、捜査官の父や、その見習いの太陽の背中に憧れていた。太陽は昔からリーダー気質で、同級生たちを引っ張っていくタイプだった上に、洋介には部下が多く存在していた事から、皆を率いる前線のヒーローという印象が焼き付いていたのだろう。
そんな二人に憧れた光葉は、自分も捜査官になりたい、警察になりたいと言い出した。危険な職だから心配にはなったものの、同じ道を選ぼうとしてくれたのが誇らしかった。自分の守護神はどんなものなのかと期待して、想いを馳せ、日に日に大きくなっていく光葉を眺めているだけで、幸せだった。
「でも、知っての通りだ。あの子は中学生の頃にな、警官にはなれない、守護神アクセスできないという現実を、突き付けられたんだ」
それを知って悲しんだのは何も本人だけではない。真っすぐに夢を見続けてきた彼の道が閉ざされていることを嘆いたのは、家族である洋介も同じだった。辛そうな顔を隠し切れずに、息子に何を伝えたものか考えあぐねていたと言うのに、気にすんなってとまだ中学にも入っていない幼子が、けなげに笑っていたのだ。
「気づかない訳が無かった。夢半ばで破れるどころか、スタートラインにすら立てなかった光葉が、夜な夜な一人で泣いていた事を。その涙をひたすら私達に隠そうとしていたことも」
気づいた時には、守護神のしゅの字も口にしなくなっていた。将来の夢なんて一言も語らなくなっていた。自分がいつか警察になったら、こんな風に過ごしたいと語らず、代わりに、如何に父と兄を尊敬しているかばかり口にするようになったのだ。
「水泳や武道で体を鍛えるのも辞めてしまってな。身長には恵まれていたから、代わりにあの子はバスケットを始めたんだ」
「そう、でしたね」
「中学も同じなんだったね、光葉とは」
「はい。あの頃の王子くんの笑顔は……本当に辛そうでした」
「ああ、そうだな。そうじゃなくなったのは、二か月前頃のこと、だったかな」
自分のためではなく、他の人を安心させるため。王子がそんな風に変わってから、洋介は決心を新たにした。その二年ほど前の五十歳の誕生日で、まだまだこれからも現役として働き続けてやるさと誓ったばかりであったが、その誓いをより一層強めた。
光葉が誇ってくれると言うなら、その破れてしまった夢をも背負って、自分が代わりに叶えてやらねばならないと。
「老いのせいで体にガタが来てるっていうのにな。よくやろうとしたもんだよ、私も」
「そんな……洋介さんは、まだまだ壮健じゃないですか」
奏白ほどではないにせよ、数多くのフェアリーテイルを第4班は検挙していた。そもそも戦場において王子がそのまま人魚姫の歌の能力で浄化できるが故のものだが、それが毎度成功しているのは洋介の指揮能力が由来でもある。
ウンディーネ自体、高位の守護神であり、年老いているとはいえ充分第一線で輝けるだけの実力を未だに彼は有していた。
「健康だとしても、だ。私は息子の夢が潰えたことを勝手に背負って、戦い続けなければならないと思っていたんだよ」
もうとっくに、体は休みたがっていたのに。その欲求を押し殺して親心が勝ってしまった。息子が見たがっていた景色を代わりに見届けて、伝えようだなどと考えていた。
「少しだけ、話を脱線させていいかな」
「はい。構いません」
「君は、自分には人を不幸にすることしかできないと思っているね」
これまで年長者と話した経験は、学校の先生と琴割ぐらいのものだった。優等生として過ごしているため、先生から折り入った話をされることなどない。強いて挙げれば、三者面談が存在しないことを憐れまれるぐらいだろうか。それさえ除けば基本的に、琴割の瞳氏か知らない。
感情を知らないような、冷たい蛇のような目。しかしその奥には、ぎらぎらと燃える真夏の太陽のような熱気。そんな眼光しか知らなかった知君は、洋介の目の光に当てられ、見惚れてしまった。何も他意がある訳では無い、ただ長い時間を生きてきたが故に窺える、余裕を持った力強い双眸。
慈しみ、護り、育てる、そんな父の眼差しを彼は浴びたことが無いゆえに、ついつい我を忘れて見入ってしまった。
「それは違うよ。君はこれまで、多くのものを掬い上げてきた。君でなければ拾う事が出来ないものを、水が張った桶の中からね」
「掬いあげた、もの……?」
「ああ。君が何と言おうと、君の力でようやく沈静化できたフェアリーテイルというのは少なくない。アリスに始まり、桃太郎、白雪姫……。確かシンドバッドや孫悟空を討ったのも君だったね」
「ただ、力のままにねじ伏せただけですよ」
「そうかもしれない。けれども、結果を見てごらん。そのために手に入れたものも多かったはずだよ」
アリスを君が倒せなかったら、君を闇から救い出してくれた真凜さんは助けられていないままだった。
桃太郎の時も、真凜さんだけでなく、光葉まで死の瀬戸際に居た。
しかもそれだけではなく、クーニャンという心強い味方を、君のおかげで私達は得る事が出来た。
- Re: 守護神アクセス ( No.91 )
- 日時: 2018/07/11 01:03
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
「そう、君の力で得たものだって、ゼロじゃないんだよ」
「でも……でも、それが何だと言うんですか。僕は、僕は洋介さんに何も与えていません。ただ、ただウンディーネを、戦う術を奪っただけだ。王子くんのために、まだまだ頑張ろうって決めていた勇気ある人から、その手段を奪っただけだ。何も、何も貢献なんてできてない。そこまで言うなら教えて下さいよ。僕は、僕は貴方に何を」
「君が私に、第二の人生をくれるんだ」
消極的な知君の声を遮るように、力強い低音が染み入る様に病室内を満たした。嫌味など感じる余地も無く、ただ説得力だけを持って、腸の中にまで浸透していく。
第二の人生。言葉の意味を掴みあぐねた彼は、黙って耳を傾けることしかできなかった。
「君にとってはそうでなかったのかもしれない。けれどね、捜査官というのは常に死と隣り合わせなものだ。特にここ最近の、フェアリーテイル騒動においてはいつ死んでもおかしくないものだった」
現に洋介の後輩である、歩瀬という男は桃太郎の手にかかり殺されていた。クーニャンが仲間入りした頃、当時の自分は暴走していたとはいえ、とんでもないことをしてしまったと桃太郎は腰を折り、額が膝に付きそうなほどに頭を下げた。
それで溜飲が下がった捜査官は決していなかった。しかし同時に、やりきれない理解がやってきたのだ。フェアリーテイル自身も被害者であると言う自覚。桃太郎を、感情では許すことは決してできない。しかしまた、恨んではならないと理性はちゃんと理解していた。
今の時勢、この命も、並び立つ同僚の命も、いつ奪われてもおかしくないのだと。
「理不尽と事故は、いつだって私達の命を狙っている。けれどね、そんな不幸が私達を奪い取るよりも早く、君という人間が『死なせないために』私達の生殺与奪の権利をも奪い取ってくれた。こうして我々が生きていられるのは全て、君が危険な異分子を引き受けて解決してくれていたからだ」
「だから、その事は……洋介さんからウンディーネを奪ったことと何も関係がありません。あくまで、理不尽な不幸を普通の生活に変えていただけ。何かを与えていたというには程遠くありませんか?」
「そんな事は無いよ。確かに見方によっては私は、戦えなくなったんだろうね」
それでも私は、君のおかげで戦わずに過ごせるようになったのだと、彼は言う。
「もうすぐ孫も生まれるし、丁度いい。私は一線を退いて、妻と共に太陽の帰りを待ちながら、孫を愛でて穏やかに過ごす暮らしを、君から貰えたんだ」
このまま進んでいればずるずると、戦場に立っていたことだろう。そのせいでいつ死ぬとも分からない緊張感から解放されずに過ごしてしまっていただろう。しかし、そうはならなかった。
「さっきも言っていたが、私は引き際を見失っていたんだよ。光葉のためと納得させて、まだ一人前になりきれない太陽のお守りのためにも、現役であり続けようとした。だがね、そんな風に過保護にしていたからこそ、見失っていたものも多かった」
しかし気が付けば、次男は自分が代わるまでも無く、自らの力で憧れていた景色を見ることができるようになっていた。嫉妬深く、今一奮わない男だったはずの長男は、いつしか心構えを変え、奏白の先輩として誇らしくあるべく、立派な姿を見せるようになっていた。
それは二人とも、自身が持つ能力者としての強さとは違うところから放つ光だった。ようやく、二人とも望むべく成長を果たして、立派な跡取りとなってくれた。思い残すことなんて一つもない。そろそろ、引退には程よいタイミングだ。
けれどもやはり、その時期を見失っていた。並び立てないと思っていた次男坊と職場で共に並び立つ喜びをかみしめてしまった。そんな風に構ってばかりだから、ずっと甘えてばかりで我儘な子になってしまったというのに。
「私が前線を去ってようやく、あの二人は完成するんだ。私の後を継いでくれる者としてね。老兵は死なず、立ち去るのみ。そんな言葉がある。戦えなくなるその瞬間まで抗い続けるのでなくて、私はここらで後方へと下がらなければならないんだ。後進のためにね」
そんな事は、考えたことも無かった。知君にとっても、彼にとっては身近な奏白にとっても、王子 洋介はベテランの、優秀な捜査官であった。中核を担っていた一人と言っても間違いではない。そんな男が、もはや引き際を超えているだなんて想像はしていなかった。
それなのに本人は遅すぎるぐらいだと言う。ただの慰めとは思えず、洋介はそれを本心から言っているようであった。きっとそれは、太陽のことを信頼しているからに他ならないだろう。彼ならば、自分が去り、その意志を継ぐ者になれるのだろうと。
「私はね、孫娘が生まれてくるのが楽しみで仕方が無いんだ。けれど、ずっと戦いづめであれば私は、その子に構ってあげるだけの余裕なんて無かっただろうね。だからこそ。そう、だからこそだ。私の一足早い穏やかな余生は、君がくれたものなんだよ」
「僕、が?」
肯定のため頷く洋介。その仕草に迷いなど無いものだから、それで納得してしまいそうになる。
しかし、受け入れられなかった。酷く簡単な話だ。その程度の理屈では、知君が自己嫌悪を振り払うには物足りない。それ以上にかけてしまった迷惑を思うと、素直に自分が与えられたものを受け入れられなかった。
洋介が居なくなった影響で、不安を覚えた人々は多いだろう。王子は、父が二度と守護神アクセスできなくなったと知り、自分のことのように激昂した。
平穏な暮らしというのは尊いものだとは理解している。しかし、周りの者にまで与えてしまった影響を考えるに、自分がしたことは許されるべきではない。未だに彼は己の過ちを釈明できる気がしなかった。
「もし、君がまだ納得できないんだとしたら……いや、まずは閑話休題と行こうか」
本題に戻り、再び王子の話に舞い戻る。どこまで話したものだったかと、思い返す。二か月ほど前までは、王子の笑顔には覇気が無い、といったところまで話したかと確認し、その続きを語りだす。
「丁度、君がアリスを討ち倒し、初めてフェアリーテイルの討伐を終えたあの頃だ。桃太郎と太陽とのいざこざとに巻き込まれてね。どうして学校を抜け出してそんな危ない所に行ったのかと叱りつけたものだよ」
しかしその日から、目に見えて王子の態度は変化したと父は見逃していなかった。太陽はしきりに首を傾げていた。何せあの時太陽はむしろ、不甲斐ない姿しかさらしていなかったのだから。それなのに王子はそんな太陽への目つきを蔑んだものに変えるどころか、より一層輝かせたのだと言う。
兄貴達はみんな、あんなのと毎日戦ってんのか。すげえよな、やっぱ自慢の兄貴だよ。部活帰りの汗臭い体で、そう告げている姿を目にした。身重の月子さんは、太陽が恥ずかしそうに鼻の頭を掻いている様子を見て、笑っていたものだよと、洋介はまた穏やかに述べた。月子さんというのは、太陽の奥さんだと添えて。
「その時、きっとあの子は人魚姫と出会ったんだよ」
ずっと、恋のように焦がれていた。その時がいつなのか誰も答えてくれないのに、いつか自分も望んだ英雄像となれる日が来ると。愚直に、自分でも見ないふりをしながら心の奥で願い続けていた。何かの間違いでも構わない、出会うことができたら、その時こそ自分は。
何もない空に手を伸ばし続けて、腕が疲れ切っても下ろそうとせずに、誰からも見向きもされてないのに祈り続けた彼の努力は、ようやく実った。それは当然、生まれ変わったようにもなるよなと、今更ながらひとしおの喜びが湧いてきた。
「だからな……君が桃太郎を倒し、光葉が守護神と出会えていたと知ったその時、私はあの子を怒ることができなかった。祝福してしまったんだよ。危ないことに首を突っ込みやがってと、叱咤なんて何一つできやしなかった。夢が叶ってよかったな、って肩を抱き寄せる事しかできなかったんだ」
ずっと生ける屍のように過ごしてきた彼が、息を吹き返したように笑いだしたことにとんと納得し合点がいったのもその時だ。太陽も初めて知った日には終始狼狽していたものの、自分と同じ想いを抱えていただろう。
「中学生の時に止まって、止まったままだったあいつの時間は、最近になってようやく動き出したんだ。通行止めの看板は無くなって、ようやく歩み始めることができるようになったんだ」
けれども最近になって、その歩みがあまりに前のめりになっていると薄々勘付き始めた。周囲により強力な能力者が多いせいで忘れがちだが、人魚姫とて一歩間違えればフェアリーテイルとなっていたであろう強力な守護神。無能力だった長い日々の後に、唐突に強すぎる力を持ったりなどしたら。よい方向に進むばかりでは無いと、次第に理解し始めた。
唯一幸福なことがあるとすれば、王子の正義が強すぎる力で歪まなかったことだ。今でもかつて憧れた、物語の英雄のような背中を目指して歩んでくれている。しかしその邁進が、あまりに不安だった。夢見るがあまり歯止めがきかず、どこかで躓いて転んでしまいそうになる。
つい先刻の過ちとてその一つだ。我儘になってしまった彼の精神が、父の代わりに怒ってやるのだと、辛辣な言葉で友を傷つけた。確かにこれまで彼は、守護神に恵まれなかった。力を振るいたくても振るえない絶望を知っている。同じように、自分の非力さを受け入れられず洋介が絶望すると思い込んでしまったのだろう。
これだから、光葉は青臭くて困ってしまう。手段と目的を履き違えている。白雪姫との戦いにおいて、誰も死なずに全員が生還できた。それだけで洋介は満足だったと言うのに。理想が高い、というのは買いかぶりすぎだろう。光葉はただ、完璧でないといけないと思い込んでいただけだ。
きっと、知君という少年の小さな背中に、ずっと夢見ていた大きな背中を重ねて、憧れてしまっていたのだから。
「私は赤ずきんの戦う姿を何度か目にしている。今、その場にいる捜査官全員の戦力も把握しているつもりだ」
その上で、洋介は「戦力が足りない」と判断していた。赤ずきんとシンデレラ、そして洋介は知る由も無いが、アリスの三人は、フェアリーテイルの中でも別格の腕利きだ。かつて知君が撃退したシンドバッドや孫悟空も同じ輪の中に入るだろう。奏白やクーニャンを束にしても、犠牲者を減らすのが精いっぱい。一体誰が安定して勝利を収められるものだろうか。
知君を、除きの話ではあるが。
「さっきの話の続きに、戻ってもいいかな」
もし少年が、まだ自分の犯した罪が、償うべき過ちだとしか見られないならば。そう言った寄り道の話の続きだった。正確にはあの話は寄り道でも何でもない、むしろそれが本線と言ってもよかった。しかし、ただ頼むだけなら知君も納得できないだろう。それゆえ洋介は、知君が一層納得しやすいように、自分から息子たちへの想いを吐露したのだ。
「もし君が、まだ自分を許せないというのなら……許すために、この私の頼みを聞いてくれないか?」
「頼み、ですか」
僕にできる範囲であれば、如何なるものでも引き受けると知君は強く応じた。罪悪感から逃げるためではなく、彼本来の性質として、目の前の頼み事から逃げることができないためだ。
「いや、私から君への頼みだなんて、少し図々しいな。これは、懇願であるべきだ」
「図々しいだなんて、そんな事……」
「いや、厚顔無恥にもほどがある。君が思うより私達は、ずっと君へ酷い仕打ちをしてきたものだ。だから先ずは、私がその事を詫びねばならない」
きっぱりと言い切った洋介の姿勢が、不意に下がっていった。座ったままの知君の目の前で、洋介は膝を床につけた。右、左と順番に。そしてそのまま正座して、目の前の床に手をついた。そのまま、腰を深々と折り曲げて、額を地面にこすりつけた。
「今まで君一人に辛い想いをさせて、本当に済まなかった」
「ちょっと……何してるんですか洋介さん、顔をあげて下さいよ!」
「いいや、駄目だ。余所者だからとずっとのけ者にしようとした太陽の分も、君を深く傷つけた光葉の分も……ずっと君がのけ者にされていたのを見て見ぬふりしていた私自身も含めて、こうして謝らねばならない。本当に……本当に申し訳なかった」
知君が己の間違いを悔いているのならば、自分たちとてその罪を無かったことにしてはならない。表面上、頭を下げて謝った捜査官達は数々いる。しかし、ただ謝るだけではまだ足りない。
この、強くも脆い少年の優しさを、尊厳を、踏み躙り続けただけの罪に釣り合う、態度が必要だった。
「そして私は……この上さらに君に、酷い頼みごとをしようとしている。そのせいで君がより一層傷つく可能性があるというのに。君にとってはこれ以上とない艱難辛苦だと言うのに」
「いいからまずは顔をあげて下さい。僕にできることならしてみせます、だから……」
「なら、どうかお願いだ。あいつが、君にどれだけ酷い宣告をしたかは理解している。だが、それでも私にとっては大切な息子なんだ。君にとってこのお願いが、さらなる苦しみを産む可能性があるとも分かっている。だがどうか頼む、君以外にそれができる者がいるとは思えない。私の息子たちを、同僚たちを、赤ずきんから守っては貰えないだろうか。私の望むこれから先の未来に、太陽と光葉が必要なんだ。君が悲劇を奪い取ることでどうか、私達に幸福を授けてはくれないか」
それは、またとない申し出だった。声にならない驚きの音を、小さく開いた口から漏らし、目を丸くして洋介の頭を眺める。ようやく、顔をあげてくれた男と目が合った。その瞳は先ほどまでの力強さは息を潜め、逆に知君による助けを求める、力ない眼光となっている。
この人は、真剣に頼んでいるんだ。一瞬で彼も理解した。瞬きをする暇もなければ、目を逸らす暇も無い。洋介が、一片の迷いも無く、知君ならば頼むことができる。彼以外の者には任せられないと、信じて疑っていない瞳だった。
自分はこの人から、大切な者を奪い取ってしまったというのに。それでも彼は、それを嘆くでなく、憎むでなく、全て受け入れて見せた。気にするような事ではないと、広い懐に飲み込んでみせた。あまりに大きくて、深い心。それはきっと、自分には無いものだと少年は理解する。彼が持ち合わせているのは、ただの諦めの良さでしかないと。しかし、洋介は違う。仕方の無いことは仕方が無いと認め、その上で譲れないもののために、抗っている。
「僕なんかが……また、そんな事してもいいんですか?」
「いいともさ。いや、君が拒むなら無理強いはしない、できないんだ。君が戦うかどうかを決めるのは私達ではなくて君自身なのだから」
「僕自身の、意志」
「そう、君の意志だ。琴割さんが駄目というからしないのではない。誰かに求められたから向かうのではない。君が誰かを救いたいと、そのために巨悪を討ち倒したいと願う時に行くべきなんだ」
「でも……それでも……」
- Re: 守護神アクセス ( No.92 )
- 日時: 2018/07/11 16:28
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
知君にしか見えない幻覚がまた、ひたひたと足音を立ててにじり寄ってくる。うろのような真っ黒な孔を、目の代わりに見開いた人影が、三つ、四つ。ただひたすらに、知君への恨み言だけを囁いている。
その内の一つは、無理やりに奪い取られた代物である、ウンディーネのものだった。真っ黒に塗りつぶされた虚ろな眼窩が、立ち上がった洋介の顔と重なった。同時に、また吐き気のように体の奥からせり上がってくる罪悪感。麻痺してしまったかのように、喉が上手く動かない。気道が開いた実感が無く、吸い込んだはずの空気が肺にいきわたらない。苦しくて、辛くて、過呼吸のようになって喘いでしまう。
「でも、またどうせ僕は、誰かを不幸に……」
「俺がいつ不幸だと言った!」
途端に、部屋の壁を震わせるような大きな声。一瞬叱られたのかと、知君は怯えた目をしながら体を洋介と反対側に逸らした。しかし、洋介の表情に怒気など微塵も孕んでいない。その顔はただ、切実に、この場に居ない誰かの安全を願っていた。王子 光葉の、無事を願っていた。
「俺はまだ生きている。君が白雪姫を無事に倒したからな。俺の息子は恵まれている、あんないい子と契約できたのだからな。俺とて恵まれている。こんなに強くたくましく、優しい仲間に出会えたのだからな。知君 泰良、君の事だ。そして光葉は、やはり誰よりも恵まれている、こんな素晴らしい学友に恵まれたのだからな。それだって君のことだ。もう一度言うぞ、俺が誰のせいで不幸になったというのか言ってみろ。きっと分かっていないのだろうな、俺が今『こんなにも幸せ者だ』という事なんて!」
何も、反論などできなかった。一体何時から、自分は彼が不幸の只中にいるだなどと錯覚していたのだろうか。彼はここを訪れてから、一度として知君に詰め寄り、誹り、詰るようなことなどしなかったというのに。むしろ王子を諫めていたというのに。知君のことを労わってくれたと言うのに。
一体どうして、自分が恨まれているのだと思い込んでいたのだろうか。
洋介はその沈黙を、知君が彼の言葉を信じられていないからだと判断した。それゆえ次々と、自分が幸せだと感じる論拠を述べ始める。その理由なんて、もうとっくに耳にしていた。もうすぐ孫が生まれること、二人の息子が共に大きく育ったこと。後輩たちが立派になったことに、次男坊の友人が、大層立派な正義の味方であること。
そうだった。この人は、一つとして嘘偽りなど口にしていなかったのだと、ようやく理解した。上司というには、所属が違う。血も全く繋がっていない。旧知の仲でも無いと言うのに、この男は、易々と自分の後ろ向きな心を、無理やりにでも前を向かせようとしてくれているのだと。
恨んでいる訳でも、利用しようとしている訳でもない。ただ、目の前で自分が苦悩していたから。だから手を差し伸べずにはいられなかった、それだけ。自分の行動理念と、何一つ変わらない。そして、自分のよく知る、クラスメイトの彼と、信じ貫く想いが、何一つ変わらない。
誰かのために。知君の周りではありふれてしまっている、そんな偽善にもとられかねない行動理由。けれども、その想いを向けられた自分だけが理解できる。横目に見た誰かが何と評しようと、その根底にある感情は、優しさ以外にあり得ないと。
その暖かい感情が、思いやりが、ようやく少年の胸の奥にまで響き渡る。空っぽだった体の奥に、じんわりと何かが詰められていく。優しさほど甘くなくて、勇気のように自力で沸き立たせるものでもない。これは間違いなく、他人から受け取る感情だ。
この感覚に、名前を付けられないほど彼は馬鹿ではない。すぐに悟った、今自分はかつて傷つけてしまった人から期待されているのだと。
「決めるんだ、知君くん。口にするんだ、本心を。行きたいのか、ここでじっとしていたいのか。他の人達を信じて待つのか、待ちきれずに迎えに行くのか。選べるのは自分一人だけだ」
「いいんですか? また、誰かを傷つけるかもしれない。失敗しちゃうかもしれない。そんな僕がまた、戦うために立ち上がってもいいんですか?」
「いいに決まっている。君なら、同じ間違いはきっと繰り返さない。護りたい者全員、漏らすことなく救って見せる」
「僕は……待ってなんかいられない。今すぐ、皆の横に並び立ちたい。認めてくれたんだ、もう一度認めてもらいたいんだ。だったら答えなんて、もうとっくに出てるに決まってます」
それは奇しくも、真凜が壊死谷を前にして、絶望していたあの時。再び、立ち上がろうと決めた時に一人呟いた言葉とよく似ていた。
満ち足りた想いの中、不意に涙さえ湧いてきそうになるが、それを何とか堪える。これから先の戦いには、涙など必要無いから。
それは奇しくも、王子が初めて人魚姫と出会ったあの日。彼が手放しかけていた夢を、再び握りしめなおした瞬間に考えたこととよく似ていた。
「トラウマなんて理由にして、ここでじっとしている人が、認めてもらえる訳ありません。だから行くんだ、だから戦うんだ。ここで奮い立てない人間なんて、一生かけても死んでも認められる訳ないんだ」
その言葉は、理念は、いわずもがな奏白から引き継いだ代物だった。
これまで、自分だって多くの人の言葉を想いを一心に吸収して、生きてきた。成長してきた。琴割の躾は厳しかったかもしれない。研究員たちの目が冷たかったかもしれない。それでも彼らの教育があったから、今の自分がいる。今の自分だからこそ、真凜達から認めてもらえた。
「だとしたら、全部受け入れるしかないんだ。感謝するしか無いんだ。僕はずっと、奪うことしかできないと思っていた。けど……こんな僕が、誰かの怒りを憎しみを、悲しい感情を全部奪うことができるというなら、それはその人に、幸せをあげることができる。ですよね? 洋介さん!」
「ああ、そうだ」
なら、君のことも受け入れなければならないんだね。何も手にしていない、その掌を見つめる。脱力し、柔らかくほんの少し曲がった指は、そこにphoneがあるかのような形で、何もない空間を支えている。
そう言えば、一つ失念していたと、知君は不意に顔を青くした。
「どうしましょう。Phoneを渡したままだから、callingできません」
先ほど、怯えていた知君に親心を示した琴割が持ち去ってしまっていた。流石に端末が無ければ知君とて守護神アクセスを行うことはできない。ようやく心の準備はできたというのに、あと一歩の勇気を踏み出せそうだというのに、足りない。
いつもいつも、パズルの最後の位置ピースが足りないんだ。決してハッピーエンドの絵柄を完成させないようにと、誰かがその欠片を隠してほくそ笑んでいるみたいに。小さく悪態をついて、自分の膝を殴りつける。
そんな時だった。皺や擦り傷が深く刻まれた、石のようなごつごつとした拳が目の前にすっと現れたのは。掌を見せるようにくるりとその手首が返った。目に飛び込んできたのは、使い古されたであろう、ところどころ傷のついたphone。持ち主は当然、洋介に他ならなかった。
自分にはもう使えないから。悔しそうに握りしめた知君の手を優しく開いて、その手に自分が所持していた端末を収めた。
「受け取ってくれないか?」
「洋介さんの、ものですか……?」
「ああ」
本当は、太陽にでもくれてやろうと思っていた。これからはお前が代わりに頑張ってくれと、意志を託すつもりで。しかし、その必要が無いほどに彼はもう、大人に育っていることだろう。ならばこの端末は、渡すべき優秀な若手に託しておくべきではないだろうか。ふと、そのように思えた。
Phoneは本来、持ち主と設定している人間にしか使えないようになっている。しかし、自分が守護神アクセスできなくなった以上、洋介にはもう使えない。それならと、開発部局の者に依頼して、本体設定を初期化してもらった。それこそ息子にでも受け継がせようとして。
「だがこれは、君が持つに相応しい」
「でも、僕は受け取れませんよこんな大切なもの。謙遜なんかじゃなくて、これは洋介さんの家族が」
「いや、いいんだ」
これを知君が持ったとしたら、その時きっと、あの日ウンディーネを奪い取られた認識さえ、変わってくれる、そんな気がした。あの日知君が無理やり守護神を奪い取ったのではない。勝利のために、洋介がその力を授けたのだと。
「これで君は、自分が許せるかな」
「そのため……ですよね。はい、もう大丈夫です。ここまでしていただいて、後ろなんて向いていられません!」
「……赤ずきんを倒したら、うちにでも来ないかね。俺の後輩として、太陽の同僚として……もう一人の息子の、友人として。妻に、あの子らの母に、紹介させてほしい」
「ありがとうございます。絶対、絶対王子くんと仲直りして、伺わせてもらいますね!」
「ずっと塞いでいたのが嘘のようだな。じゃあ行こう、車は出そう」
ふらつきながらも、起き上がる。精神の調子がよくなったからか、何とか一人で立つ事が出来た。少し慣れれば、すぐにでも走り出せそうだ。
病院服で向かわなければならないのが、少し恥ずかしいけれど。そんな風に思っていたところに、まるで示し合わせたように琴割が入室する。
「ことわっ……りさん」
「安心しろ、止めへんから」
柔らかな塊を知君に投げる。胸に当たったその布を、何とか受け止めた。見慣れた色合いのスラックスに、ブレザー。彼の通う高校の制服だった。スーツが捜査官の正装であるように、知君にとっての正装はそれに他ならない。
再起の可能性も信じて、一応準備しておいてくれていたのだろう。本当に、あれだけ冷たかった人が、よくもこんなに変わったものだ。彼が代わったのは奏白の影響だと言う。やっぱり、奏白さんはお兄さんみたいな人ですねと、くすぐったい笑みを他の人に見えないように漏らした。
「行ってきます!」
「おう、信頼しとんぞ。ああ、それとな知君」
お前その呼び方もうちょい何とかならへんのか?
脈絡なく琴割が問いかける。何を指しているのか分からない知君だったが、携帯電話を耳に押し当てるような動作から、何となく指している言葉を察した。
「お前ぐらいやぞ、そんな呼称を未だに引きずっとんのは」
「……そうだな。知君くん、俺が恩師にかつて教わった言葉を教えよう。強い意志というのは、言葉に宿るものなんだ。『勝つ』のではなく、『勝ち抜く』んだ。ただ『やる』のではなく、『やりとげる』んだ、と」
君が“生まれ変わった”というその事実は、言葉から主張してみたまえ。そのように諭された。言わんとしている意味は、よく分かる。確かにそれは、今の自分にとって変えるべき代物だとは自覚できた。
「そうですね、僕も丁度思っていたところです。“皆と一緒に”戦ってるんだ、って。独りよがりじゃない、誰のために戦うか、もう一度見直した僕を見せるために」
「はあ。男子三日あわざれば刮目して見よとはよう言うたもんじゃ。こいつ数分目ぇ話しただけで顔つき変わりよったわ」
「帰る時には、もっと変わってますよ」
「そしたら祝いに服でも買ったるわ。お前学生服しかもっとらんしのう」
「王子くんに選んでもらいますね」
「そうしろそうしろ。金だけ出したるわ」
着替えは車内で済ませればいい。病院着のまま知君は、洋介に並び立って駐車場の方へと駆けていく。院内専用のスリッパのままだというのに。
「まあ、ガキなんじゃったらそんぐらい向こう見ずな方がええもんじゃのう」
少年の力で、多くの人が代わっていった。奏白がより成長して、真凜が志を新たにして、王子は理想を手に掴み、彼らが琴割の反省を促した。そして結果、変わったのは何も、周囲の人間だけではない。彼自身もまた、支えてくれる人々の影響で、変わりつつある。
本当に、眩しくて仕方が無い。
「愚息のことを、よろしく頼む」
薄い彼の身体を押す追い風のように、洋介は少年の背中を叩いた。楔のようにその願いが、受け継ぐべき矜持が彼の中に打ち込まれていく。
これまでの不幸も、理不尽も、全て自分を構成してきた大切な思い出。そんな風に受け入れられる老獪さ。それさえ、自分の糧として見せる。
力強い声で、知君は洋介の申し出に応じて見せた。
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