複雑・ファジー小説
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- 守護神アクセス【Epilogue-2・中編】
- 日時: 2022/05/19 21:16
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: m3Hl5NzI)
2020年、夏の小説大会で金賞もらっていたらしいです。
投票してくださった方々、ありがとうございました。
___
本編の完結とエピローグについて >>173
目次です。
▽メインストーリー
File1:知君 泰良 >>1 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6
File2:王子 光葉 >>9 >>10 >>11 >>12-13 >>14
File3:奏白 真凜 >>16 >>17 >>18 >>19 >>20 >>21 >>22 >>24 >>25 >>26
File4:セイラ >>27 >>28 >>29 >>30 >>31
File5:奏白 音也 >>32 >>33 >>34 >>35 >>36-37 >>38
File6:クーニャン >>39 >>40 >>41 >>42-43
File7:交差する軌跡 >>44 >>45-46 >>47-48 >>49
File8:例えこの身が朽ちようと >>50-51 >>52 >>53 >>54 >>55-56 >>57 >>58
File9:それは僕が生まれた理由(前編) >>59 >>60-61 >>63-64
File0:ネロルキウス >>65 >>66 >>67 >>68 >>69 >>72 >>73 >>74 >>75 >>76 >>77 >>78 >>79 >>80 >>81
File9:それは僕が生まれた理由(後編パート) >>82
File10:共に歩むという事 >>83 >>84 >>85 >>86 >>87 >>88 >>89 >>90-92 >>93-95 >>96-97 >>98 >>99
FILE11:人魚姫は水面に消ゆる夢を見るか >>100 >>101 >>102-103 >>104 >>105 >>106 >>107 >>108-109 >>110 >>111 >>112 >>113 >>114 >>115 >>116 >>117 >>118-119 >>121 >>122 >>123 >>124-125 >>126-127 >>128-129 >>130-131 >>132 >>133 >>134 >>135 >>136 >>137 >>138 >>139 >>140-141 >>142 >>143 >>144
Last File:12時の鐘が鳴る前に >>145 >>146 >>147 >>148 >>149 >>150 >>151 >>152 >>155-156 >>157 >>158-159 >>160 >>161 >>162-163 >>164-166 >>167 >>168 >>169 >>170 >>171-172
Epilogue-1 【守】王子 光葉 >>174-175
Epilogue-2 【護】知君 泰良 >>176-177
-▽寄り道
春が訪れて >>23
白銀の鳥 >>70-71
クリスマス >>120
▽用語集
>>8 File1分
>>15 File2分
>>62 File8まで諸々。それと、他作品とクロスオーバーしたイラストを頂いたのでそちらのURLも
▽ゲスト
日向様(>>7にイラストをくれました、感謝。What A Traitor!作者)
友桃様(Enjoy Clubの作者様。自分にとって小説の師匠や先生みたいな感じの方)
気軽にコメントとかもらえたら嬉しいです。
僕も私も異能アクション書いてるの!って子は宣伝目的で来てくれても構いません(参考にする気しかない)
- Re: 守護神アクセス ( No.68 )
- 日時: 2018/05/18 15:27
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
初めてのcalling、暴走したネロルキウスが研究員一人から守護神を奪い取ったあの日から、二年と少しの歳月が経っていた。
「おい、はよせえや」
「分かって……、ます」
あの日あの時あの瞬間と同じ部屋、見る視線の数こそ減ったものの、それ以上に少年の心模様が明らかに違っていた。あの時の少年は、これからようやく自分が役に立てる日が来ると信じ、明るい未来を信じて疑っていなかった。陽の光を精一杯に背を浴びて、朗らかな笑みとで人々に安堵を与える、そんな英傑にこれからなれるのだと。
自分以上に正義を体現する者などいないだろうという自負が、言葉にならなくても心の中に渦巻いていた。最も正しくあるべきと励み続ける求道者、琴割 月光の教育を色濃く受けた自分であれば、間違いなく、失敗も障害も何もない花道を歩んでいけるだろう、と。
しかしそんな少年の華やかでいて、それで甘ったるい幻想はある日突然に、暴君によって引き裂かれ、どす黒く染め上げられてしまった。誰かを助けるために、それが彼の行動理念だったはずだった。しかしだ、彼がしでかしたことと言えば何だった。これまで自分を育ててくれた研究員の一人から生き甲斐を、ネロルキウスの能力さながらに奪い取っただけだ。
僕は決して、そんな事しようとした訳じゃないのに。後悔、懺悔、それと同時に言い訳が彼の口を突いて出た。言い訳など、数年来のものだった。何せ彼は、失敗を取り繕うなどしようものなら、痛みに訴える躾をなされていたのだから。
それでも、その弁解だけは避けられなかった。それこそ、頭に血が昇って真っ赤になった女性が、殺気じみた怒気を浮かべて喉元を押さえつけてくる様子を見れば、恐ろしくて仕方ない。自分のせいじゃない。最初からそんな事しようとなど考えていなかった。そんな風に自分に非が無い事を主張しなければ、その激情に加えて、自責の念に押しつぶされてしまいそうだったから。
そのため、少年は味方を求めた。僕のせいじゃないよねと、縋るように、後ろ盾を募るように。年老いた男性の研究者に、女よりもう少し若い、男の研究者に。そして最後に琴割の顔を見た。僕は何も間違っていませんでしたよね、その問いを肯定してもらうために。
しかし琴割はというと、眉一つぴくりとも動かなかった。他の職員たちはと言うと、どちらで答えたものかと困惑し、閉口してしまった。目すら逸らし、知君の方を見ようともしない。決してそれは、女の味方についていた訳では無かった。自分が同じ目に合いたくないから、そして少年の側について、女からの憎悪を自分にも向けられるのを避けたためだ。
このままだと無為に時間が過ぎるだけ。そう思った琴割が最初にその膠着を打ち破った。ただ、その声はどこまでも冷淡であった。ここに至るまではずっと、不都合な道を拒絶し続けてきた。必ず成功するようにと、自ら強固に舗装した道を歩んできた。
しかし、その失敗を知らぬ研究生活に初めて挫折が訪れた。この時琴割は、自分が如何に研究者から遠い存在にいるかという事を初めて実感した。これまでは、自分以上に研究熱心な者は居ないと思っていた。しかし、この時ようやく彼は、真の研究者たるに必要な資格が何であるのかを確信した。
研究と言うのは、学問というのはそもそも、あくなき探求心から生まれるものである。そうやって思考を重ねて、試行錯誤し、何度も何度も失敗を繰り返し観測データを積み重ね、それら全てを考慮に入れて、悩み抜いて考え抜いて最後にその答えを導いていく。その一連の過程を人々は学問と言う、のに。
琴割は最初からそのような過程全てを拒んでいた。ただ単に、自分が考えた設計図に反する事象を拒むガキ大将に過ぎなかった。己の稚拙な独裁者ぶりを自覚する。間違えてこそようやく成功に達するというのに、計画が終わる間際になってようやく間違いと正面から向き合うこととなった。
真に研究者たる資格とは、この失敗から真理を導き出せるかどうか、その一点のみだ。見返せば笑ってしまう様な失敗の山を積み上げて、その上に立ち、遥か高みにあると思っていた未知と言う高い尾根を見下ろすことだ。見下ろし、その山の背に隠れていた真実を曝け出させる、それこそが勉学であるというのに。彼はその、失敗と試行錯誤とを何一つ積んでこなかった。
それゆえ、最後の成功を掴みかけたこの瞬間になってようやく、足場がぽきりと折れて崩されてしまった。あまりに自分が馬鹿馬鹿しくて、足元がおぼつかなくなるその感覚もどこかコミカルに思えた。
ジャンヌダルクが顕現してから、自分にどけられない障害は無かった。しかし今回は違う、ネロルキウスはELEVENの一人である。これまで自分が我が物顔で振る舞うために何度も恩恵にあずかってきた超耐性が今度は目の前に立ち塞がった。
だから琴割は、その高い壁を乗り越える方法を知らなかった。そしてそのまま、立ち塞がる者全てを否定する我儘な精神だけが取り残された。受け入れがたい現実は全て跳ね除けてきた、そんな男はその重たすぎる生涯を、高すぎる壁を超えるプロセスを、全てまだ幼い知君に押し付けた。
お前が何とかせなあかんことやろ。気が付いたら知君に、そう呼びかけていた。まるでその身体の持ち主が自分では無いようだった。虚像の自分が、目の前に浮かび上がってくるようだった。知君の後ろで見守るような、自分にしか見えない己自身の姿を模した幻覚。
蛇みたいに狡猾な目つきで、隙を窺い、今か今かと毒牙を突き立てる好機を待ち望む。その幻想に己の心が揺らいだことを自覚してしまった。その瞬間、自分自身を責める虚像の影が、大きく口を開いた。
「何十年も生きとんのに、なっさけないやっちゃのう」
分かっとるわ、それぐらい。悔しまぎれの言葉を奥歯で磨り潰して飲み込んだ。療養室で点滴を受ける知君の助けを求める視線を振り切るように、踵を返す。後はお前が向き合う問題だなんて、もっともらしいことを言いながら、そのちっぽけな背中に、すぐにも折れてしまいそうな双肩に、あまりに大きすぎる重荷を背負わせてしまった。
しかしそれでも、知君は弱音を吐こうともしなかった。その様子により一層、琴割は己の過ちを自覚した。自分が作り上げてきたのは、ぶれない正義の人間などではなかった事を。正義の概念が、誰より大きすぎる力を纏ってしまった、ただの兵器を生み出してしまったのだと、この時ようやく自覚した。
その恥ずべき失態に対する怒りをぶつけるかのように、あれから二年、十二歳の春を迎えようとしている知君に接してきた。あの日から何度も、定期的にネロルキウスを御するための訓練を彼らは行ってきた。前回のようなことが起こらないように、強制的にcallingを終了させるための装置をphoneの中に内蔵し、同じ部屋の中で対話する人間を自分一人に絞った。これならネロルキウスも余計な手出しをできない、と。
初めは週に一回のペースで挑戦していた。しかし、ある時から知君が体調を崩しがちになった。脳波が日々弱弱しくなる。数か月ネロルキウスとの交信を避けると、元のように元気な様子に戻った。この事から、ネロルキウスと接続すると、脳に著しい負担がかかるとデータが得られた。
とすると、小学生相当の知君の脳では耐え切れないのも無理は無い、もう少し器が成熟するのを待とうという案が上がった。しかし、琴割はその意見を却下した。慣らさせた方がよほど早い。そんな風に言い切った琴割は誰の制止も振り切って知君を酷使した。
しかし当然、芳しい結果は得られなかった。次第に知君が挑戦しようとする機会は一か月に一度、二か月に一度、とうとう三か月に一度まで落ち込んでしまった。回数を重ねる毎に、少年がネロルキウスに怯え始めたのが原因だ。脳が焼き切れる感覚と、意識を奪われると同時に感覚全てが闇の中に沈みゆく様子が、まるで死を予感させるらしいからだ。
どんな教育を施そうと、生物の本能など根本的に変わらない。よほど生に絶望しているか、初めから頭のねじが飛んでいない限り、死とは恐ろしくて堪らない。これだけ壊れた価値観と倫理観を抱えた彼にとっても、死とはやはり、あまりに恐ろしいものであった。
「琴割さん、覚えておいでですか?」
スピーカー越しに、老いた男の声が響き渡った。怯えて縮こまり、phoneのボタンを押すことすらままならない知君の耳には届いていない。その頭上を素通りし、不機嫌そうな白髪の男の耳にまで届く。
「何や」
苛立ちからか、その声はやけに鋭かった。その勢いに気おされてしまいそうになったが、これ以上引き下がってはいられないと、マイクの向こう側の声は強く主張した。
「一度、彼の成長を待った方がいい結果が出ます。ですから、用意した戸籍を用いて、彼を学校へ通わせましょう」
「ほんまに意味あるんか」
「きっと、外で過ごして、護るべきものを実感した方が彼は、ずっと強くなる」
今日の実験が上手くいかねば、彼は一度世の中を知るべきだと提言していた。そして今日も、少年は暴君に酷く怯え、憔悴し、接続などできそうにもない。そんな様子、見ていられない。初期の頃に人の心など殺したと思っていた。それなのに、どうしてか彼の中には、いつしか少年に対する親心が芽生えていた。
「分かっとるわ。ここでその話を拒むほど、儂もガキちゃうからな」
「ぜひ、そうしてあげてください」
安堵と共に胸を撫でおろす。部下である研究員一同が、揃って知君の新たな門出を祝おうとする中、琴割は二年前の自分への苛立ちを、胸の中に燻らせ続けていた。火種だけが、胸の中に。しかしぶつける相手はどこにもいない。
分かっている。その小さな火を燃やすべき薪は自分自身であるという事実は。しかし今更自分の非など認められないほどに、琴割という男は頑固で偏屈な男になってしまっていた。だから、その胸中に燻る、赤熱した鉄塊のごとき感情は全て、自分が作り上げた脆く矮小な彼へとぶつけてしまった。
胸倉を掴み、引き起こす。怯えて揺れる瞳と目を合わせる。その琴割の視線すらあまりに鬼気迫るものであり、彼の目はより一層強く泳ぎ始めた。
「ことわりさん……ぼく、ぼく……」
「よかったなあ、知君ぃ……今度からお前は社会見学でしばらく実験も休みじゃ」
これまでのように、無理にネロルキウスを呼ぶことも、暴君と戦うことも強いられない一時の凪。その訪れに少年の、青白く生気を失った頬に赤みがさした。その様子が、ひどく忌々しくてならない琴割。彼は普段ずっと見せる気も無いような細い目をカッと見開き、誰も見たこと無いような猛り狂う瞳で少年を見据えた。
その声は、燃え盛る怒りとは裏腹に、やけに小さく静かではあった。しかしそれは、あくまで濃縮されているだけだ。込めた想い自体が小さくなってしまった訳ではない。それはまるで、噛み付いた蛇がその毒を獲物に流し込むように、心を殺す鉛を体内に打ち込んだ。
「せいぜい、人間の真似事でもして楽しんどけや」
その言葉は明確に、少年は決して人間になり得ぬと、知らしめているようであった。
- Re: 守護神アクセス ( No.69 )
- 日時: 2018/05/18 15:57
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
温かな日差しが顔に降り注ぐのを感じた少年は、薄く目を開けた。真っ白な光が瞼の隙間から差し込んでくる。むくりと体を起こし、光源は何かと確かめる。何てことは無い、昨日自分がカーテンを閉め忘れていただけのことだ。強い光を不意に浴びたが故に、残照が網膜に張り付く。紫みたいで、緑みたいな色をした奇妙なフィルター。
時計を見るに、六時にもう直差し掛かるようなところだった。目覚まし時計も、後五分としないうちに鳴り出すところであろう。予めアラームを解除して、知君は台所の方へと向かう。今日の弁当は何にしようかな、などと考えながら。
しかし知君はその歩みをふと止めた。平日だと思い込んでいたが、今日は祝日では無かっただろうかと。カレンダーを確認する。やはりそうだ、五月の終わりごろ。この日は地上に初めてジャンヌダルクが顕現した日。数年前、phoneが一般的に普及し始めた頃に世界的に定められた祝日だ。
もうあれから、表の世界に出てきて四年と一か月とが経過していた。それなのに、まだこの曜日や祝日といったものには慣れそうになかった。あの頃は、季節も無ければ日付も、下手をすると一日の概念も無かったものですからねと、彼は自身を説得するように呟いた。
高校二年、五月。未だにcallingなどできずにいた。世間的にはもうその呼び名も古く、昨年から守護神アクセスと呼ばれ始めるようになった。その理由らしい理由は、ネロルキウスの発した言葉だろうとは知っていた。琴割に守護神アクセスという言葉を突き付けたのは、紛れもなく七年前、世間的に言うなれば小学校四年生相当の自分だからだ。
phoneを使うその様子、そして通話を仕掛け、呼びだした契約者本人とだけ対話できる守護神というのが、まるで電話越しの通話をしているのと酷似している事からcallingなどと呼んでいたが、守護神達の用いる本来あるべき名称に整えたようである。
今まで発覚していなかったというのも変な話ではあるかもしれない。しかし、守護神から見てそんな呼びかけの言葉などしょうもない事だったのだろう。名前に意味を探し出そうとするのは人間くらいのもので、特に日本人にその傾向は強い。
元が人間の連中も数多く存在してはいるが、やはり守護神となってその人生以上の月日を歩んだからであろう。元が歌人であったなどの一部の守護神を除き、彼らにとっては言葉など意味が通じれば何も問題ない。
でも、僕の名前には意味が付けられている。学習机の上に広がったノート。そこに黒のマジックで記された名前を見、溜め息を吐いた。ネロルキウスと守護神アクセスする際の余計な副次品として、自分の実験にまつわる様々な情報も彼はとっくに知っていた。自分につけられたこの大げさな名前は、自分だけの大切な記号と言うより、ただの四字熟語のように思えた。
もう一度カレンダーを眺める。日付を確認し、中学校に入らせてもらってからどれだけの月日が流れたかを実感した。六年の内、四年間。自分に渡された猶予の、三分の二を消化してしまった。この四年で自分が本当に成長できたかどうかなど、自分にとっては分からなかった。
何せ全知の力で、高校内容の学問など全て知識は頭の中に入ってしまった。国語や英語といった科目こそやり甲斐はあれど、理科や社会と一括りにされるような学問はどれもこれも悩むところなど無い。記述問題も中にはあるが、それにしたって数多の論文に、権威ある教授の研究、検証データが頭に入っている以上敵ではない。
授業を受けるという、至って平穏な生活は心底幸せだったけれども、その授業を受けて成長している実感はまるでない。ただ、授業中に問いに間違えた生徒がテストでは同じ問題を正解しているのを見て、間違いと反省が大切なのだとは察していた。人間にとっては、それが価値のある代物なのだと。
人間ではない兵器の自分には、間違いなどあってはならない。それでも周囲の人間は失敗を重ね、成長するべきだとは学べたし、挫折する人々を見てもそれは恥ずかしくなどないのだと理解した。むしろ、誇るべきことであると。
それと同時に、世の中には取り返しのつかない失敗も溢れていると知った。恋人との喧嘩別れなどがそうであろう。一度壊してしまえばもう二度と修復の利かない物事も存在する。自分の暴走の結果残したものと同じだ。あれは少年がどれだけ詫びようと、返そうと願っても叶えることなど決してできはしない。
思考が段々と後ろ向きになっているのを実感する。学習机に乗っかったままの、あの日使ったphoneの背面液晶にピントが合う。弱い光で今日の日付に、今の時刻を照らしている。どこかに出かけてみようか、などと考えてその黒い機械を手に取った。握りしめれば直方体に近い形をしていると分かる。まるで箱だ。その奥に、何が詰まっているかなど分からない、ブラックボックス。
開けてしまえば災いが溢れ出すその様子は、まるでパンドラの匣のようにも思われた。本当にパンドラの匣であればよかったのにと、恨みがましい想いでそれを乱暴に肩掛けのポーチの奥底に入れた。これがその匣であれば、その奥底に希望がちゃんと眠っているというのに。彼にとってその深淵に潜む暴君はあらゆるものを私欲で塗りつぶす、ただの怪物に過ぎなかった。
カーテンを開き、部屋の中に陽光を招き入れる。研究施設から届く仕送りから、チューブに詰まったゼリー飲料を取り出した。一食に必須な栄養素が全てその一本に詰まっている。開栓し、手で押しつぶしながら中身を啜る。味に飽きないようにとそれぞれ少しだけフレーバーが変わっている。実在する食品をモチーフに味を調えているようだが、その昔、この栄養ゼリーと、顎の強化のためのガム以外のものを口にしたことの無い少年にはその由来となった食品が分かっていなかった。
中学では昼食は毎日給食であり、高校になってからは時折買い食いするようになったので、今では様々な食品の味を知っていた。だから分かる、今日のゼリーはバナナの味を元にしているなと。
窓から見える景色、その中心に座しているのは天まで届きそうな一本の線であった。低い位置にある雲など突き破り、それより上へと首を伸ばしている。久しぶりに、あそこに登ってみようかななどと知君は考えた。
守護神により、あらゆる技術は発展した。それは建築技術もその素材作りも例外ではない。これまでより遥かに優れた素材と、建築方法。さらにはそれを実際に作り出す過程にも守護神の能力を用いる事が出来るため、以前までの建造物とここ数年の建造物との間には埋められない大きな差があった。
その象徴たる代物が、ああやって聳えている日本最大の電波塔であろう。東京スカイツリーの後釜を担うべく、三年前に建設された1000メートルをも超える電波塔。それは地上の建物の中で何よりも高く、空に直結しているかのようという意味を込めて、こう名付けられた。ハイエストスカイリンク、と。
先日のゴールデンウィークには三周年の記念イベントをしていたため、恐ろしいほど混雑していたらしいが、今は何も催しなども無いようである。イベントの時に訪れた人があまりにも多かったようで、近隣の人もその時に訪れたせいで最近は空きがちなのだとか。
あそこにしか売っていないようなキーホルダーもあるようですし、行ってみるのも悪くないですね。唐突に、タイムリミットが近づいたことを察してしまった知君。中学二年生の時にハイエストスカイリンクが完成してから、気が滅入ってしまった際にはそこの展望台からの景色を見ることにしていた。
高校に入ってからは楽しい事が多くて、行きたいと思う様な日があまりに少なかった。最後に訪れたのは、昨年残暑が厳しかった頃だったろうかと思い返す。夏風邪をひいてしまい、看病してくれる人など誰もおらず、戸籍が偽造されたものなので病院に通う訳にもいかない。
琴割の古くからの知人が個人経営している病院に訪れ、裏口から風邪薬を処方してもらうのが関の山だ。熱のせいで重い体を引きずってスーパーでスポーツドリンクとうどんとを買ったことをまだ覚えている。心細かったけれど何とか乗り切れた。しかしやはり精神的にまいってしまったがゆえに完治したあかつきに地上800メートル地点の展望台を訪れた。
側面のみならず、足元の床までガラス張りになった部分がある。そこに立てばまるで自分が本当に空を飛んでいるような気分になれた。空を舞う鳥のように自由に生きたいと願う知君にとって、そこからの景色は非常に爽快で、心の中の曇天を突き抜ける一筋の光となるに値した。
そしてその景色とは、何も彼だけに特別な感傷を抱かせる訳では無い。以前まで日本一高かったスカイツリー、その頭頂すらも眼下に見下ろす優越感。そこに魅力を感じるのは、人類共通と言っても過言ではない。強いて言うなら高所恐怖症の者は嫌がるだろうか。
その日は祝日であるため、最近人も少なくなってきたと思われたその塔への来場者は久々に多いと言えるものになっていた。近づけば近づくほどに大きくなる人の密度。その予想外の来訪者に、髪を茶色く染めた青年は嘆息した。電車の中で耳に当てていたヘッドフォンを首にぶら下げるその様子も、彼がするととても様になっている。
「今日は空いてるって思ったんだけどなぁ」
ラジオでの情報を真に受け、久方ぶりの休暇だからと、今まで行く機会の無かった新規の観光スポットに足を運ぶことにした彼は重苦しく息を吐き出した。街行く女性が彼の顔を見た後、振り返り二度見する視線を感じた。普段は署にこもりがちだからこんな経験も久しぶりだなと、男は少しだけ気を良くした。
元々流行りものには目ざとい彼だ。かねてから日本で、否、今や世界で最も高いその電波塔を訪れようとは以前から考えていた。しかし休暇が中々取れない事や、取れても両親への孝行などに使うことが多く、さらには人があまりにも多いとうんざりして別の所へ向かってしまう性格から、一度も訪れることができないままでいた。
ハイエスト、最も高いという言葉の響きに、どことなく彼の中の性癖が刺激されているのが理由として大きいとは分かっていた。それと、SNSでそこの全面ガラス張りの位置に立つ写真をアップするの流行っていたということもあった。
やはり世間の流行には乗っておきたいという彼自身の嗜好、それにもう一つ、男がこの展望台を訪れようとしたのには理由があった。三周年のイベントが行われていた際に、彼の好きなロックバンドがここを訪れていたからだ。彼らが訪れていたのは初日で、その後爆発的に来場者が増加した。バンドのベーシストが、ボーカルと二人でツーショットを取っている画像がSNSに載ったためだ。
毒性を意味するアルファベット五文字のグループ名に相応しいというべきか、東京中に浸透した熱が、一挙にハイエストスカイリンクに密集した。その波に乗じたかった彼ではあったが、生憎彼は警察の、守護神犯罪専門の捜査官。人が増え、犯罪も増えかねないその時期に現場を投げ出すわけにいかなかった。
「りっさんが美味しいって言ってたアイスの店も探そうか。えっと、一階にあるんだっけな」
ベーシストの名前には律という字が入っているからなのだが、彼はと言うとそのバンドの中でも好きなメンバーの事を「りっさん」と呼んでいた。
携帯電話を取り出し、時刻を確認する。今日はオフなのでphoneではなくただのスマートフォンを持って来ていた。液晶に今の時刻と空模様、そしてついでに占いが表示されていた。今日の一位は彼自身の星座でもある獅子座であった。占いに依れば、「今日は思いもかけない新たな出会いがあるでしょう」との事だ。もう一度スリープにし、スマホをポケットに再び入れる。
占いなんてほんとに当たるもんなのかね。澄ました顔を貼り付けたまま、雲の上に顔を隠してしまった、世界最高峰の建造物を見上げながら、奏白 音也はそんな事を呟いた。
- Re: 守護神アクセス ( No.70 )
- 日時: 2018/05/19 13:33
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
※本編と関係の無い番外編です。
いや、本編書けよってな……。何となく書いてしまった……。
「真凜、お前今どこだ?」
phoneが着信の通知で鳴り響いたため、通話に出てみると奏白がやけに逼迫した声で真凜の現在地を尋ねた。何か問題でも起きたのだろうかと、その話に耳を傾ける。案の定事件が起きたという報せであった。
今しがた一件、犯行を取り押さえた所だというのに、忙しない。だが話を聞いてみると放置しておく訳にもいかなかった。ついさっきまで暴れていたのは人間の犯罪者であったが、今度現れたのはフェアリーテイルだとの事だ。
白雪姫以来、同時に襲撃をしかけてきたシンデレラも、シンデレラが静まり返っていた頃も暴れ続けたあの赤ずきんでさえも現れていなかったというのに。久方ぶりのフェアリーテイル、その出現報告に、より一層気分が引き締まる。
知君が倒れてから三日が経っていた。それを配慮するかのようにお伽噺の住人たちは活動を止めてくれたようにも見えていたが、ただの偶然だったらしい。今日現れたのは新規のフェアリーテイルである、一寸法師。
日本ではかなり有名な物語ではあるが、確かにこれまで出現の報告は為されていなかった。
「それで、どこに出現したの?」
「今お前がいるすぐ近所だ。座標はすぐにまた送る」
「了解。でも、何でそんなに慌ててるの?」
「わりぃ、言い損ねてた。一寸法師が高校生の人質取ってんだよ」
「厄介ね、それは」
それならば一刻も早く助けに行くべきだろう。真凜の能力であれば、人質を傷つけずに取り戻すこともできなくはない。未来を予知しながら、その高校生を安全に取り戻せる機会を窺えばいい。
奏白も同じように、相手が人質の少年に手をかけるよりも早く救ってみせそうなものだが、生憎今は別の事件を追っているらしい。
そのため別な者を向かわせようとしたが、単独でフェアリーテイルの相手ができそうな人間として自分を選んだのだろう。誇らしく思うが、だからこそ失敗は許されない。
知君が倒れている今だからこそ、彼の負担を軽くするためにも残された自分たちで目の前の問題に立ち向かうべきだ。警察の空気も変わり始めている。だから、今度こそ自分たちだって胸を張って、彼の横に立つ仲間だと言えるようにしなければならない。
目を覚ましたら、今度は何度だって肯定してあげよう。今まで、認めてあげられなかった分だけ。通話を切り、路地の脇で守護神アクセスを行った真凜は、その前に確認しておいた住所に向かって一目散に宙を駆け、飛び立った。
たどり着いた場所は、背の高い四つのビルが、交差点を挟んで向かい合っているような場所だった。その交差点、車道の中心で背の高い和装の男が巨大な針を高校生の男子、その首筋に突き付けていた。
刀ではなく針なのは原作に沿うているからだろうか。その様子を冷静に彼女は分析する。一寸法師というには立派過ぎる背丈。おそらくあれは、打ち出の小づちで体を大きくした状態だろう。
願いを何でも叶える小槌、使われてしまってはこれ以上なく厄介な代物であろうが、身に着けている様子は無い。おそらくあまりに強力な能力であるため、守護神ジャックでは用いることができないのだろう。おそらく守護神アクセス時のみに限定される。
それさえ使われなければ、経験上一寸法師は弱い部類のフェアリーテイルだ。桃太郎は例外的に強かったが、浦島太郎やそう言った、他の日本産のお伽噺出身の守護神はやけに力が弱い。読者が日本人に限られてしまうというのがかなり大きな理由だ。
それでも絶対に油断はしない。どんな敵にも全力で立ち向かう、知君のように。彼を認めているのは言葉だけではない、その心構えまで見倣わずしてどうする、と。
捕らわれている少年はと言うと、あまり怯えている様子は無かった。それよりむしろ、この失態に怒っているようであった。何も抵抗できない自分が悔しくて仕方ない、と。
平均的な男子よりも高い身長、そのシルエットが似ているせいもあったからか、一人の少年を彼女は思い出していた。王子 光葉、人魚姫の契約者。彼もまた、無力な自分に打ちひしがれる少年だ。
あの悔しがる目は、間違いなく彼のそれと酷似していた。きっとあそこで捕まる少年の心の中にも、同じような正義の炎が、真っ赤に燃えているのだろう。
だけど、残念なことに少年は無力だ。無力だからこそ、私たちのような人間が居る。助けなくてはならないのだ、警察として、弱き者の盾として、正義のヒーローとして。
道路のど真ん中なんぞに位置しているため、一寸法師はともかく少年を轢いてしまうまいと、急停車した車で大渋滞が引き起こされていた。本当に、フェアリーテイルは周りの迷惑を顧みない。もう少し迷惑のかからない位置で暴れて欲しいが、破壊と殺戮の衝動に駆られた彼らが大群衆ひしめく往来のど真ん中で暴れるのは仕方ない。
フェアリーテイルが危険だとはもう世間は認知している。そのため、多くの市民は非難を完了させていたようで、近場に人影は見当たらなかった。強いて言うならオフィスの中でまだ異変に気が付いていない者が作業を続けている程度。
「真凜、どうする気なの」
「真正面から交渉するわ。だからメルリヌス、未来予知を絶やさないで」
「了解、ちゃんと助けなきゃね」
当然だと首肯し、上空から一気に滑空、地上付近へと降り立った。一寸法師の目の前でスノーボードを停止させる。まずは話し合いから始めようという意志を示すため、ある程度距離を置いたうえで挨拶を一つ。
「こんにちは。一寸法師さん、でいいかしら?」
「いかにも」
若草色の浴衣を着て、刺繍用の針を捕まえた少年の首筋にぴたりと付ける。それ以上近づいたら刺すとでも言わんがばかりに。その場から近づかないようにし、それでも手を翳してそこから先を真凜は制止した。それ以上人質に危害を加えるなと。
ポニーテールのつもりではないのだろうが、細く結われ、膝の辺りまで伸びた後ろ髪が風に揺れていた。紺色の帯がぴしりと皺無く張っている。
人質を取るからには、何か要求があってしかるべきだ。それを聞かねばなるまいと、真凜はまず彼に問いかけることにした。
「それで、貴方は何を望んでるの?」
「話が早くて助かる。琴割 月光という男を連れてこい。奴の死こそが我らの悲願」
「あの方……己の死を拒んでいる以上、そんなの夢物語だと思うけれどいいの?」
「知らん。それでも会わぬ内は手出しなどできん」
短絡的に、そこらにいる人間を咄嗟に人質にとるだけはあるというべきか、その考えは行き当たりばったりだった。しかし、その考えも的を射ている部分はある。眼前に相対せぬ限り、いつまで経っても己の野望は成就しやしない、それは事実だ。
だがそれはおそらく、彼らにとって何も得るものは無く終わるだろうなと見切っていた。人質がいる現実を琴割が拒絶するだけで彼はあの高校生を自ら釈放するだろうし、彼の抵抗を拒んでしまえばそれ以上彼による被害は大きくならない。
このように、琴割を殺すというのはあまりにも非現実的な幻想ではあるのだが、そんな事しようものならきっと立場が悪くなるのは琴割の方だとは理解していた。誰が見ているか分からない場面で能力を彼が使おうものなら、世界中から糾弾される。
白雪姫との交戦時は、周囲の人払いを完璧に済ませた後だったので、多少能力を使っても問題は無かった。しかし、車に乗り、こちらの様子を見続けている人間が不特定多数に上る現状、それは避けるべき事態だ。
ただ、末端の捜査官に過ぎない真凜に琴割を呼びだす手立てなどない。要求を飲むことは不可能。
だとすると、何とかして人質を取り返さねばなるまい。機会を窺えども、適した好機はいつになっても訪れなかった。どのタイミングで魔弾や光線を撃ち出そうとも、それが一寸法師を捉えるより先に少年の首に深々と針が突き刺さってしまう。
どうしたものだろうか。真凜は臍を噛みながら、その膠着の状態を享受する。要望が簡単に叶いそうにないと分かってからも、一寸法師は人質を殺そうとはしなかった。それもそうだ、ここで彼を殺してしまえば、そのまま自分が目の前の女に討たれて終わりと察していたのだから。
無為な時間が流れ続ける。未来予知を繰り返すも、失敗の光景ばかりが次々流れていく。対話をしようとも一寸法師は集中を切らそうともしない。
一度、未来予知を中断する。魔力は温存させておかないと、肝心な時にどうしようもなくなる。どうにかして話術で揺さぶりをかけなければならない。あるいは本当に琴割を呼んでしまうのが妥当だろうか。
永遠に続いてしまいそうな平衡状態。このまま時が止まってしまうのではないかと思う程の、静止した状況。時として対話も途切れ、沈黙が支配する。
だが、そんな停止した局面を動かし始めたのは予期せぬ人物であった。大きな銀色の針を頸動脈目掛けて突き付けられた少年はと言うと、自嘲的に笑い始めた。
小さく、揺れるような声。泣いているように聞こえたけれど、そうではなかった。
「何してんだろうな、俺」
その目線は地面に向いていた。その表情を見られないようにと。けれども、揺れる声はちっとも悲しみに沈んでなどいなかった。悔しさに塗れず、悲哀に濡れてなどいない。沈み落ちたこころから振り絞ったような静かな声では、決してなかった。
身体全部を燃やし尽くしてしまいそうな怒りの炎を、無理やり押し殺したみたいな静けさ。この激情が簡単に溢れてしまわないように。自分の不甲斐なさを認めてしまわないように。
「足手まといなんて、ごめんだ」
「まあそう気に病むな。お前も充分よくやったではないか」
真凜は人質と、それを捕らえる一寸法師、二人の会話に耳を傾ける。どうやら一寸法師はというと、初めはもっと小さな女の子を利用しようとしていたらしい。その方が状に強く訴えかけることができるだろうと。
その女の子を救ったせいで、代わりに今利用されているのがあの少年、ということらしかった。その向こう見ずな、無謀によく似た正義心に真凜は頭を抱えた。あの少年を見ていると、彼らを思い出してしまって仕方ない。自分のことを犠牲にしても、誰かを助けたいと願ってしまう誰より優しい向こう見ず二人。
その結果自分が危険な目に会っているというのが、どうしようもなく苛立たしい。誰があの立場になろうと、心配するのが私達だというに、誰かを救うためとはいえその身を差し出すのは許容できない。
覚悟があるのは結構だ。それでも力が無いならそんな無茶をしでかすべきではない。真凜の意見はこうだ。そして、それは少年も分かり切っていた。己の行動があまりに短絡だったと、自分に戦う力さえあればこんな事になっていなかっただろうと。
ヒーローに憧れるのは自由だ。しかし分不相応に目指したのは自分の身勝手だったと悟る。そのせいで目の前の捜査官にも迷惑をかけている。憧れの英雄に重荷だけ乗せて自分は一体何をしているのだろうか、と。
ただそんな風に自分を痛めつけているのだろうなとは真凜も当然分かっていた。何せ、彼女のよく知る二人の少年も同じように自分を卑下しがちだから。
そして、この心配と不安とを怒りと苛立ちに変換してはならないと、身をもって学んだ。結果はどうあれ、あの名前も知らぬ少年は独りの女の子を救ったのだ。
だからこそ、それだけは褒めてあげなければならない。軽率な部分を叱るのは血縁者の仕事だ。自分の仕事は、その正義を認めてやることだ。
「大丈夫よ、胸を張りなさい」
真凜の呼びかけに、呆けたように目を見開く二人。どうして彼女がそのような事を言ったのか理解出来ていない様子であった。
けれども真凜はと言うと、戦局が変わったことを理解していた。未来予知を再開する。これから先は、チェスと同じ。正答までの道を辿るだけ。
少年を救うための方程式は解き切った。
「君はちゃんと、誰かを救った。それは絶対に、誇るべきことよ」
「いや、それで自分が捕まったらざまあないだろ。この男の無力さが、俺には面白うて堪らんぞ」
「好きに言いなさい。その子の正義は、無謀に似てるけれど、それでも本物よ」
自棄になってしまいそうな少年を宥めすかす。その胸に大きなプライドの炎をもう一度点すために。身を焦がすための炎ではない。その身体を動かすエンジンとするための強大な炎。
君だって、こんなところで終わるつもりはないでしょう、と問うように。
「いつまでそうしてるの? 私が護ってみせるから、もう一度立ち向かって見せなさい」
「はっ、面白いことを言う女よの。おかしゅうて腹が痛いわ」
あまりに下品な声の挙げ方をして、一寸法師は少年を嘲笑った。神経を逆なでるような下劣な嗤い声。先ほどまでの少年なら、荒れ狂っていただろう。しかし今となってはそんな嘲りや罵倒はその耳に届いていなかった。
認めてくれる人がいる、それだけで心構えは変わるものだ。大きく体を仰け反らせるように、痩身を震わせる。何がそんなに可笑しいのかは知らないが、その仕草は馬鹿げていた。
あまりに笑い過ぎて、いつしか首筋から針は離れていた。その瞬間、真凜と少年との目が合った。力強く頷く真凜、応えるように少年は、足を持ち上げ、その踵でわらじに乗った一寸法師の親指辺りに振り下ろした。
踵の縁の尖ったところを使って、勢いよく叩きつける。如何に人より丈夫な体と言えども、充分な痛みだったらしい。大きな悲鳴を上げて、今度は苦痛でその身体が仰け反った。
その声が、号砲。一寸法師は瞬時に自分の体制を立て直した、つもりだったのだろう。だが、捕らえていた腕から力は抜け、少年の身体は逃げ出した。逃してなるものかと腕を伸ばすも、届かない。
ならばと針で直接突き刺してやろうと身を捻り、一突き。こうなればせめて、この男を殺してやる。そう思ったのだろう。
そんなもの、もう遅すぎるというのに。
- Re: 守護神アクセス ( No.71 )
- 日時: 2018/05/19 13:36
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
「油断したのがいけなかったわね」
一寸法師の正中線をなぞるように五つの青白い砲弾がその身体にめり込んだ。その勢いに押され、後方へと追いやられる。針をどれだけ前方へ押しやろうとも、少年にその先端は掠ろうともしない。
流石にあの体重の少年を掴むのは自分の力では無理だと、代わりに一寸法師の方を滅多打ちにする。閃光瞬き、空を駆ける何十という光線。反射板を用いて軌道を複雑に捻じ曲げ、その退路を塞ぎ絡めとるように全方向から射抜く。
上空から隕石のように降り注ぐ、炸裂する魔力の弾丸。これで回避などできはしないだろう。そう思っていたその瞬間、一寸法師の姿がたちまち消えてしまった。
消えたというのは間違いだ。正確には、あまりにも体が小さくなってしまった。一寸法師らしい本来の姿というべきだろう。大体三センチ程度、小指くらいの大きさであろうか。
だが、侮れない。体の中に入り込まれれば内臓を蜂の巣にされてしまう事だろう。先ほどのレーザーや狙撃の雨霰は全て掠めすらしなかった。
「振り向かないで、走って逃げなさい!」
「はい!」
小さくなり、蚤のように飛び回られてしまうと非常に厄介だ。精密に射撃する鍛錬を積んではいる。しかしそれはあくまで静物でしか練習できていない。動き回る小さな敵、しかも俊敏ときたらそう簡単に攻撃など当てられはしないだろう。
爆風で何とか、できるものならしたいところだ。しかしさせてはくれない。すばしっこいせいで爆風より早くその圏外にまで逃げてしまう。ぴょんぴょんと跳び回るその様子が鬱陶しくて仕方ない。
メルリヌスによる弾幕をかいくぐり、ついに真凜の目と鼻の先にまで迫る一寸法師。眼前で白銀の光が瞬く。このままでは目が抉られると判断し、即座にスノーボードを操って距離を置く。同時に降り注ぐ幾筋の閃光。しかしそれらが如何に檻を形成するように宙を走ろうとも、その隙間からするりと躍り出てしまった。
この時、フェアリーテイルたる彼の脳裏には、自分に一泡吹かせた人間への復讐しか無かった。それゆえ、そのあまりに俊敏な動きで一挙に逃げるために走る少年の背中に追いつく。
小さくなったその状態では、その針の先端には肉を溶かす毒が塗られていた。死んでしまえと言わんがばかりに、その毒針を首筋の肌目掛けて投げつける。
このままじゃ間に合わない、そう焦った真凜ではあった。しかしその必要は無いとすぐに気づいた。「伏せろ」と叫ぼうとしたその口を閉ざす。彼女には、その針が少年に届かない未来が見えたからだ。
エンジンを吹かす大音量。法定速度など気にも留めていない速度で、白いバイクが車道を一直線に突き進んでくる。大渋滞の車の隙間を、持ち前の技術で縫うように突き進む。あれは一体どうやって運転すればできるものなのだろうか。ライダース特有の神業に、真凜は舌を巻いた。
ライダース。捜査官の中でもよりフットワークが軽くなるようにと、バイクに乗って各地を走りながら見回りを続ける部隊だ。戦闘能力もさることながら、何よりも高い二輪の操縦技術が求められる。
卓越した運転スキルに、強力な守護神。そしてその美貌も合わせて、その部隊のエースはチームメイトからクイーンと呼ばれているだとか何とか。対策課にこそ属していないものの、その実力は折り紙付きだ。
白いバイクが快晴の空の下に踊り、一寸法師と人質だった少年との間に現れた。投げつけた針はその白バイクに阻まれて、甲高い声を上げて弾かれた。急ブレーキをかけて停車させ、減速する最中ヘルメットを脱ぎ捨てる。大きな瞳は真っすぐに、一寸法師を見据えていた。真っ黒な長い髪が急停車の反動で大きく揺れる。その姿だけでも彼女は、とびきり美しく、そして格好良かった。
颯爽と現れるその姿は、まさにヒーローのよう。汚れも染みも無い真っ白なphoneを取り出して彼女は、即座にアクセスナンバーを入力した。
「守護神アクセス。来て、トウドウイン!」
対話など必要ない。交わす言葉などありはしない。即座に臨戦態勢に入った彼女の全身を純白のオーラが包み込んだ。それと同時に周囲の水蒸気が一瞬で凍結し、現れた霜が宙に舞い遊ぶ。虹色の光を受けながら、白色のオーラは女性の真っ黒な髪を白銀に染め上げた。その姿はまるで、雪女を率いる美しい姫のよう。
ライダース特有の黒い革の戦闘服に、守護神アクセスした彼女の銀髪はよく映えた。
強い意志と共に現れた彼女、その姿を見た一寸法師は身震いした。この悪寒と鳥肌は何だと焦燥、そしてようやく、周囲の温度が下がっていると気が付いた。
銀髪の女性が、目の前の空気を薙ぎ払った。薙ぎ払うと同時に、腕から放たれた冷気が瞬時に、空気中に氷の槍を生成する。そのままその氷の槍は、意思を持っているかのように、一寸法師目掛けて突き進んだ。
これはもう、自分の出る幕は無いなと真凜は一歩退いた。巻き添えになっては堪らない。本気のクイーンは吹雪どころか氷河期まで呼んでくるという噂のせいだ。
地面を穿つように深々と突き刺さる氷槍、それを持ち前の動きでひょいひょいと避ける小さなフェアリーテイル。しかし、次第にその動きもおぼつかなくなっていく。氷の槍が突き刺さると同時に、その周囲のアスファルトを凍らせてアイスバーンを引き起こした。氷の膜が陽の光を反射する。
両手の指を組み合わせ、彼女が念じると同時に背後に白竜が現れた。薄いガラスを踏み砕く、小気味よい音がすると共に、白き竜がその首をもたげた。造形も凝ったものであり、芸術品の彫刻のようだ。鱗の一つ一つ、髭の一本一本、そして鋭い牙までもが本当に生きている龍のようであった。
冷気を操る能力によって生成した、雪の龍。それこそがこの白竜の正体だ。白銀のクイーンが組んだ指を解き、そして標的である一寸法師のことを指し示す。対象を理解した龍はと言うと、主のためにと即座に飛び込んだ。
その顎を大きく開き、噛み砕くように襲い掛かる。何とか路面に足を取られつつも一寸法師は避けども、舞うように宙を旋回した白竜が再び襲い掛かる。
何度も何度も襲い来る龍の爪牙。次第に避けきれなくなってくる。頬に霜がこびりつき、草鞋が凍り始める。小さいままでは埒が明かないと、成人男性ほどの大きさに戻って見せた。
レイピアほどの大きさとなった針の先端を龍の眉間に向ける。タイミングを合わせて一振り。その顔を捉えた針はそのまま白き龍を真正面から貫き、穿ち、体を構成していた雪の結晶をまき散らす。真夏の東京に粉雪が舞った。
どうだと誇らし気な一寸法師。しかし、決着はとうについていた。
「私の弟に手を出した罪、その身に刻みなさい」
パチンと小気味よい音を立てて指を打ち鳴らす。と同時に、一寸法師の身体に纏わりついた粉雪が一斉に牙を向いた。それら一つ一つの蕾が、花開くように。あるいは一つ一つの種が根を張るように、彼の身体の上で急速に成長する。次第に氷に覆われて、指一本動かすことも能わなくなっていく。
何とか彼女の能力の領域から逃げ出そうとするも、履いている召し物さえ地面とひっついてしまった。もう、逃げることすらできない。水晶のような淀みない氷の牢獄に閉じ込められた一寸法師は、もう一切の活動を封じられてしまった。
「一件落着ね」
「流石です。ライダース最強というのは伊達じゃないですね」
「あら、真凜ちゃんだっけ。今年入ったばかりの」
「はい。今はフェアリーテイルの対策課に属しています」
「あっ、ごめん。とすると獲物取っちゃったかな?」
「いえいえ、そんなそんな。むしろ助かりました。自分ではどうしようも無かったので」
「謙遜しなくていいわ。どうせ時間がかかるだけで何とかなったでしょうし」
「姉さん!」
無事解決、したと同時に二人の女傑にさっきの男の子が走り寄ってきた。氷を操る女性に対し、姉さんと呼びかけている。確かに、見比べるような余裕は無かったが、こうして落ち着いてみてみると似た部分が無いことも無い。
「聞いたわよ、また無茶したのね」
「ごめん……」
「全く、心配かけないでっていつも言ってるでしょ。貴方守護神いないんだから」
「守護神が、いない……?」
「この子の守護神ね、最上人の界にいるの。だから守護神アクセスは絶望的なの」
そのくせヒーローに憧れちゃってるのよねと、彼女は弟を見て嘆息する。ただその目には呆れや怒りといったものは浮かんでおらず、暖かい心配だけが浮かんでいる。
この人にとってこの子は、それほど大切なのだなと理解した。叱っているようでその表情からは、帰って来てくれてありがとうという言葉が読み取れた。と言っても、観察が得意なメルリヌスと契約していないと気づかないものではあろうが。
守護神がいない。それこそまるでかつての王子のようだなと思った。正義の心だけいたずらに燃え盛り、それを叶えることができないまま自分の本心を代わりに焼いて灰としてしまっているような子。けれどもその強い意志は完全には燃やしきれなくて、ふとした時に蘇ってしまう。
「どうして、この年代の子ってこんなに無茶するんでしょうね」
そう呟きながら今度思い返したのは知君の方だった。彼は正反対に、強すぎる力を持っているせいで、全部の責任をその身に背負おうとしている。そんなに強い心も無いのに、支えてくれる人も居なかったというのに、自分が磨り潰されるまで無理をし続けた。
言わんとせんことは、自分にも思い至るためかライダースの先輩はくすくすと笑った。確かに、危なっかしくて見てられないし、怒りたくなっちゃうことも沢山ある。いつだって心配しちゃうし、今日みたいなことがあれば心臓が止まりそうになるものだと彼女は言う。
「けどね、やっぱり私にとってこの子は、とっても大切な弟なの」
そう言われ、少年は照れ臭そうに顔を背けた。思春期で、家族が照れ臭いのだろうか。初々しくて、青くて、何だか微笑ましい。そう言えばあの子も、あれだけ願ってたくせにいざ認めようとしたら自分から突き放していたっけな。そんな事を真凜は考えた。
「この子がいるから戦える。この子の期待を一身に背負って、ようやくヒーローでいられるの。私にとってこの子は、もう一人の守護神よ」
もういいってと、顔を赤らめて彼はそれ以上の言葉を止める。そんな事、見ず知らずの人にいきなり自慢されてもこっちが恥ずかしいと。
兄はいるけれど下には弟も妹もいない彼女にとって、その光景は何だか少し羨ましかった。王子は既に太陽という兄がいるからそういう目で見ようとも思わないし。知君もやはり、弟として見るべき相手ではない。
「帰ろう、姉さん。もうこんな無茶しないから」
「それ言うの何回目よ。姉さん心労たたり過ぎてそろそろ神経無くなっちゃいそう」
「あっ、ちょっと待って」
立ち去ろうとする少年に、守護神アクセスを解いて勤務に戻ろうとするバイクに跨る捜査官。二人を呼び止めた真凜は、少年へと呼びかける。諦める必要は無いんだって。
「私の知ってる子にもね。貴方によく似た子が居るの。ずっと守護神アクセスなんてできなくて、かっこいいヒーローになんてなれないと思い込んでいた子」
「うん」
「でも彼ね、最近ようやくその守護神と会えたの。ずっと望んでいた、ヒーローになれた」
だから君も、いつかなれると信じ続けて欲しい。夢を諦めないで欲しい。いつか報われる日がきっと来るからと。
別の男の子の話になるが、誰からなじられようと真っ直ぐに誰かのために戦い続けた少年も、つい先日ようやく認められたのだから。
だからいつか、君にもいいことはちゃんとある。いつの日かは分からない。けれども、諦めたらもう届かないから、その夢だけは捨てちゃ駄目なんだと。
「何かあんまりよく分からなかったけれど……うん、頑張ってみます」
「いい返事ね。きっと大丈夫よ。君にはちゃんと、君の事をずっと見てくれる、もう一人の守護神がいるんだから」
「そっちは、言われなくてもよく分かってますよ」
そう言い残して朗らかに笑う少年は、今度こそ帰路につき始めた。その言葉に今度は、言われた側の女性が少し照れくさそうに視線を背けていた。
仲がいいなこの二人はと、笑みを噛み殺しながら真凜は去っていく少年の後ろ姿をただ見つめていた。
- Re: 守護神アクセス【寄り道アクセス更新】 ( No.72 )
- 日時: 2018/05/24 01:28
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
それにしても、phoneを手にせず外出するのはいつ以来だろうかと奏白は頭を捻る。普段、オフの日すらも守護神アクセスに体と端末の波長とを慣らす為に持ち歩いている。だが、そんな風に外出していると、出先でトラブルに立ちあった際にすぐさま動いてしまう。半径二キロ以内の物音は全て把握できてしまうため、仕方が無かった。聞いてしまえば駆け付けねばならないと、正義感がはやし立てる。
それを知られていてか、今日は真凜にphoneを没収されていた。ここのところ働き過ぎているので、今日くらいは預けて下さいと。肉親であり後輩でもある真凜から言われてしまうと断るのも難しかった。ちょっとばかり抵抗してみたけれど、頑として折れない彼女にphoneを預けざるを得なかった。プライベート用のスマートフォン、いつもは取り違えないように家に置いたままなので、充電するのも久々だった。
映し出された壁紙には、数か月前に家族旅行で出かけたホテルから見た朝焼け。そう言えば、この旅先でも二人くらい検挙したような気がする。他人がそれだけ仕事に打ち込んでいる所を想像してみれば、それが常軌を逸していると判断するのは容易い。けれどもどうしてだか体が動いてしまう。
この世界は確かに平和だと、彼自身思っていた。けれどもやはり犯罪大国であることには変わりなかった。全体的な治安こそいいものの、軽犯罪は後を絶たない。それゆえいつの時代も警察が暇になってくれることは少ない。半径2キロなんて広範囲だと、毎日どこかしらで犯罪の声が聞こえてくる。
けれども、アマデウスと繋がっていない現状、身の回りの狭い範囲は驚くほどに平穏だった。すぐそこ、視界に映る範囲の物音ですら満足に聞こえてこない。雑踏のノイズがやけに五月蠅かった。いつも確かに人混みの足音だって耳に届いている。しかし、欲しい情報だけを処理することも容易であるし、さらには広い空間の音全てが入ってくるものだから、周囲だけの物音というのが今一実感しにくかった。
それゆえ、こうして歩くと強く自覚する。世の中は、自分の想像よりもずっと多くの人間が住んでいるのだと。もし自分が今まで捕えてきた凶悪犯、その内数名を取り逃がしていた時、ここにいる人間は、もっとずっと少なかったかもしれない。そう思うとぞっとした。売店の売り子の可愛い娘も、歩む速度の差で追い越した老人も、もしかしたら亡き人となっていたやもしれぬ。
そう思えば、日々平和を守っているというのは、やはり尊い仕事だと実感する。大学に入学した当初は、こんな仕事につくつもりではなかったのだがと思い返す。ひょんな出来事から目指すこととなった警官。アマデウスと出会ったのも不意に警察を目指し始めてからのことだ。思いの外適正があったようで……正確にはアマデウスの力なのだが、今では無くてはならない警視庁のエース。
人生何が起こるのかなんて分かったものではないな。暑くて汗がにじんできた。もう六月もすぐそこだ、コンクリートジャングルはもう夏の片鱗を覗かせている。どこかカフェにでも立ち寄ろうか、それともコンビニで飲み物だけでも買おうか。そう思案せども、すぐそこにはハイエストスカイリンク。確かに売店は混雑しているかもしれないが、せっかくならばまず目的地にたどり着いてから考えよう。
雲がちらほら浮かぶ水色の好天。今日、大きな事件が起きるだなんてこの時は想像することすらできなかった。
「すごい混雑ですね……」
日々の通学でしばしばラッシュに巻き込まれるが、観光地の混雑というものはそれとは熱気が違う。ただそこを通り過ぎるだけの通行人は自分と同じように歩いてくれるけれども、周囲を見て回る彼らは時折立ち止まり、時として牛のように歩む。そのせいか中々身動きが取れない。
けれども自分も半分観光目的に来ているものだから、これくらいが丁度いい。そう感じた知君は、ようやく地下一階の土産物屋にたどり着いた。この電波塔の手前二百メートル地点あたりから、急に歩みを進めるのが億劫なほどに人の密度が高まった。
人の波をかき分けて奥へと進んでいく。なまじ体が小さい分、こういったところを進むのは苦手ではない。荷物も、鞄を持って遠出してきた観光客と比べると、ポーチだけの知君はやけに身軽だった。
ストラップやキーホルダーだったり、色んな旅先で売られている龍をモチーフにした剣のアクセサリなどが並んでいる中にお目当ての代物があった。国民的なアニメのキャラクターとコラボした、背景がハイエストスカイリンクであるキーホルダー。
別に、このキャラクターの事はよく知らない。彼にとって大事なのはこの場所を訪れたという証。ここでしか買えない代物。自分がここに来たのだと、自分がいなくなっても知らしめることができる大事なもの。そしたらきっと、処分されても彼が様々な土地を歩き見て回ったという事実を残すことができる。
別に積極的に死にたい訳では無い。それでも、ずっと前から諦めていた。もう自分にはネロルキウスを呼ぶだけの覚悟も力も無い。琴割は常々、充電した状態でphoneを持ち歩いておけと口酸っぱく指示している。それゆえ肌身離さず持ち歩いてこそいるが、それを使うような有事の出来事など、そうそう起こらない。
レジも長蛇の列と呼ぶにふさわしい。もはやアナコンダみたいだと彼はぐねぐね折り曲げられた順番待ちの列を見て、アマゾンに蠢く一本の影を想起した。
商品が立ち並ぶ様子は密林と言えるだろう。だが知君はそれならば、密林には危険が多いとも想像しておくべきだった。密林には狩人が居るのだと。虎視眈々と狙いを定める二つの眼。気弱で小柄な少年が財布を取り出すと同時に、彼は無理やりに人を押しのけて知君の財布を掴んだ。そのまま来た道を戻り、泥の中を泳ぐように雑踏をかき分けて進んでいく。
ひったくりだ、そう判断するにはいささか強引過ぎた。もっと自分が逃げやすい場所でやるものではないかと知君は呆然とする。もう、泥棒の男がかき分けた道は閉じられており、追う事などできそうにない。確かにこれは効果的だ。逃げにくいが、追われづらくもある。
しかし、あれを盗まれては不味い。保険証などの偽造品が沢山入っている。役所に行っても再発行できないうえ、琴割に告げようものならもしかしたら厳罰だ。せめて追わなければ、そう判断したのは、酷く遅すぎた。
ただしそれでも、手遅れではなかった。
「ぶっ!」
鈍い呻き声と、拳が鼻っ柱を捉える低音。一拍置いて、苦しそうな男の悲鳴。急に人混みが、さっきとは違って自発的に空間を作り出した。まるで汚れたものから遠ざかるように。そして視界が明らかになる。そこには、先ほど知君の財布をひったくった男が、もう一人の男に組み伏せられているところだった。肩を掴み、地面に押し当てて、そのまま関節を締め上げている。ちょっとでも抵抗する素振りを示そうものならば、肩関節を外す勢いで締めあげた。
「まーったく、結局今日もこうなんのかよ」
呆れた顔で彼は嘆息している。大人びた風貌だけれど、まだまだ若い。明るいブラウンの髪の毛が気まずそうな顔つきと同じように項垂れているみたいだった。
「あっ、警備員さん。こいつひったくりだから連れてっちゃって」
持って来ておいて良かったと、捕まえたコソ泥を引き渡してから警察手帳を示した。それで身分は十分以上に証明されたため、奏白の言葉が正しいと認められた。捕まった男が握りしめていた財布が元の持ち主へと渡される。
「ちょっとばかしまだ背が小さいな、君」
今度から気をつけろよー。朗らかに笑って彼は、少年の髪をぽんぽんと叩くように撫でた。その手は、兄ができたかのように大きく、とても暖かかった。帰ってきた財布の中身は、当然というべきかまだ何も抜かれていなかった。あの人がいなければどうなっていたことだろうかと、知君はほっと溜息を吐き出す。
これこそが、知君と奏白との、出会いの物語。
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