複雑・ファジー小説

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守護神アクセス【Epilogue-2・中編】
日時: 2022/05/19 21:16
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: m3Hl5NzI)

2020年、夏の小説大会で金賞もらっていたらしいです。
投票してくださった方々、ありがとうございました。

___

本編の完結とエピローグについて >>173





目次です。

▽メインストーリー
 File1:知君 泰良 >>1 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6
 File2:王子 光葉 >>9 >>10 >>11 >>12-13 >>14
 File3:奏白 真凜 >>16 >>17 >>18 >>19 >>20 >>21 >>22 >>24 >>25 >>26
 File4:セイラ   >>27 >>28 >>29 >>30 >>31
 File5:奏白 音也 >>32 >>33 >>34 >>35 >>36-37 >>38
 File6:クーニャン >>39 >>40 >>41 >>42-43
 File7:交差する軌跡  >>44 >>45-46 >>47-48 >>49
 File8:例えこの身が朽ちようと    >>50-51 >>52 >>53 >>54 >>55-56 >>57 >>58
 File9:それは僕が生まれた理由(前編)    >>59 >>60-61 >>63-64
 File0:ネロルキウス  >>65 >>66 >>67 >>68 >>69 >>72 >>73 >>74 >>75 >>76 >>77 >>78 >>79 >>80 >>81
 File9:それは僕が生まれた理由(後編パート) >>82
 File10:共に歩むという事   >>83 >>84 >>85 >>86 >>87 >>88 >>89 >>90-92 >>93-95 >>96-97 >>98 >>99
 FILE11:人魚姫は水面に消ゆる夢を見るか >>100 >>101 >>102-103 >>104 >>105 >>106 >>107 >>108-109 >>110 >>111 >>112 >>113 >>114 >>115 >>116 >>117 >>118-119 >>121 >>122 >>123 >>124-125 >>126-127 >>128-129 >>130-131 >>132 >>133 >>134 >>135 >>136 >>137 >>138 >>139 >>140-141 >>142 >>143 >>144
 Last File:12時の鐘が鳴る前に >>145 >>146 >>147 >>148 >>149 >>150 >>151 >>152 >>155-156 >>157 >>158-159 >>160 >>161 >>162-163 >>164-166 >>167 >>168 >>169 >>170 >>171-172

 Epilogue-1 【守】王子 光葉 >>174-175
Epilogue-2 【護】知君 泰良 >>176-177

-▽寄り道
 春が訪れて >>23
 白銀の鳥  >>70-71
 クリスマス >>120

▽用語集
 >>8 File1分
 >>15 File2分
 >>62 File8まで諸々。それと、他作品とクロスオーバーしたイラストを頂いたのでそちらのURLも

▽ゲスト
 日向様(>>7にイラストをくれました、感謝。What A Traitor!作者)
 友桃様(Enjoy Clubの作者様。自分にとって小説の師匠や先生みたいな感じの方)




気軽にコメントとかもらえたら嬉しいです。
僕も私も異能アクション書いてるの!って子は宣伝目的で来てくれても構いません(参考にする気しかない)

Re: 守護神アクセス ( No.133 )
日時: 2019/03/12 17:11
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)


「こりゃ随分な地獄絵図だな」
「今んとこ誰も死んでねーだけましじゃねーの?」

 佳境、かぐや姫の降り立った戦場に駆けつけた王子達は、その状況のおぞましさに眉を顰めた。反吐が出そうな不快感を何とか王子は飲み込んだ。並び立つ、日本刀を握りしめた少女はと言えばそれほど堪えている様子は無い。当然彼女は今日にいたるまでの日々でそれ以上の過酷な生活を乗り越えている。そうともなれば、この程度で打ちひしがれる由も無い。
 かぐや姫の洗脳を受けた者と受けていない者とで、仲間割れは始まっていた。一刻も早く元凶であるフェアリーテイルを討ち取ろうとしている同僚たちに、数人の捜査官が自分こそかぐや姫の親衛隊だと言わんばかりに立ち塞がる。
 数の理としては、正気を保っている人間の方が余程多い。しかし、洗脳を受けないためには月を見ない、つまりは情報を見上げない必要がある。視界の端にさえ映らないようにしていると、視野が極端に狭くなる。ほとんど相手の足元だけで挙動を推測せねばならない上に、その者が本当に操られているかも判断せねばならない。雑然とした戦場では数多の捜査官の立ち位置がこまめに入れ替わっているため、一時も集中を切らす訳に行かない。
 それだけではない、今隣に、あるいは背後にいる同胞も、いつ敵方に寝返るか分からない。そんなストレスばかり一身に浴びている戦局だ。一時の判断ミスで上方を見上げてしまうこともあるだろう。警戒と、疑念と、失態と、狂気と殺意と叫喚で、決戦の舞台は混沌としていた。

「おいおい、太陽も洗脳されてんぞ。大丈夫か?」
「兄貴まで……? 全方位に重力場展開されたら不味くないか」

 それはないなと、眠たげにクーニャンは否定する。あの場では、少しのミスでかぐや姫に数倍の重力が振りかかる。捜査官達は守護神アクセスしているため、多少の重量は耐えきれるものの、かぐや姫本人は一般女性程度の膂力しか持たない。巻き添えになった際、逆に不利な情勢に傾くようなことはしないだろう。

「でも単純に、洗脳されっぱなしになんてさせてたまるかよ」
「だから落ち着けっての。そのためにぷりんす連れてあたしが先来てんだから」

 自分が先行すると、クーニャンは王子に告げた。今のところ周囲に新たな敵の気配は無い。どこかに潜んでいるのか、この場にいないのかは分からないが、シンデレラの介入は無いと判断できた。かつてクーニャンに王子や知君の暗殺を依頼した『あの男』もいないだろう。
 何せシンデレラの契約者も例の男も、気配を隠せるような経歴を持っていない。むしろ強すぎる存在感が漏れ出るような人間だ。とすれば、それを押し殺しているような息遣いが僅かでも漏れるはずであるし、そうなれば彼女の直感で容易に嗅ぎ付けられる。

「あたしがかき回してきてやるよ。いつもと勝手は違うだろけどよ、頭おかしくなった連中のケアは任せたぜ」

 王子の返答も待たずして、指示を残して少女はかける。小麦色に染まった、豹のような四肢が弾む。細身ながらも引き締まった筋肉は躍動し、一匹の獣がアスファルトの荒れ地を駆けた。未だかぐや姫に支配されていない味方の隙間を縫うように走る姿は、むしろ風と呼ぶに相応しい。
 桃太郎の刀を地面に擦りつけ、火花を撒き散らしながら猛進する。威嚇とも取れる行動だが、実際の目的は意識を自分に惹きつける事だ。王子の存在は、能力を行使するギリギリまで気づかれる訳にはいかない。派手な火花を撒き散らし、石畳の地面を軽々と斬りつけながら彼女は、捜査官達にも自分の帰還を示しながら、正気を失った面々に飛び掛かった。
 王子 太陽を筆頭に、新たなかぐや姫の護衛が彼女に反応したのは瞬時の出来事だ。そもそも洗脳を抜きにして、この社会の闇の部分で生きてきた、殺しすら厭わないようなクーニャンのことを、実力への嫉妬を抜きにして彼らは嫌悪している。知君の天賦の際に妬き、突き放していたこととはまるで意味が異なる迫害。これなら、まだ彼が受けていた疎外の方がましだと思えるほどの誹りを受けていた。
 ただし少女は怯まない。憎々しげに彼女を睨みつける十を超える眼光、それらに焦点を合わせられたことを自覚すると同時に、舌なめずりをして笑みを浮かべた。陽動が成功している確信から来る笑みもあるだろう。そう、それでいいとほくそ笑む高揚。ただ、それ以上に。
 戦地に生きる人間として彼女は、その明確な敵意を向けられた感触が愉しくて仕方ない。

「ハンデは、どんなもんだっけな」

 一つ一つ、己の不利を確認する。
 まず一、敵は増える。味方陣営が空をうっかり見上げれば、それだけで。
 二、当然自分も月は見れない。足元の動きだけで、あるいは向き合った誰かが跳び上がったとしたら影だけで動きを追わねばならない。
 三、そもそも対処せねばならない被洗脳者の判別などできていない。自分に斬りかかって来る者全てが敵と思う他ない。
 四、敵は殺す気でも、こちらは殺してはならない。
 四つ目の懸念を思い浮かべた途端に、ふと彼女は首を小さく横に振ってそれを自ら否定した。それは決してディスアドバンテージと捉える必要は無い。そもそも王子が上手く立ち回ればこちらから傷つける必要は無い。ひたすら攻撃を受け流していればそれでよい。
 ただし、そうもいかない現実はあるため、多少の反撃は已む無しではあるのだが。

「じゃあ逆に、あたしの有利は何だっけな」

 広範囲の重力波は避けているとはいえ、照準を定めた能力行使は躊躇いが無いらしい。クーニャンの立つ足元の地面の色が変わった。別段何が彼女の上に圧し掛かった訳でもないというのに、その両足にかかる荷重が劇的に増加した。途端に関節が錆び付いたかのように、彼女の動きから精彩が欠かれる。
 しかし、追い討ちはすぐさま飛んでは来ない。操られている太陽の守護神、アイザックの能力は対象物ではなく対象の空間に働きかける能力であるため、追撃のために踏み込む訳にはいかない。
 肉体活性の道具を取り出すと同時に、聴覚に全神経を集中させた。煩雑とした騒音の中から、今まさに自分のことを狙い打とうとしている能力がどれなのかを判別する。彼女の身動きが封じられ、数拍置いた後に鳴り出したものと言えば。雷光の爆ぜる音、炎熱の盛る唸り声、瓦礫を持ち上げようと大地を踏みしめ、靴底が床を擦る音。
 氷が割れて軋む音、これは違う。氷雪を操っている女性はまだ操られていなかった。彼女の周りを取り囲む障壁。これはおそらくクーニャンの身を守ろうと作られたものだ。それ以外の能力者は、重力圏外からの干渉手段を持たないらしい。
 王子の声は、やっと聞こえてきたところだった。喧騒に紛れているが、確かに聞こえる。全くその声が聞こえていないと、癒しの効力は発揮されないが、主張しすぎると狙いが向こうに向けられる。狙い目ギリギリ、いい仕事をするものだとプロの傭兵として彼女は珍しく少年を評価した。
 取り出した丸い塊を口元まで持っていく。その動作さえも今の状態だと難しい。何とか薄く開いた口の中に、柔らかな団子を無理やり押しこんだ。

「ま、あたしのいいとこなんてたった一つだな」

 嚥下。喉を鳴らす音が彼女を守るバリアの中にこだました。轟く雷鳴が戦場を駆ける。窮地に陥ったと見える彼女を守護する壁を貫く勢いで衝突した。炸裂する雷光は網膜を焦がしそうな程だが、その程度で女豹の眼は眩まない。瞳孔を引き絞り、処理すべき傀儡に狙いを定める。
 見れば、防御壁には大きな亀裂が走っていた。まず間違いなく、先ほどの電撃による影響だ。盾を張り直すような暇も無く、紅蓮に燃え盛る炎がその守りを取り巻いた。穿たれた楔を槌で叩きつけるかの如く、罅は全面に広がっていく。氷の能力で炎を相殺しようとしている者もいるようだが、もはや手遅れらしい。
 何も彼ら彼女らも、好き好んでクーニャンを救おうとしている訳では無いのだろう。きっとそういった行動に走っている連中も、彼女のことは少なからず嫌悪しているのだから。しかし、この正念場において未だ力を温存しているのは彼女のみ、自軍の勝利に繋がる要石たるクーニャンだ。多勢に無勢で落とされる訳にはいかない、そういうことなのだろう。
 しかし、誰一人として理解していなかった。いや、理解はしていたのだろうが、慎重さが上回ったのだろう。それゆえ失念していた。桃太郎というのは契約者を得る前から既に、多数の捜査官をたった一人で翻弄していたという事実を。
 自家用車ほどもある大きな瓦礫を、やすやすと持ち上げる男がいる。その守護神は三好清海入道を由来とする、伝承界に住まう者。持ち前の力は至って単純、契約者を巨腕巨漢の豪傑へと転じさせる。
 雄たけびを上げ、操られた男はその瓦礫を投げつけた。味方の作った防壁が受け止めようとするも、それまでに既にぼろぼろの傷だらけになっていたバリアだ。それ以上の攻撃は受け止めきれず、投げつけられた土瀝青の塊がぶつかると同時にばらばらに砕け散った。
 そのままの軌道であればクーニャンの頭上を素通りしていたであろう流星が、その軌道を下方へと修正する。まるで彼女に引き寄せられるかのように。それは当然、アイザックの重力操作が続いているため、下方へ向かう加速度が増したためだ。褐色の肌に身を包む、華奢な猫のような体を、斜め上から轢き潰そうと、迫る。
 流石にそんなものが直撃してしまえば彼女とてひとたまりも無いだろう。

「こんな不利をひっくり返せるあたしらしさなんてさ」

 ただしそれは、当たればの話。一つ食べれば十倍の力、そう謳われる品を摂取した彼女は、いかにアイザックの能力で妨害しようとも、もうその所作にぎこちなさなど介入する余地は無かった。

「ただ強ぇ以外にあんのかよ?」

 その剣閃は、まさに一瞬の出来事だった。先ほど戦場を走った雷のごとく、瞬きに等しい刹那の時間に稲光が駆け抜けただけのように。
 王子に迫る喜びの従者を切り捨てた時と同じく、甲高い唾なりの音がたった一つだけ。剣を抜いたその瞬間も、振り抜く場面も、鞘に納める姿も、何一つ見えなかった。
 それでも、斬撃が放たれたことだけは察せられる。次の瞬間にはそのまま彼女の身体を圧し潰してしまいそうな岩の塊が、鼻先で二つに割けるような姿を多くの者が想起した。しかし、その予想を彼女は遥かに超えていた。
 言われてみれば当然のことだ。彼女は赤ずきんの従える猟師の、機関銃の連射をその刀一振りで全て切り捨てたのだから。
 迫る巨岩は、目にも止まらぬ無数の斬撃により、塵芥となって風に掻き消えた。

「はぁ……?」

 敵も味方も関係ない。彼女の化け物ぶりを見たことの無い人間全員が大口を開けたまま言葉を失った。その隙を百戦錬磨の黒豹は見逃さない。声を張り上げて後方の彼らに呼びかけた。

「おいぷりんす! てめえの声ぜんっぜん届いてねーぞ、もっと腹から声出せ!」
「いや、目立つなってお前が言ったんだろ」
「でも効いてなきゃ意味ねえだろがよ、大丈夫だ、あたしが護ってやっからよ!」
「それはそれで癪だけど……責任持ってくれよな!」

 このままでは効果が薄いというその指摘は尤もなことだ。それは王子も感じ取ってはいたが、声を張り上げれば張り上げる程、その狙いはより鮮明になる。その声にかぐや姫が気づいてしまえば、最優先で王子が狙われることは間違いないのだろう。
 しかし、臆せば二進も三進もいかない。だとしたら声を、勇気を振り絞るしかない。覚悟を決める外無い、何が何でもやり遂げるという。
 戦場に、人魚姫の歌声が響き渡る。それを耳にした、正気を失った傀儡の捜査官達は違和感を覚えた。精神干渉から人を解放する祈りの歌。それにより、洗脳で植え付けられた記憶や使命に疑念を覚え始める。
 ようやく王子の所在をつきとめたかぐや姫が操っている人々に指示を下すも、即座に従おうとする者はいなかった。青く瞬く月光の支配が弱まっているせいか、反応が鈍くなっている。
 そしてその、命令と本来の理性との狭間で葛藤する僅かな間隙を、強かな彼女らは逃さない。鎮圧すべき敵戦力の懐にまで潜り込んだかと思えば、その顎を的確に打ち抜いた。現れては消え、また別の標的の前に立ち塞がり脳震盪を引き起こす。角度、タイミング、力加減、それらは訓練を受けた時代に身に沁みついた彼女の武器だ。
 膝から崩れ落ち、意識はあるが立つこともしばらくままならない彼らにセイラの祈りの声が届く。ただでさえ戦闘不能に陥った中、かぐや姫の洗脳は完全に解かれた。
 孤立している訳にもいかないと、セイラの提案に乗って王子は前線のクーニャンと合流した。

「さあさ、月の姫さんよ」
「もうそろそろ気が済んだろ」
「降参するならあたしらが手ぇ抜いてる今のうち、ってな」

 月の民、その軍隊は捜査官一同の尽力により、全兵力を淘汰済み。これにより、完全に彼女が孤立した状態が出来上がった。後は誰かが彼女を力ずくで制圧している間に人魚姫の能力で浄化すれば、幕引き。で、あるというのに。
 満ちた月は、まだ沈まない。欠ける事さえ許そうとしないままに。

Re: 守護神アクセス ( No.134 )
日時: 2019/03/13 18:14
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)


 窮地に陥ったはずなのに、かぐや姫は身じろぎ一つしようとはしなかった。顔色の変化を観察しようと思っても、不可能だ。なぜなら彼女は兎の面でその素顔を隠していたのだから。作中の人物とはいえ、平安時代の貴婦人ともなれば、唯一懇意にしていた帝以外にその素顔を見せたくはないということなのだろう。
 十二単がそよぐことも無い。雲一つ飛ばぬ空には、ただ月が座しているのみ。そよ風すら感じられぬ静かな夜に、真っ青なお月さまだけが大地を照らしている。日本史の教科書や便覧で目にするような、腰よりさらに下まで伸ばした黒髪が、規則正しく真っすぐに背後へと伸びていた。地面につきそうになったところで、念力のようなもので重力に逆らい、宙を漂うようになっている。
 王子達の降参を促す声に従おうかと思案しているのだろうか。その沈黙が無意味ではないとだけは分かる彼らは、不意の行動に乱されぬよう周囲に気を配ることだけは忘れなかった。
 じりじりと、沈黙が這いより、精神の蝋燭を燃やしていく。熱砂が踏み入れた足を焦がすように、強く、絡めとるかのごとく。
 こういった荒事になれていない王子がしびれを切らしたのも仕方の無い事だ。それを咎める者もいなかった。なぜなら、彼がそうしなければ膠着したまま、また無為に時間が過ぎたのだろうから。

「おい、聞いてんのかよお前」
「聞こえておるわ。千年生きておるから童が耄碌しておるとでも思うたか」

 それまで出会ったフェアリーテイル達とは、纏う雰囲気を異にする声であった。毒蛇に噛み付かれたように、一瞬竦んだ手足の自由が失ったように感じられた。当然、その瞬間かぐや姫の方は何も能力など仕掛けていなかったというのに。
 フェアリーテイルと言えば、人々の幻想をそのまま絵画にしたような見目麗しい姿で現れる。シンデレラ、白雪姫、人魚姫などを見ればよく分かることだ。その声も、玉のような声、鈴が鳴るような音色、小鳥の囀るような澄んだ声、そのように表現できる。
 おそらくかぐや姫が美しいということも否定できないであろう。その声も凛と澄んだものだったと言える。だが、その喉から発せられた言葉を耳にした身として、王子にはそれらが同一のものだとは決して言えなかった。
 それも当然かと、苦笑いを漏らす。多くの姫様は、赤ずきんもそうだが、ヒロインとして誰かに助けてもらう話ではないか。それは魔女であったり王子であったり、時には猟師や木こりではあるが、護られる身であることに変わりない。
 かぐや姫は、多くの男を弄ぶ身だった。地上の人々であれば、貴族でさえ下に見るような月から来た民の一員だった。庇護欲を掻き立てる愛らしい声など必要ない。高圧的で揺らぐことの無い支配者の声。いずれ異世界の王となることを科せられた彼女に必要なのは、覇道を歩むための貫禄こそ求められる。
 ただし、それ以上に滲み出ているのは蛇のような悪女の気配。音も無く忍び寄ったその長細い体に、全身を締め付けられる悪寒。あるはずもない圧迫感に、手足が囚われる。心根の優しい人間、あるいは小悪党程度としか接したことの無い一介の少年、王子 光葉が、彼女の身に纏う空気だけで気圧されるのも無理のない話だった。

「あんまビビんなよ、ぷりんすが要だかんな」
「分かってる……」

 呼びかけたクーニャンも、初めは刃を交える敵であった。彼にとってはあの時以上に、死を身近に感じたことはない。赤ずきんから奏白たちが撤退しようとしている時も、怪我や最悪の事態などは覚悟していたつもりだった。
 しかしあの時は共に、向き合う相手は烈火の如き衝動に衝き動かされていたというのに、対照的に月の姫は、冷気の如き殺意を孕んでいた。人に仇なすという一点においては何ら変わりないというのに、そのための手段には天と地ほどの差がある。
 ただ己の精神さえ焦がし尽くすような破壊願望を得たフェアリーテイル達とは違う。ドルフコーストの能力を直に受けた彼女は、その過程さえもこだわるらしい。本来心根の真っ直ぐな者たちが、我を失って身近な者に刃を向ける。その際に狂気を突き付けられた被害者の顔を見て、愉悦を感じるのが彼女だった。

「てかビビる理由も今更ない……よな?」
「あん? 偉く慎重じゃねーか。あたしと戦う時は痴話喧嘩した後突っ込んできたくせに」
「もう、あの時と同じじゃないってだけだ」

 二の足を踏んでいると考えられなくもないが、猪突猛進しなくなった事実は素直によい兆候だった。相手がまだ奥の手を隠していた時、足元を掬われる確率が下がる。
 今のところ気配はどこにもありはしないが、灰被りに背後から刺される様な可能性もある。勝てると思ったその時に、向こう見ずで突っ込まずに一拍考える猶予を得たのは成長に他ならない。

「でも今回は善は急げ、だと思う。だよなセイラ?」

 月を見ないように気をつけながら、相棒の守護神に問いかける。その通りだとセイラは前向きな言葉を肯定した。こうしている間にも、心身を麻痺させる群青の月光が降り注いでいる。守護神アクセスをしている間はまだ余裕があるとはいえ、次第に体が動かなくなっていく可能性が否定できない。あるいは、唐突にアクセスが中断された時が危険だ。
 生身の人間が例の月光を身に受けてしまえば、たちどころに膝から崩れ落ちてしまう。現に長い間前線を維持していた一部の捜査官は、もう既に身動きの取れない状態に陥っていた。phoneを再び手に取り、ボタンを押すだけの力さえ湧いてこないほどに。

「……降伏するつもりはない、ってことでいいか、かぐや姫」

 当然だと肯ずるため、兎の面が縦に揺れた。なら仕方ないと、王子も顔つきを変える。

「体張るのはあたしの役目のつもりだけど」
「いや、むしろ後ろ頼む。かぐや姫自体は言う程強くないんだろ?」
「そかそか。確かにそうだわ。ちゃんと考えてんだな」
「頭回すぐらいは流石に勝たせろ」

 軽口は終わりだと行動で伝える。崩れた石畳の礫たちに足をとられて捻らないよう、慎重に歩を進める。駆け足になった彼の背後にぴったりつくように少女も後を追った。
 しかし、無防備を良しとするほど愚かな将ではない。途端に、空気そのものが罅割れるような小気味よい破砕音が響いた。ぞわりと、クーニャンの首筋に鳥肌が立つ。振り返ればすぐ傍に、氷の矢が飛んできていた。
 だが、まだ甘い。即座に抜刀し、峰を返して斬るのではなく打ち砕いた。その矢を射たであろう女性捜査官を凝視する。先ほどまで操られていないと判断していたライダースーツを纏った女性だった。

「不意打ちのために隠れてたか? ならもっとギリギリまで気配は消せよ」
「違う」

 異変を感じた王子は足を止める。その背にクーニャンの背が重なり、それと同時に彼女も足を止めた。背中合わせのまま、耳打ちをするような小声で、彼女の思い付きを正した。

「だとしたら、さっき俺たちが歌で解放した時に一緒に正気に戻ってる。あれはきっと、その後に能力受けてる」
「……だとしたら変だぜ、今までちゃんと月見ねーようにしてたんだろ」
「それにあの人……多分結構な実力者だ。今更下手打つとは俺には思えない」
「じゃ、何だろうな」
「まだ何か隠し持ってるんじゃないか。想定外の一矢を当てるための何かを」
「真凜のお姉さまみたいにか」

 手段は分からないがその通りだと、王子は頷く。迂闊に近づけば、今度は自分が同じ目に遭うのではないかと警戒せざるを得ない。あともう少しだというのに、すんでのところで立ち往生してしまう。一応はクーニャンがまだ陥落していない以上、誰が操られても対処は間に合う。
 けれども、脚の止まった王子の背を、彼女は肘で小突いた。今は立ち止まる場面では無いと、身振りで伝える。

「あいつらに時間与える方が駄目だ。攻めの手立てがある敵に時間与えるのは郵便貯金ってやつだろ?」
「それは郵貯だろ。悠長って言いたいのは分かるけど、ボケてる場面じゃねえぞ」
「わり、素で知らんかった」
「そういやお前日本語まだ不得意なのか。全然そんな気しないけど」
「いいから、何度も言わせんな。はよ行け」

 思い切りその背を突き飛ばし、次々と増えていくかぐや姫の傀儡の前に立ち塞がる。身体の自由を奪われている捜査官も多く、敵として立ち塞がる人数はそれほど多くないが、骨が折れそうなことは否定できない。
 かぐや姫を倒さない限り、これが延々と続くと思えば、早いところ王子を送り出すべきだと言えた。勇み足は危険だが、臆病者になることを受け入れてはならないのだから。
 彼女の判断は正しかった。付け加えるとすれば、彼女の直感も大したものだった。しかし、判断の早い遅いに関わらず、護衛のいるいないに関わらず、その後の策を防ぐ手立てはなかった。
 操られている捜査官の能力により、追撃が二人に降り注ぐ。一つとして撃ち漏らしてなるものかと、それら全てを斬り伏せていく。王子には前だけを向かせねばならない。であれば、彼を追うように迫る脅威だけは通さない。報酬は無いとはいえ、そのように支持された以上、それを果たすのは当然の矜持だ。
 逃げようともしないかぐや姫は、もう後数歩で手が届くというところに迫っていた。視野は焦らず、低い所を見たまま保つ。自分が洗脳を受けてしまわないように。
 盤石、そのはずだった。周囲に水が存在しない以上、人魚姫の能力はその歌声による回復や味方を強化する類の能力しかない。今できる最善を彼らは尽くした。策に嵌まることがないようにと、出来得る限りの注意を払った。
 だが、それでも。一歩先んじる敵がいるのは避けられない。
 十二単の袖口を口元の辺りにあてがったかぐや姫は、小さく体を揺らした。王子の角度からは見えなかったものの、セイラはその様子を捉えた。
 すぐに分かった。その動作に意味などはないのだ、と。仮面をつけている以上、そんなことせずとも彼女の表情など誰も知り得ない。けれども、咄嗟にそうしてしまったのだろう。漏れ出そうな笑みを隠すために。
 どこから、何をしてくるのか。分からない彼女は全方位を見回す。彼女は理解していた。赤い月の光は守護神に対し、蒼い月の光は人間に対してのみ効果があると。
 きらきらと、星のようにまたたく何かが蠢いているのをセイラの目は捉えた。それが何であるのかは、先ほど何気なくクーニャンが口にしていた言葉で察することができた。真凜のように、想定外の奇襲をしかけるような手立てがあるのだと。
 かぐや姫の術中に陥る引き金は、月そのものを見ることではない。輝く月の姿を目にすることだ。それは直接である必要は無い。
 鏡に映った月を目にする、それだけで充分だと言える。
 あれはメルリヌスの、エネルギーを反射する板と同じ原理だ。しかしそれは、ただの鏡であればよい。水面に映る月でさえ、かぐや姫の司る武器として用いることができるという話なのだから。
 どういった理屈でそういった能力を獲得したのか。そんなもの彼女には分からない。理由などないとも思えた。今この瞬間において肝要なのは、至る角度からあらゆる者を支配下におけるという事実だけだ。
 王子の視線の行く先など、大体想定通りなのだろう。よく観察すれば、鏡だと思えるような宙に浮く断片がいくつも見える。反射角の都合でまだ王子の目に月が入っていないだけだ。
 次第にその鏡の欠片の数が増えていくことさえ見て取れる。だが、今更王子に指示を出したところで間に合うとは思えなかった。目を閉じろと伝えても、鏡があると伝えても、その意図を理解するより先に、洗脳を受けることだろう。
 洗脳とも限らない。幻覚を見せられ、夢の世界に捕らえられる可能性もある。そうなれば、人間の胆力であれば脱出は困難だ。特に王子は、幸せな甘い幻想から逃げ出そうとするだけの精神は無いだろう。これまでの日々で逆境に慣れ過ぎたせいか、王子は幸福な夢を自ら壊すことができない。
 結局のところ、頭で理解して行動する事などセイラにすらできなかった。それは最善の策を考えるよりも先に、身体が動いていたのだから仕方ない。目の前で大切な恩人が傷つけられようとしているのに、どうして黙って見てられるだろうか。どうして、指を咥えて見ていられるだろうか。
 セイラは自分一人の意志で守護神アクセスを無理に中断した。そうしてしまえば、今度は王子が金縛りにあってしまう可能性を失念していた。しかし、それでも、彼がかぐや姫の手先と成り果ててしまうのをひどく恐れた。
 実際、彼の精神が囚われれば、もはや勝機は全て断たれる。そう思えば、彼女の行動は決して悪手ではなかった。まだ次に繋がるだけ、幾分か妥当な道筋。
 唐突にアクセスは途切れ、王子の傍にセイラは飛びだした。何事かと動揺する王子だったが、不意に体勢が崩れるのを感じた。次第に遠ざかっていく人魚姫の姿が目に入ると、そのまま彼は目を丸くした。
 肩から倒れ込んだ彼は、彼女に突き飛ばされた現実を知る。動揺で揺れる彼の意識を叩き起こすように、セイラの声がこだました。

「鏡に映った月も見ちゃ駄目です、気を付けて!」
「これセイラ、種明かしとは行儀が悪いとは思わんか」

 ハッとした時にはもう遅い。彼女を包囲するように、全方位に鏡の断片が浮遊していた。目を閉じるよりも先に、真紅の月と目が合う。

「お主は自力で瘴気を払える……それは聞いている。ならば童自身の能力で捕えようぞ」

 目を見開いた彼女の黄金の瞳は、フェアリーテイルと成り果てたかのように、月と同じ色に染まった。かと思えば、夜空に昇る月だけは、またしても人間へ作用する青い月へと戻っていく。しかし、人魚姫の双眸に浮かんだ二つの満月だけは、血のように赤いままだった。

「まあ喜ぶがいいさ、セイラ。お主が夢だと気づくまで、王子様との幸せな日々でも見せてやろう」

 そう言い放った彼女は、兎の仮面の下で、嗜虐的な笑みを浮かべていた。

Re: 守護神アクセス ( No.135 )
日時: 2019/03/28 22:31
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: WZM2PwQU)


「おいお前、セイラに何しやがった!」

 次第に力が抜けていくことなど歯牙にもかけず、王子が吐き出したのは怒りだけだった。しかしそんな強い語気を向けられても、全く意に介していない。もはや王子とて籠の中の鳥。精一杯の威嚇も強がりとしか思えない。

「なるほどな、鏡に映った月もダメか。それで向こうの連中は不意打ち喰らったんだな」

 冷静さを保っていたのは流石としか言いようがない。人魚姫が何らかの精神干渉を受け、意識を失ったというのに、何一つ揺らぐことなくクーニャンは大地を蹴った。人魚姫の無力化に成功し、もう人間側の陣営にかぐや姫の能力を解除する手段は無くなった。これ以上の追撃など必要なく、生身の人間に成り下がった王子への能力行使も遮られた。
 どこから相手のしかけた罠にかかるか分かったものではない。自分さえも洗脳されてしまう可能性を恐れ、彼女は思い切って目を閉じた。目を閉じる寸前に把握した視界の情報と物音、気配から一気にかぐや姫を取り押さえようという算段だ。流石にリスキーすぎたため今の今まで踏ん切りはつかなかったが、目を閉じてしまえば術中にはまる可能性はゼロとなる。
 脚力に天と地ほどの差があるため、距離を詰めている間に逃げられるようなこともない。衣の擦れる音、隠しようもないだろう存在感。おそらくは元凶であるフェアリーテイルがいるだろう方向に向けて、白刃をいざ振り抜かんとする。

「じゃが桃太郎とその眷属よ、ちと暴れすぎたのではあるまいか」

 しかし掌の中から、握りしめた刀の感覚は消え失せた。見えない力に押し出されるように、桃太郎が体から飛び出て転がり落ちる。最悪のタイミングで、守護神アクセスは許容時間を超えて接続が中断された。
 無理も無い。そもそも、輸送車の護衛からずっと接続したまま、王子達のところまで駆け付け、リセットする間もなくこちらに戻って来たのだから。心身を削りながらも一時間近く続けていられただけ化け物じみているというものだ。

「何もこのタイミングでそんな……」
「いいから女! もう一度儂の手を取れ!」
「つってもこの青い光やべえぞ、もう腕あがんねーぐらい力抜けてる」
「なら儂の方から行くしか……」
「させんよ」

 迫りくる弾丸を、咄嗟に桃太郎は刀の鞘で受け止めた。銃かと思えばそうではない。先ほどから何度も氷の槍を飛ばしている捜査官が、今度は小さな弾丸を高速で撃ち出しているだけのことだ。見れば、次々と飛来する氷刃は、降り注ぐ雹のように留まるところを知らない。
 契約者がいる以上、フェアリーガーデンの守護神とはいえ、彼はもうこちらの世界で能力を使えない。とはいえそもそも身体能力に優れた守護神であるため、持ち前の動体視力と俊敏性でそれらは撃ち落とせる。ただ問題があるとすれば、クーニャンの隣まで進み、手を取るだけの余裕が無い事だ。

「あいつらまで……」
「王子と言ったな。なるほど、セイラのためとしか思えぬ名をしておる」

 脅威は全て排除した。先ほどまで悠々としていた彼女も、ようやく重い腰を上げて王子の真正面までやってきた。跪き、這いつくばる姿を見て、無様な虫のようだと鼻を鳴らす。気分はどうだと尋ねられたが、王子の口から飛び出したのは先ほどと同じく、「セイラに何をした」との問いだった。

「ああ、もう一度フェアリーテイルにするもよしと思ったがな。お前と再接続して能力で自発的に癒されては意味が無い。じゃから童の幻覚に捕らえる能力で、夢を見続けてもらうことにした」

 永遠になと、冷たい声で補足する。守護神達に死の概念は無い。それは外傷にしても、病にしても、老いにしても同じことだ。それゆえ夢から覚めない限り、人魚姫は未来永劫かぐや姫の作り出した偽りの世界に囚われ続ける。

「あれは不憫な娘だ。喜びを知らん。幸福を知らん。しかし、気丈に、他者のための慈愛を抱え続けている」
「お前が勝手に不憫って決めんじゃねえよ」
「そう憤るな。同情したのは確かに礼を失したかもしれんがな。童とてそんなセイラには報われて欲しいと思うておる」
「白々しい」

 忌々しげに王子は吐き捨てた。それならば、実のともなわない夢の中に閉じ込めるのではなく、一刻も早くこんな悪夢を終わらせ、親友であるシンデレラを解放させてやるべきだ。人を傷つけるのみならず、人が傷つけられているのを傍観しているだけで気分を害してしまう彼女だ、この一連の事件の中で、何度傷ついてきたかなど、想像もできない。
 その全ての元凶であるかぐや姫が、今更セイラのために甘い幻想を見せてやっているだなどと口にしても、一笑のもとに吐き捨てることしかできない。

「セイラは、こんなこと望んでおらぬと?」
「当たり前だろ」
「それは真か? 実際にその方は問いただしたのか? 今が幸せなのかと、後悔は、かつて憧れた白馬の王子様に未練はないのかと」
「……ある訳ねえだろ」

 僅かばかりの沈黙。その無言の刹那に、かぐや姫は王子の中の苛立ちを見た。ヒリヒリと、次第に正気が擦り切れていく緊張感が、その声音には浮かんでいる。そうとも、望んでいるのはこれに他ならない。次第にその怒りが王子の判断力を焦がしつつある様子を見て、一層彼女はその表情を仮面の下で歪めた。
 最早敵となる者もいない。高らかな笑みを月夜にこだまさせ、セイラとは不釣り合いなその男を嘲った。そうとも、王子 光葉、お前にそんな覚悟などありはしないだろうと。既にざわざわと波打つ水面に、一際強い波紋を生み出す。ゆらゆらと、次第に波は高くなる。次第に、容器から感情が溢れていくようにと。

「お前にとってはセイラが全てだ。あの娘が他の誰かになびいたとすればお前の英雄譚などすぐに幕引きじゃ。否、始まってすらおらぬやもしれぬ。お前という男はセイラにとって『求めずとも勝手に求めてくれる存在』に過ぎん。己が求め続け、唯一胸を張れた長所である声を捨ててまでも叶わなかったかつての想い人と比べれば、その価値など無きに等しい。言うなれば路傍の石と天に浮かぶ月ほどの違いじゃろうて」

 次第に王子の額に青筋が浮かんでいく。深い皺が眉間に刻まれていく。ああ、堪らない。人が、心が壊れていく瞬間というものが、彼女にとって心地よくて仕方ない。いつからそう思うようになったことだろうか。初めて目にした、誰かの心が踏みにじられる瞬間は、あんなにも胸が苦しかったというのに、いつの頃からかそれが心地よいと、それが当然であると考えるようになってしまった。
 単純に自分は我儘なのだろうなと自覚している。そう、彼女は我慢ができなかった。自分一人が誰かに決められたレールを走らされているというのに、貴賤を問わず地上の人々は自由を得ていることが。私の辿り着く終着駅は、虚無か不幸しかないというのに、彼らには幸福を掴む権利が、機会が与えられている。
 この世は不平等だともいえるし、平等だとも言えた。彼女は平安の世に暮らしていた時分、充分幸せな生活を過ごしていた。だから、今、そして将来何も喜びなど無くても受け入れなくてはならない。生きとし生けるもの、経験する幸福と不幸の決算は等しくなるものだという統計。それに則れば、幸福の絶頂などとうに過ぎ去った彼女はもう、生を楽しむ事などできない。永遠に死ぬこともできないというのに。
 だから、愉快そうに笑う連中が煩わしい。その裏で退屈にしている者がいることに気づこうともせず、我が物顔で人生を謳歌している姿が。
 だから彼女は、ドルフコーストの能力にかかり、理性を失った瞬間に決めたのだ。どうせ救われることが無いというなら、万人にこの虚しさをくれてやろうと。泰平の世など討ち崩してみせようと。遠い未来、会えるかもしれないという一縷の望みにかけて不死の薬を託した帝は、その薬を富士山の頂上で焼き払ってしまった。育ての親とて、きっと彼女を怨んだまま冥土へ旅立ったことだろう。
 もう、何も残されていない。現世に対し、未練など何も残っていなかった。ならば、壊すしかない。
 フェアリーテイルは精神を蝕む破壊衝動に囚われた際、純粋な幻想であるがゆえに、純粋に街を破壊し、人々を手にかける。しかし、湾曲した怨嗟をその胸で千年煮詰めたかぐや姫はその限りではない。それは言うなれば破滅衝動なのだろうか。彼女は、ただ破壊するだけに愉悦を感じることはできなかった。
 その胸に渦巻く蛇蝎の如き毒を孕んだ感情は復讐と呼ぶべき代物だ。彼女は、誰かが絶望しきった表情をその目に収めなければ気が済まない。公立だけを求めるなら、この瞬間王子を殺してしまうべきなのだろう。しかし、そのような決着を彼女はよしとしなかった。敗北の悔しさなど生ぬるい。理解しあったと信じていた、想いあったと期待していた、人魚姫に裏切られた王子の顔を見るまで、その生を終わらせるわけにはいかない。
 だからこそかぐや姫は人々の動きを封じることにした。かつて、竹取の翁の屋敷にて、帝の兵達を足止めしたのと同じ、身体から力を奪い取る青い月光。それは幾星霜経とうとも色あせることなく、猛者たちの手足をその空間に縫い付ける。
 人魚姫に悪夢を見せるのも一興かと思えたが、僅かに同情が働いた。同郷のよしみである同情、それに付け加えるとしたら同じだけの嗜虐心だろうか。ここで人魚姫を苦しめても悪くない満足を得られるだろう。しかしそんな事をしても王子 光葉は絶望しない。怒りを湛えるのみだ。
 夢見がちで、青臭い、そんな若い獅子の奮い立つ心を、闇より暗い悲しみで塗りつぶしてしまえたなら。きっと、きっと自分さえ満足できることだろう。これ以上ない程に。ならば、セイラにはとびきり甘い夢を見せよう。そして絶望しきった王子を殺してから、目覚めさせてやろう。
 その時、セイラはどう思うだろうか。どうして甘い夢から覚めさせたのかと激怒するだろうか。それとも、自分のせいで傷心したまま救いなく没した番の男の死にすすり泣くだろうか。ああ、堪らない。これからの悲劇を思い浮かべる程、彼女の心臓は高揚した。それに呼応するように、炎のように燃え盛る紅蓮の瞳は一層その光を強くする。

「さて、その方にも見せてやろう。セイラが、童の作り出した泡沫の幻想に囚われた姿を」
「何が目的だよ」
「なぁに、冥土の土産に、せめて伴侶の願いが果たされる姿でも見せてやろうかと思うてな」
「そうかよ。日本で一番古いだけあって、性の悪さもピカイチだな」
「そう言うな。これもお主らが言う赤い瘴気の影響かもしれんぞ」

 先ほど、不意打ちで月光を反射させるために利用していた鏡の断片をかき集め、規則正しく並べてスクリーンを宙に作り出した。目の前の景色を映し出すだけの鏡だったというのに、まるでテレビのようにここではないどこかの情景を映し出した。
 それはどこかの絵本の挿絵に表される様な、静かな海岸線だった。広い砂浜が続いており、波が寄せては返している。白い泡を巻き込んで押しては返す波が、時折宝石のような貝殻を運んでくる。
 浜辺のずっと向こうには、切り立った崖が見えた。崖の少し手前には、大きな大きな、天を衝くような棟が三本並んでいるような姿が特徴的な、西洋風の城が聳えていた。
 まるでドラマのワンシーンのようだった。そこには、絶世の美男美女が一組、向かい合って並び立っていた。紫と白を基調にしたドレスをまとった女性は、輝く黄金の瞳の中心に、向かい合った男性の姿を映していた。ウェーブのかかった翡翠色の髪の毛が、風に煽られて鼻先や首筋に引っかかっている。それを指先でどうにか払いのけながら、照れくさそうに頬を赤らめて、微笑みを浮かべていた。
 彼女は紛れもなく人間だった。ドレスの裾からは、絹のような白い肌の、二本足が覗いていた。魚の尾びれなどでは決してない。だが、小さく溢した笑い声が、涼やかに染み入る風鈴のような響きを持っていたことから確信した。
 あれはセイラだ。そう、瞬時に自覚したと同時に、胸を鷲の鉤爪で掴まれたような、痛みと息苦しさを同時に覚えた。胸を裂くような喪失感と、絶えず締め付けてくる切なさと。彼女の表情には、目の前に立つ白馬の王子と見つめることへの遠慮が混じったような好意が浮かんでいた。少し及び腰の、憧れの入り混じった恋慕の情。
 鏡が映し出した景色の角度からは、王子様の姿はちゃんと見られなかった。セイラの瞳に映る小さなシルエットなども、当然判別できるはずも無い。顔も見えないその男に、間違いなく王子は嫉妬していた。
 ようやく、意図を理解した。こうやって俺の心を追い込んでいくのが狙いなのかと。恨みがましい瞳でかぐや姫を睨みつける。

「そう睨むな。見るのが心苦しくなれば目を逸らしてもよいぞ。何、その時は童直々に、この手でその方を縊り殺してくれようぞ」

 死にたくなければ辛い光景から目を逸らすな、そういうことなのだろう。ここで死ぬ訳にもいかない以上王子は、渋々視線をセイラ達の方へと戻した。
 こんな表情、見せてもらったことはないなと、漠然と感じた。あるいは、自分がこんな表情を引き出せたこともないという事実を痛感した。
 口から吸いこんだ夜風が、あまりに冷たくて。彼はそのまま凍えてしまいそうな程に思えた。

Re: 守護神アクセス ( No.136 )
日時: 2019/04/04 14:00
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)

 霧の中に私が溶けていく。気を確かに持たなければと強がる自分の頑なな意志さえも、波に拐われてしまう。
 あの人の顔はどうだったろうか。そもそも、あの人とは誰だったろうか。手の温もりが薄らいでいくにつれて、その記憶も朧気になる。必死に思い出そうとすればするほど、靄の向こうへと消えていく
 私を救い出してくれたあの人は、私の夢を叶えてくれたあの人は、一体、どんな人だったっけ。そもそも、私は一体誰だったっけ。
 どうしてこんなにもふわふわしているのだろう。ここは何処だろう、今はいつなんだろう。暖かいと思えば暖かいような、涼しいと言えば涼しさを感じるような、不思議な感覚。ふわふわと浮かび上がっているようで、ゆっくりと下降しているような。そして、意識が朦朧としていく中で、明確に目覚めが近づいている自覚。
 ああ、そうか。重力を感じている中で、柔らかな塊に身を委ねているこの感覚。上等なベッドに寝ているという事実を思い出した。春の温かな木漏れ日が、涼しい風と共に窓から入り込んでくる。
 ああ、今日もいい天気だ。私はまだ、自分が何者か思い出せていないことなど忘れて、気分良く目覚めると同時に、立ち上がった。太陽はまだ、それほど高くない。むしろ東の稜線に近い所にいるだろうか。
 立ち上がり、部屋着から外向きの洋服へ袖を通す間、強い違和感がいくつか過った。服とはどう脱ぐのだっけ、着るのだっけ。まるでこれまで、衣服の脱ぎ着など知らなかった幼子のように、どう着替えるのか頭では理解しているのに、素人みたいに体が上手く動かない。
 さらさらと肌に吸い付くような上質な布は肌に心地いい、はずなのに。なぜだか全身に纏わりつく布地の質感が新鮮だった。毎日ちゃんと着替えている筈なのに。私は、ほんのちょっぴり自分のことを思い出した。
 もう一つ、より一層強い違和感を覚えたのは足腰だろうか。しかしこれは、本当に漠然とした足元のおぼつかなさに依るものだった。なぜだか、それこそ赤子のような気分で、二本足で立つことが不自然で不慣れなもののように感じた。足に怪我や病でも患っているのだろうか。着替えを終え、ベッドに腰かけ、スカートの裾から覗いたふくらはぎをさすってみた。身に纏う衣服と同じような肌触り。むくんでいるようにも思えず、捻挫して足首を腫らしているようなこともない。病的に細くもなく、健康的な肢体であるように思えた。手前味噌だけれども。
 きっと、気のせいだ。長い事眠っていたせいなのだろう。そしてようやく、自分という存在の不安定さを思い出した。そう言えば、ここは何処で、私は何をしていたのだろうか。起きたら着替えるものだという常識に従って、ただ何となく衣類を変えてはみたものの、これで本当に正しかったのだろうか。
 そして、此処にいる私は一体どういった身分なのだろう。ベッドも、衣も、部屋の早朝も鏡台も、何もかもが高級な調度品であるような一室。よほど裕福な家柄か、王族やそれに連なる貴族にしか住み得ぬような空間。お姫様、そっと呟いたその響きが何となく耳に引っかかる。姫、姫、姫。何となくその言葉に聞き覚えがある。
 何かの御姫様、だった。そう直感したはいいが、ずきりと胸が疼いた。どうにもそれは、私には相応しくないみたいで。暗雲が、立ち込め始める。こんなにも穏やかな景色に包み込まれているのに、私の胸の内は次第に暗い気持ちが間欠泉のごとく湧き出てきた。
 頭が割れてしまいそうなほどの鈍痛。誰かが蓋をした記憶が、無理やり飛び出そうとしているような激しい痛みに、顔を顰めずにいられなかった。頭蓋骨の中央で、棘つきの鉄球が跳ね回っているみたいだ。今にも、中から破裂してしまいそうだと苦悶の声を漏らすほどに。
 やっぱり、何かおかしいんだ。隠蔽されたヴェールを剥ぎ、何らかの真相に辿り着かねばならない。他ならぬ、私のためにも。鏡台の中の私に向き合う。そこに居るのは紛れもなく、私が私であると認知している者に他ならなかった。翡翠色のウェーブがかった長い髪に、黄金を思い起こすような瞳。あまり日向に出ないせいか肌は白く、食も細めなために線の細い体をしている。
 ただ、何かが違うと叫んでいる。耳元がやけに寂しい。ピアスの穴は開いていないが、何か装飾品が欠けているような気がする。
 さらなる違和感の露呈に、私は困惑を浮かべ、一層強い頭痛に苛まされた。これは、一体なんだと言うのだろうか。想像を絶する痛みから、逃げてしまいたかった。何かが違う、けれども何が違うか分からないことが怖くて、知りたいと願うのに、こんなに辛いならば逃げたくなってしまう。
 逃げてしまえばいい。弱い自分が囁いた。そんな辛いのに、立ち向かう必要があるのかと、安寧の方へ向かうように甘言で手招きしている。けれども、逃げ腰の私に対し、首を横に振った。駄目だ、どれだけ辛くて苦しくても、自分が楽をするためだけに逃げてはいけない。それが私の信条であるはずだから。
 ずっと浸かっていたいと願ってしまう、蜂蜜のお風呂のような甘くて絡みつくような夢でもない限り、足踏みなんてしていられない。生きとし生けるものは皆、苦難を乗り越えて強くなるものだから。苦難を乗り越えた先にようやく、安住の幸せを手に入れるのだから。
 きっとここは、私にとっての安住の地なのだろう。けれども、其処に至るまでの道のりをまるで覚えていない。私が歩んできた道のりを示した地図が、記憶が、記憶からぽっかりと抜け落ちている。
 もしかしたらそれを思い出そうとする過程は、それほど難しくないのかもしれない。この部屋の扉を開けて、廊下を進み、出会った女中に話を聞くだけで解決するかもしれない。記憶が朧げな今が夢で、目を覚ますだけということもあり得るだろうか。
 ただ一つ言えることがあるとしたら、頭の中で反響し続ける痛みを言い訳に、この狭い世界から飛び出そうともせずにじっとはしていられない。それだけだ。慣れない二足歩行で、ふらつきながら、ゆっくりと出入口の扉に向かう。
 この外には、一体どんな世界が広がっているのだろうか。ドアノブに、いざ手をかけようとしたその時だった。
 まだ扉に触れてもいないのに、木製のドアが一人でに開いた。

「ああ、もう起きていたんだね」

 えっ、と驚く暇もないまま、私と目を合わせるや否や、現れた彼は相好を崩し、おはようとだけ投げかけてきた。つられて私も、オウムみたいにその言葉を返した。呆気にとられたその顔が随分と可笑しかったようで、そんなに驚いてどうしたのかと笑みを漏らしながら訪ねてきた。
 私の瞳と対を成すような、白銀の髪に、海のように深い群青の瞳。整った中性的な顔立ちだというのに、真顔になった時の凛々しい空気と、剣を振るうために引き締まった腕は、とても男らしい。声も少し女性寄りなところがあって、ハスキーなものだけれど、声変わり前の少年を思い起こさせるような、親しみやすさを感じるような声だった。
 彼が笑って、真顔になって、首を傾げて。手をちょっと持ち上げたり、手持ち無沙汰に頬を掻いたりしているのを見ているだけなのに。いつしか、頭の痛みなんて消し飛んでしまっていた。
 私を困らせていた痛みは、棘つきの鉄球というよりむしろ、氷の刃のようなものだったのだろう。身体を動かす炉心となる心臓が、彼のちょっとした振舞いに反応する度に強く動き出す。血流は早くなり、身体の奥底から次第に沸騰していくように思えた。気が付けば、腹の底から足の先、頭のてっぺんまで、全部茹ってしまうほどに。
 ぐつぐつと煮え滾った頭の中で、もうほとんど思考なんてできるはずもない。ああ、だけれども私は失った私の欠片を一つ取り戻した。私は、ずっと前からこの人を知っていた。ずっとずっと遠くで笑っているこの人の横顔を、何百回何千回と目にした記憶がある。
 早鐘は、そのまま胸を突き破って飛び出してきそうにも思えた。このあまりに五月蠅い鼓動が、目の前の彼に聞こえてしまいそうなのが、ひどく恥ずかしかった。聞こえないでいてと願うほど、意識するほど、より一層その拍動は強くなる。その鼓動を響かせる。
 今、手が触れる距離に立っているその人のせいで、いつしか私はこの世界と自分自身への違和感なんて、忘れ去っていた。

「……大丈夫かい、セイラ? 具合が悪いのなら医師や薬師を呼ぶけれど」

 できるだけ落ち着いていようとしているようだけれど、彼は焦燥をその声に滲ませていた。少しばかり顔が強張っているように見えるのは、心配のせいだろう。何も体に異変は無いと、大げさな身振りを添えて伝える。熱があるのではないかと、まだ訝しんでいるようだが、きっと体温は普通であるはずだ。熱を孕んでいるとしたら、私の心だけだ。荒波のように激しい情動が、今も脈打っている。
 セイラ。それが私の名前。歌が得意な半人半魚の神話の幻獣、セイレーンのようだなと感じた。
 この人の名前は、なんというのだろう。そんな問いが思い浮かんでは、すぐさま泡のように弾けて消えてしまった。名前なんて、どうだっていいじゃないか。
 この人は、私がずっと昔から想い焦がれていた、王子様に他ならないのだから。
 私の調子が別段悪くないと理解してくれた彼は、湖畔に向かおうと提案した。今朝から彼の愛馬も元気を持て余して仕方が無いらしい。喜んでと頷いた私は、ただ彼に手を引かれるまま絨毯の敷かれた廊下を進んでいく。
 繋いだ右手の体温が、自分と同じぐらいに熱を孕んでいた。手を繋ぎ、その体温が伝わってくるという些細なことが、何故だか特別な出来事に感じられた。
 ただやはり、どことなく私の身体が覚えている体温と比べると、齟齬がある。一体、何が違うと言うのだろうか。そもそも、どうして手を握っているだけで幸せだなんて感じたのだろうか。

 ああ、やっぱり、何も思い出せそうにない。


 けれどもまあ、それでいいか。



 だってこんなにも、幸せなのだから。

Re: 守護神アクセス ( No.137 )
日時: 2019/04/11 00:05
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)


 その白馬は、嫉妬するぐらいに美しい毛並みをしていた。雄々しく力強い体を持っているというのに、その雪のような肌はどんな美女の肌よりも綺麗だった。俗世から隔離された教会で、敬虔な神父たちに育てられた、純潔な聖女を思い起こすほどに。大地を力強く駆けることもできる牡馬だというのに、誰よりも美人だなんて、なんて贅沢な生まれなのだろう。
 彼がまだ年端もいかない頃に、この城の厩(うまや)で生まれたとの事だ。生まれたばかりの赤ん坊だった頃から、彼がこの仔の世話をしてきたのだ。だからだろうか、彼は自分の兄弟に向けるような眼差しを、その仔に注いでいる。恋慕などを超えた、長い歳月を共にしたが故に生まれる愛情。それを向けられている白馬が恨めしく、ちょっとばかりお腹の底で悪い虫のようなものが疼いた。
 このままじゃ乗りにくいだろうと、昇降台とすることを目的に作られたであろう段差の方へとエスコートされた。乗りやすい高さから、丁寧な彼の介護のおかげで、危なげなくその背に跨ることができた。彼はと言えば、事も無くひょいと飛び移るように私の前へと座った。
 ひょいと軽く飛び乗った際に、泉のせせらぎのように瞬く銀髪が踊った。しっかり捕まっていてねとの注意が、耳に入ってすぐにすり抜けてしまうぐらいに、軽く放心していた。どこまで、私はこの人に夢中なのだろう。
 また、身体の芯から熱くなった気がしたけれど、昇りつつある太陽の日差しが強くなったせいにした。

「大丈夫? そのままだと振り落とされるよ」

 別段急かすような言い方でもなく、苛立っている様子もなかった。ただ、気遣いという言葉を意図するまでもなく、当然の事柄として息つく様に自然と配慮してくれる。そう、それだけ。生まれた時から特別な人だというのに、自分以外の誰かに心から優しくできる人。それが彼だ。
 慌てて彼の腰に手を回す。別段暴れたりはしないだろうけれど、こんな大きな馬が大地を蹴るのだ。普通に走られただけで振り落とされてしまうに違いない。地面を転がる姿を想像すると、ゾッとしない気分になったため、できる限り強く抱き留める。ぴたりと身体を重ねるようにしたが、今は怖さが恥ずかしさに勝っているから仕方ない。

「そこまでがちがちにならなくても大丈夫だよ、ゆっくり走るから」

 彼もまた、あまり照れくささなどは感じていないようだ。そう言えば、さっき顔を合わせたところからずっと、彼は爽やかな笑みを絶やさず、飄々としている。もう少し、見惚れたり頬を赤らめてくれてもいいものを。私一人当惑を浮かべているのが不平等に思えて、狡いと胸中に呟いた。

「今日もよろしく頼むよ、ユニ」

 そう言ってユニの、つまりは弟のような白馬の頭を優しく撫でていた。咄嗟に、また言葉がこぼれる。
 狡い。
 今度は口からも飛び出しそうになった。
 それほど激しくは走らせないと言っていたのは本当のようで、確かに彼の腰に回した両手を軽く握っていれば落ちる気配などなかった。それでもやはり、上下や前後に揺れを感じるため、彼に掴まっていなければ、すぐさま草花が生い茂る地面に口づけをしてしまうことだろう。
 お城は、小高い丘の上に建っていた。てっぺんの屋根が尖っている、槍のような形。灰色のレンガで構成されており、その頂上だけが真っ赤な素材でできていた。城門を潜ると、緩やかな下り坂が顔を見せる。整備されたその街道以外は、全てが深緑の絨毯で包まれていた。
 無造作に馬を走らせては、その自然のカーペットを蹄で巻き上げて荒らしてしまうと配慮してか、大昔の王様がこの街道を整備したらしい。
 そして大地は、東西南北それぞれに違った表情を見せていた。北に目をやれば、頭に雪の帽子を被った鉱山が聳えている。東から南にかけて広く森林が広がっているようだが、方位によって生えている植物がそれぞれ違うらしく、その葉の色の変化が、虹のような美しいグラデーションを織り成していた。西に目を向ければ、どこまでも続くような広大な青だけが横たわっている。
 綺麗な湖だった。とても、とても広い。海と見紛えるほどに大きい。この湖はずっと西の方で実際に海と繋がっているらしく、水質が少し塩分を帯びているのだとか。そのためこちらの方では塩に強い植物しか育たないのだとか。真水、つまりは雨水がろ過された地下水のようなものが必要ならば、むしろ東の森へ向かって泉を探すべきだと彼は言う。汽水湖と言うんだ。英才教育を受けてきた彼が、知って当然という顔でそう教えてくれた。
 広い海には人魚が住むというのだから、もしかしたらここに迷い込む子もいるのかもしれないね。半分振り返って、横顔の貴方がそう嘯いた。所詮そんなもの伝承の中だけの存在だ。けれども、この空気を和ませて、会話を弾ませるためにそんな事を言ってくれたのだろう。

「会えたらそれは、さぞかし素敵なことでしょうね」
「どうかな。そうでもないと僕は思うよ」

 縁起が良さそうなのに、どうしてだろうか。怪訝に思っていると、彼が妙な雰囲気になったことを感じ取ったのか、幼い少年が言い訳するように弁明した。

「他の女性と出会いたいだなんて、滅多な事を口にしたくなかっただけだよ」

 なるほど、私のためだったのか。得心がいった私はどことなく恥ずかしくなって顔を俯かせた、つもりだった。そう、それは、きっと口説き文句に聞こえるような言葉であるはずだから、喜びと恥じらいとで目も合わせられなくなるはずだろうに。
 なぜだか、ざらざらとした粗いやすりで胸の内をかき回される気配がした。言い伝えの上では絶世の美女だと語られている人魚より、自分を優先してもらえたはずなのに。なぜだか、締め付けられるような疎外感があった。身体は熱くもなくて、むしろ寒々しく思えた程だった。
 私以外の誰かに、目を奪われてほしいと願ったとでもいうのか。そんな訳が無い。私を見て欲しいという願いは、遠い昔から想い続けていることだ。何年、何十年、何百年と時を超えて、変わることがない悲願であったはずだ。
 いや、それは可笑しい。何百年も、何十年もあり得ない。そしたら私は、白雪姫の魔女のような、しわくちゃのお婆さんにでもなっていないといけない。それなのに、どうして悠久の時を渡って今に至ったような達成感を得ているのだろうか。
 記憶はまだ、全てを取り戻せそうにない。しかし頭にでもなく、身体にでもなく、魂にその記憶は刻まれていた。私は、何百年という月日を、貴方を見つめるだけで過ごし続けたという事実を。
 一体、どうしてそんな事。訳が分からなかった。彼が何百年も生き続けているなんて、そんな事あり得ない。だって彼は紛れもなく人間なのだ。まだあどけなさの残る彼は、当然齢二十にも至らない青年だろう。百年も眺めていただなんて、そんな訳無い。不老不死じゃあるまいし。
 湖畔を駆け抜ける最中、私はその、彼の瞳と同じ色をした水面を眺めた。深い、深い海を思い起こすようで、それなのに底に手が届きそうな程透き通っている。その心根に画すべきものなど無いのだと、清廉潔白を主張するように。
 私は、同じように潔白でいられるだろうか。そう言えば、記憶が朧気だと打ち明けられないままここに来てしまった。けれども、そんなもの歯牙にかけるようなことでもないように思えた。要約してしまえば、そんなもの簡単で、好きな人と、寄り添えている。それに尽きる。これ以上適切な表現が無いのだから、甘んじて受け入れるべきだ。
 彼は一国の王子様で、私は彼に見初められた。それはきっと、間違いじゃないのだろう。その出自も、何もかもをきっと彼は受け入れた後だ。私自身がわざわざ思い出す必要も無い。名前はセイラ、それはもう聞いた。だから、それさえ知っていれば構わない。
 湖畔を歩き、遠くの森を眺め、山脈に想いを馳せる。それだけで、幸福の歯車は回り続ける。滞ることも齟齬が生じることも、錆び付くことも無い。そしてその幸福は、私一人だけのものではないのだろう。
 湖を見つめ続ける。ふと、鏡のような水面に映った、自分自身と目が合った。それは鏡面の私と真正面からぶつかりあったというより、水の向こう側に潜んでいる私が、こちらを恨めしそうに観察しているように思えた。
 またしても、鋭い痛みが、脳裏に。それと同時に強い不快感が背筋を駆け抜けた。警戒する犬のごとく、私は体を小さく揺らした。寒いと勘違いしたのか、彼は身体のことを気にかけてくれた。痛みを何とか押し殺し、作り笑顔で何でもないわと告げる。しかし、途端に心配一辺倒の顔色に変わってしまった彼はというと、何かあった時にすぐに戻れるようにと城下町の方へ戻ろうという。
 自分のせいで予定を変えさせてしまい、申し訳なさで胸がいっぱいになったけれども、何事も無く彼はまた、気遣いを投げかける。セイラが元気ならそれでいい。そう、まただ。この人は、そうあるべきだと心酔しているように、誰かに優しくできる。罪悪感をいつしか私の方から感じてしまう程だけれども、きっとそれさえ彼は望まないのだろう。
 こんな人と、一緒にいられるだなんて、私は果報者だ。強く強く、そう思う。けれど、どうしてだろうか。とてもその配慮がむず痒い。私という欠片がしっくりと収まる器が、ここではないと本能が呼びかけている。またしても、強い違和感。頭を砕くような痛みは、また勢いを増していた。それを誤魔化すためにより一層強く、引き締まったその背を強く寄せた。
 その時だった、湖の傍に立つ、一見の小さな小屋が目に入ったのは。それは、丸太でできた、質素ながらも整った家屋だった。中には、お年寄りの男性が一人と、うら若い女性がいるようだった。行ってきますと伝えた彼女が飛び出してくる。買い物かごを持っているようで、彼女もこれから城下町へと向かうようだ。
 私達は馬で来ているけれども、決して徒歩で行けない距離ではない。きっとこの景色が好きなんだろうなと、城下と比べあまりに立地が悪い此処に住む彼らの胸中を想像してみた。もしくは、ここで何らかの仕事を生業としているのかもしれない。
 家の扉に向かってあんなにも明るい笑顔をしていたというのに、振り返って正面を向いた彼女の表情は途端に崩れた。私達、いや、彼の顔を見て同時に、表情を曇らせた。驚きが一瞬だけ強く覗いたものの、それ以上に哀しみをたたえていた。表情は硬直し、音も無く籠から手を離してしまう。
 それなのに、愛馬のユニへ指示を出している彼はというと、その女性のことなど目に入っていない。知人、なのだろうか。いや、きっと違うだろう。彼と彼女が知人だとすれば、過去に何らかの確執があるような態度を示している。とすれば、おそらく、もしかしたらなのだけれど、彼女はこの人を離れたところから慕っていたのだろう。恋をしていたのだろう。けれども、叶わなかった。
 頭痛はまたしても、融けるように消えていた。その代わり、何故だか私の胸の内には、風穴が開いたようなそら寒さだけがあった。何も無い虚空のように思われる胸の内、心臓だけがずきりと痛んだ。手の温もりが、砂時計の砂のように零れ落ちていく。次第に、ゆっくりと、何かを失ってしまったせいで。
 申し訳なさを感じている訳では無かった。ここでそんな事を想いもしようものなら、あらゆる人に失礼というものだ。
 けれど、どうしてだろうか。悲しむその顔から、目が離せない。彼女のことが、他人ごとに思えなくて胸が苦しい。
 彼女と会ったことなど決してないはずなのに。なぜだか、私はこんな事を感じていた。

 あんなに、笑顔が素敵な女性なのに、どうしてあんなに辛そうなんだろう。

 彼女の素性を知ろうにも、誰に尋ねたものか、当然私にも、分からなかった。


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