コメディ・ライト小説(新)
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- 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版-
- 日時: 2025/11/29 21:34
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 82jPDi/1)
毎週日曜日更新。
※更新時以外はスレッドにロックをかけることにいたしました。連載が終了したわけではございません。
*ご挨拶
初めまして、またはこんにちは。瑚雲と申します!
こちらの「最強次元師!!」という作品は、いままで別スレで書き続けてきたものの"リメイク"となります。
ストーリーや設定、キャラクターなど全体的に変更を加えていく所存ですので、もと書いていた作品とはちがうものとして改めて読んでいただけたらなと思います。
しかし、物語の大筋にはあまり変更がありませんので、大まかなストーリーの流れとしては従来のものになるかと思われます。もし、もとの方を読んで下さっていた場合はネタバレなどを避けてくださると嬉しいです。
よろしくお願いします!
*目次
一気読み >>1-
プロローグ >>1
■第1章「兄妹」
・第001次元~第003次元 >>2-4
〇「花の降る町」編 >>5-7
〇「海の向こうの王女と執事」編 >>8-25
・第023次元 >>26
〇「君を待つ木花」編 >>27-46
・第044次元~第051次元 >>47-56
〇「日に融けて影差すは月」編 >>57-82
・第074次元~第075次元 >>83-84
〇「眠れる至才への最高解」編 >>85-106
・第098次元~第100次元 >>107-111
〇「純眼の悪女」編 >>113-131
・第120次元〜第124次元 >>132-136
〇「時の止む都」編 >>137-175
・第158次元〜第175次元 >>176-193
■第2章「片鱗」
・第176次元~第178次元 >>194-196
〇「或る記録の番人」編 >>197-
■最終章「 」
*お知らせ
2017.11.13 MON 執筆開始
2020 夏 小説大会(2020年夏)コメディ・ライト小説 銀賞
2021 冬 小説大会(2021年冬)コメディ・ライト小説 金賞
2022 冬 小説大会(2022年冬)コメディ・ライト小説 銅賞
2024 夏 小説大会(2024年夏)コメディ・ライト小説? 銅賞
──これは運命に抗う義兄妹の戦記
- Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.119 )
- 日時: 2022/10/09 17:26
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: UKb2Vg8d)
第107次元 純眼の悪女Ⅶ
キールア・シーホリーといえば、子どもにはらしくない大人しさで、常に周りの様子を気にして俯いているような少女であった。ロクアンズと上手く付き合っていられたのは、ロクがだれにでも分け隔てない明るさを持ち、引っ張り回していたからにほかならない。キールアはロク以外に友人を持っていなかった。
無論、冗談でも、自分を殺してほしいなどと口にできる気概を持ち合わせていなかったはずだ。──すくなくともレトヴェールの目には、「殺してほしい」どころか「遊んでほしい」とも言えぬほどに臆病で、消極的な少女に映っていたのだ。
「……は?」
驚きのあまりレトは硬直して、物一つ言えなかった。キールアはさらに、彼に迫った。堰を切ったように彼女は言い募る。
「この湖から落とすでも、もっと先の崖でもいい。あるいは……次元の力でなんとかしたって、いい。ほかの次元の力は、『癒楽』とは違って常人以上の力を発することができるって、聞いたの。レトヴェールくんも次元師なんでしょ? だったら、わたしの身体を塵一つも残さないで、この世界から、なくすことができる──?」
矢継ぎ早に、そして淡々と零していくキールアの、真に迫ったような表情をレトはしばらく信じられなかった。
目を伏せ、肩を震わせ、吹き出した汗も拭わず彼女の手は地面の上でぎゅうと固く握りこまれている。
ずっと胸のうちにため込んでいた。
殺害された家族の住む家に足を踏み入れた日の光景を、まだ瞼の裏は覚えていて、目を閉じれば赤一色に焼きつく。寝つけない日も珍しくなかった。まるで昨日のことのように思い起こせるが、ひとつ忘れてしまったのは、笑い方だ。
あの日どうして自分もともに逝けなかっただろう。
愛する家族とともに命を終えられたなら、残された途方もない時間の中で、跡形もなくなりたい、などと絶望する暇もなかったのに。
だれにも吐けず、体の真ん中で煮えていたままだった赤黒い感情が、ようやく声になって聞かせた相手はしごく戸惑っていた。
「お前……なに言って」
「おねがい。もうあなたにしかこんなこと、言えない」
「できるわけねえだろ」
「どうして!?」
声を荒らげたキールアに気圧されて、レトは息を飲んだ。見ればキールアは、その琥珀色の瞳からぼろぼろと涙を落としていた。
「……どうして……? だって、レトヴェールくん……わたしのこと、きらいでしょ……?」
キールアは顔を上げた。
夕焼けにあてられた明るい瞳が、涙を滲ませて、水面のように揺らいだ。
レトは口を噤むよりほかに、為す術がなかった。
「──」
「言ったじゃない。『おまえなんて友だちじゃない』って。そう言ったよね」
小袋を、まるで宝物を扱うように胸元に抱きながら、キールアはかたかたと震えていた。せっかく整えた息が乱れても彼女は構わず続けた。
「だからわたしを、この身体もぜんぶ、跡形もなくしてほしい。そのあとに、この袋に入ってる目も、潰して、どこかへやって。あいつらの手に渡したくない。おねがい、おねがい……っ」
「──……落ち着け、俺は、」
そのときだった。
森の奥からこちらに向かって駆けてくる獣の気配がした。野生よりも鋭く、異様な殺気を放っていた。レトはなかば手で押しのけるようにキールアを庇い、立ち上がった。
キールアが一人驚いていると、叢を掻き分けてそれは突進してきた。
警戒していたレトの腕に向けて一直線に跳びかかり、がぶりと勢いよく噛みついてきたそれは灰色がかった毛並みをしていた。
「──っ!」
犬だ。剥き出しになった犬歯が深く、レトの左腕に突き刺さる。ぐっと顔を顰めた彼は右腕を振るってその犬の頬を叩こうとした、が、すんでのところで犬は飛び退いて、地面に着地した。
「次元の扉発動、『双斬』!!」
レトが叫べば、呼応するように空中が振動した。どこからともなく出現した双剣が彼の手に収まると、刹那。
真っ向から新たな殺気が飛来した。反射的に両刃を構えて迎え撃つ。飛んできた刀身は、双剣とかち合うとぎらりと鋭い光を放った。
眼前に迫った長身の男が、低い声で告げた。
「退け」
怒りでも憎しみでもない、底知れない悪意を孕んだ眼光がレトの視線を突き返す。青にも近い白肌の頬には一切の情がなく、また、その顔の半分は酷く焼け爛れていた。
濃紺の生地に金の刺繍を誂えた外套。国花と、オークスの家紋を象徴する西海を掛け合わせた胸章が、政会の名を主張していた。また、外套の作りは階級や所属によって異なるとは聞くが、いかった肩幅と金飾りの極端に少ないところを見ると軍服だろう。腰元に提げられた鞘が、目の前の男が軍部の人間であることを語る。
鬩ぎ合う両刃から嫌な音が立った。剣が傾き峰がこちらに迫った。
(まずい──)
「逃げろっ!」
相手の刀身の上を滑るように角度を変えて、レトは飛び退いた。日頃から剣で打ち合う習慣がない彼でも悟った。相手の男は体格のみならず、非常に剣技に優れた軍人だ。元魔を相手するばかりのレトにとって打ち合いは分が悪い。
次元技でケリをつけるしかない、と柄を握りこんだ、が──キールアが逃げ出す気配がしない。焦って背後を振り向けば、彼女は琥珀色の瞳を瞠目したまま、固まっていた。
「──」
その視線は政会の男に注がれており、釘付けとなっていた。一度たりとも瞬きをせず石のようにそこで動かなくなっている。
まさか、とレトは察して、固唾を飲んだ。
「覚えていたか。目の色が異なっていたために、あの家宅の前ですれ違ったときには手を下さなかった」
「……」
「運の悪い」
シーホリー一族の家宅に火を放ち、命と瞳とを奪い去っていった男。見間違えるはずもない。あのときはろくに会話をする余裕もなければ、目が合うほど背丈もなかったが、キールアは正しく記憶していた。
異なる点を挙げるのであれば、たしか、顔にあれほど大きな火傷の痕はなかった。すれ違ったのは彼が家を出てすぐだった。だとしたらキールアらから離れたあとに負った傷なのだろうが、いまの彼女にそれ知る術もなければ興味もないような些末事だ。
「現政会会長フルカンドラ・オークスの命によって、貴殿を連行する。キールア・シーホリー」
男は一歩、キールアに近づいて宣告した。
瞬間。垂れ下がった手元に強い衝撃を覚えて男は仰け反った。長剣が、柄を握る手元ごと空へ向けて打ち上げられていたのだ。大きく脇を開いた男は目を見開き、たん、と足で地面を鳴らす音を耳にする。姿勢を低くしてこちらの懐まで踏み込んでいた少年が、間を置かずに、詠唱した。
「四次元解錠──交輪斬り!!」
重ねた両刃を八の字に薙いで空を掻き切れば、一陣の風が巻き起こった。男に直撃したのを視認すると、レトはなかば乱暴にキールアの手首を引き掴んだ。動かなかった彼女を無理やり立ち上がらせると、森の奥へと一目散に駆け出していく。
「走れ!」
力強い声とともに細い腕を引かれていく。泥に浸かったようだった足元は走っているようで、しかし感覚がなく、彼の声と腕に走らされているのと同義だった。
- Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.120 )
- 日時: 2022/12/30 21:31
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)
第108次元 純眼の悪女Ⅷ
遠くへ飛んだ意識が手元に戻る。キールアは掴まれた左手と、レトヴェールの背中とを順番に視界に入れた。手首がじんじんと痛みだせば、ようやく、彼に連れられてあの男から逃げているのだと理解した。
足元から焦りがせり上がってきて、気を抜けば、遮蔽物に躓いて転倒してしまいそうだ。いくら逃げ隠れしようとも無駄な抵抗のように思えてならず、キールアは前を向いて走れなかった。
レトの背筋に、鋭いものが迸る。背後。猛進してくる獣の気配を察知して、彼は後ろを振り返るのと同時にキールアの身体を腕の中に抱きこんだ。
彼女が驚いて声を上げるよりも先に、突進してきた大型犬が、歯を荒々しく剥いて、レトの腕に喰らいついた。
「──っ」
「! レトヴェールくん!」
レトはぐっ、と眉を顰めた。噛まれた腕で掴んでいる双剣がびくとも動かない。腕を濡らしていく生暖かい血がぼたぼたと音を立てて地面に落ちた。
「走ってここから離れろ」
キールアの耳元で短く囁いて、レトは彼女の身体を緩く解放した。
腰元に指を伸ばし、瞬間、キールアを後ろへ引き下がらせた。一呼吸もなく片方の剣を振り抜いて、大型犬の顔面を真上から叩き斬った。
きゃうと甲高く鳴いて、犬が距離をとる。毛を立たせ、低く唸りながら威嚇してくるそれをレトも睨み返す。
「れ、レトヴェールくん……! でも」
「いいから早くしろっ!」
鋭く尖った刃物のような彼の一喝に、背筋がたちまち粟立った。制されればキールアは唇を引き結んで、零しかけた声を喉奥へ押し戻す。幼子のように簡単に萎縮してしまった身体で、ぎこちなく背を立たせると、足早にこの場を走り去っていった。
「退け」
「……」
「聞こえないのか。邪魔をするな。これ以上は、反逆と見做す」
硬質な声色と、重々しい軍人の足音が近づいてくる。一太刀浴びせたはずだったのは思い違いだったか、傷一つない巨躯──六、七尺は悠にある──が、平然とした面持ちで、大型の犬の隣に立ち並んだ。
反逆。此花隊が政会から支援を受けているのは事実としても、男の言い方には含みがあるように思えた。政会側の目線では、此花隊は所有物の一つとして数えられているのだろう。当然、此花隊にその意識は毛ほどもない。政会から支援を受ける見返りには、次元の力の研究成果報告、そして政会の手の回らない街町村の視察および警備までこちらの機関が請け負っている。ただの研究機関の組員が警備や視察に就くなど本来であれば考えられない事態だが、此花隊は従っている。しかし従順に見せるためではない。
さらに戦闘部班の立ち上げ後、神族や元魔を屠るために次元師を育成し、つい先日には神族の一柱を崩した。この事実を政会がどう受け止めたのか、此花隊の本部内で休息をとっていたコルドの元に、政会の会長から一通の文が届いていた。政会本部まで赴くように命じた厭味な文面だとセブンが語っていた。それからセブンは、コルドが政会へ赴けない理由を淡泊に並べて早々に文を返送していた。
反逆と見做す、とそう告げる目の前の男の瞳には芯が宿っていなかった。楯突かれれば、いまの文句を返すようにでも訓練されているのだろうか。そう疑いたくもなる。
「これより先、我々政会の仕事を邪魔するようであれば。お前一人の行動を組織の行動と判断し、こちらも動く」
しかしながら政会と此花隊が協力体制にあるのは事実であり、両組織に思惑はあれど、均衡は保たれている。いまここで彼らの政策に反するような姿勢を見せれば、此花隊という組織そのものが、政会から厳しい目を向けられることになるのは容易に想像がつく。
レトは黙りこんだ。返答にせずにいれば隙をついて斬りかかってきそうな気迫がしていて、肌がひりひりと痺れだした。彼は一つ丁寧に息を吐いてから、口を開いた。
「シーホリーの血族の根絶、か」
脳裏に蘇るのは、母エアリスの死に際であった。神族と呼ばれる得体のしれない集団の一柱に齎された理不尽な死であった。しかしそれと、キールアの家族を火の海に沈めた目の前の男との区別がどうしてもつかなかった。
神も人も、変わらない。国を、正義を、世界を盾にすればどこまでも非道を往けてしまうのだ。
「それがこの国の政策だったとしても。俺は、理解のできない思想に従う気はない」
レトははっきりと口答えをすると、双剣を構え直し、姿勢を低くして臨戦態勢をとった。
真一文字に結ばれた口を、男はゆっくりと開く。──返答する代わりに、彼は、静かに"詠唱"を口ずさんだ。
「『戌旺』──、強加」
途端。
男に寄り添っていた大型の犬が、肉体を震わせ、めきめきと膨れ上がっていった。膨張は留まるところを知らず、周囲の木々がその肉体と接触すればたちまち、太い幹が音を立てて婉曲した。耐え切れず、木々たちの幹は口を開けるようにぱっくりと割れて、ついには地面の上に倒れこんだ。
生物の像をとった、次元の力──同胞のフィラ・クリストンが有する『巳梅』とは別種の、“生物型”の一種、『戌旺』だ。
(──こいつ、次元師か!)
「戌旺、あの娘を追え」
「!」
『戌旺』は緩慢な動きで地面に鼻を寄せると、くんくん、と鼻先を鳴らした。ほどなくして、『戌旺』は軽やかに空中へと跳ね上がり、レトの頭上に巨大な影を落とした。
レトはその影を逃すまいと、爪先で地面を踏みしめた。すかさず剣を振るう構えをとり、腰を落とす。
「行かすか──!」
「お前の相手は俺だ」
殺気が肉薄する。ぞっ、と背筋に鋭い感覚が走ってレトは身を翻した。真後ろに立たれているかと思えば男は数歩先で、刃渡りの立派な大剣を振り上げていた。
一刻前に背肌で受けた殺気はあの距離から飛ばされていたのか。危機を察しては、なりふりなど構っていられない。男の大剣は次元の力ではなく人の手によって生み出された代物だが、この期に及んで異次元の産物で相対するのを躊躇う余裕がレトにはなかった。
「四次元解じ──」
しかし。一呼吸として間はなかった。一歩。たった一歩で、男は長い脚で跳ぶように懐へ踏み込んできたのだ。
(──速い!)
下から、切っ先で円を描くようにして男は剣を突き上げた。仰け反らせるのが遅れていたら、顔面が真っ二つに切り分けられていただろう。
「……っ、!」
ぐっと片目を瞑りながらレトは飛び退いた。斬られた頬の傷口から血が流れ落ちる。構える間がなかった。いや、息を吸えなかった。かろうじて体を操れたからよいものの、呼吸を許されない間合いで斬りかかられたら長くはもたない。一太刀、浴びせられただけで、肌が理解させられた。
「遅い。そのような甘い姿勢では一太刀も受けないだろう」
武人。完成された肉体。それから叩きだされる圧倒的な速度。体躯に見合った大振りの剣を軽々と掲げた男は、次の瞬間、身を屈めた。
「剣とはこのように振るう」
弾丸の如く鈍い音が轟き、地面が蹴飛ばされる。一秒未満の間。眼前、現れた男の顔面をようやくはっきりと視認したレトは大木を背に縫いつけられていた。肩口に深く、深く、突き刺さる剣の刃。鈍色の光が、血しぶきの鮮やかな赤を照り返した。
- Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.121 )
- 日時: 2022/12/30 21:49
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)
第109次元 純眼の悪女Ⅸ
重い切っ先は、木幹に打ちつけた左肩に深く突き刺さっていた。血と汗の混じったものが地面に落ちる。頭の中がぐわんと揺れ、飛びかけた意識はしかし、まだレトヴェールの手中にあった。
セグと名乗った青年の剣筋にも無駄がなく、技としての純粋な端麗さがあった。カナラ街で偶然出会った長剣を操る次元師。戦士然とした彼と火傷痕の男の輪郭が、レトの頭の中で重なった。
けれども余計な思考は振り払うように、レトは己を鼓舞した。
(感覚を研ぎ澄ませ。思考を放棄するな。──頭を回せ!)
ぴぃ、と甲高い鳴き声が、遥か頭上からした。それを逃さず聞き取ったレトは、間髪入れずに、握っていた剣を真上に放り投げた。
(やけになったか)
次の瞬間。レトと男との間に割って入ってくる黒い影があった。それらはわっと折り重なって上空から落ちてきた。男が剣を引き抜き、警戒して距離をとって見てみれば、黒い影──烏ほどの大きさの鳥たちが衆を成して、レトの足元で一心不乱に地面の上をつついていた。
どくどくと溢れる血を抑えるように左肩を強く掴む。男の目の色が変わると、レトが口を開いた。
「……ガララ鳥はこの木の実を好む。ただし地面の上に落ちたものしか食べない」
エントリアとカナラとを繋ぐ森林に生息しているガララ鳥とは、食用としては一般流通していないが、ここらの街付近では見かけやすい種類の鳥だ。彼らが好んでいるナゴイ──レトがいましがた木の上から打ち落とした木の実──を地面に落ちた実しか食べないのは、よく熟れたナゴイだけが地面に落ちるとされているからだ。1200年以上も昔、南東の島に棲んでいたガララ鳥の祖らが土地の食糧難を喘ぎ、メルギースの地に渡って、完熟していないナゴイを食べていた経緯があった。しかし熟す前のナゴイにはアハラという名の害虫が寄生しており、アハラがあたったガララの祖らは絶滅寸前にまで種を減らした。ガララ鳥は現代まで本能的にナゴイを避けてきたのだ。
なお、現在、この森林で生っているナゴイにもアハラは寄生しているが、1200年前と比べると頭数は激減してきた。人体はもちろん、ガララ鳥にも影響はないと指摘されるが、彼らは慎重を期している。
(……とにかく、ここで奴を通すわけにはいかない。犬が追いかけてったのも気になる。早くしないと)
男を無力化し、『戌旺』のあとを追わなければならない。しかし──。
空気が、ひやりと冷たく、尖る。男は口元を真一文字に結んだまま、大振りの剣を構えて突進してきた。
重い、その一振の斬撃が迫り、レトはすんでのところで飛び退いた。ふたたび豪快な一太刀が飛ぶ。身を屈めた。頭上から叩く動作。背中を丸め横転した。横腹に目掛けて追撃。──双剣を重ねて応対すれば、刀身はかち合い、弾き合う。
剣を落とせばたちまち命も落とす。しかし息つく暇さえ与えられず、足元がだんだんとぐらついてくる。
(──詠唱する暇が、ない。前唱を置かずに発動できるか。一度も試したことがないが、やってみるしか)
呼吸を止める。浅かった。
男の大剣の切っ先が後ろへ下がる。隙を逃すな──と意気込み、息をわずかに吐いたそのとき、男は大きく一歩を踏みこんで、剣は蔑ろに太い脚を振り上げてきた。厳しい一撃がレトの脇腹に入ると、弾かれるようにして彼の身体は吹き飛んだ。
地面に口づけながらけほ、けほとレトは咳をこぼす。あの男、体術にも相当秀でている。鈍器を振り下ろすのと変わらない先の一蹴は、ただ体格に恵まれているだけの代物ではなかった。
狭まった視界の奥から、ゆっくりと男が歩みを進めてくるのが見えた。距離が縮まれば縮まるほど不利だ。大剣の切っ先が、剛脚が、届いてしまう。
いましかない、と、腹に力を入れて跳び起きた。
「真ざ」
眼前。鋭い眼光から殺気。視線に射殺される、と脳が錯覚した頃、レトの頬に切り筋が入った。血潮が真横に吹き出す。勝手に身体は横倒しに傾いて、地面と衝突する寸前で受け身をとった。
もはや、立っているよりも、地べたを這っている時間のほうが長く感じる。ふたたび砂を噛んだ歯の隙間から、血が零れる。頬の切り傷から垂れる血と混じり合って、顎の先からぽたりと、赤い塊が落ちた。
(どっからでも距離詰められるのかよ……あいつ!)
発動できない。隙などない。
次元の力とは、元を辿れば、意思の力だ。意思を確立するために──すなわち、己のうちに眠る力を具現化するために”言葉“を用いる。それゆえに詠唱をしなければ正しく次元技を繰り出すことができないとされてきた。しかし発声は、あくまで力の形を脳に深く認識させ、確実なものにするための保険だ。意識一つで、心ひとつで、脳裏に描くだけで、正確に発動できる次元師が存在するとしたら、それは完全に次元の力を掌握している上級者とされる。
とくに、次元技の解錠時などに用いられる”前唱”を置かずに発動できる者はごく限られているだろう。いまやメルギースの英雄とまでもて囃されているコルド・ヘイナーでさえ前唱を無視できていない。
息を吸って吐き出すにも肺に強烈な痛みが走った。空気が薄い。体力が、単純に、追いついていない。
火傷痕の男はいうと、倒れ伏している無防備なレトにとどめも刺さず、立ち止まっていた。
一目で彼がエポールの末裔であると察した。すでに血族は絶えているものと思い込んでいたが、度々、此花隊に所属している若い男女の次元師が噂になっているのを耳にする。一人は雷を操る少女。もう一人、興味深いのは双剣を扱う少年のほうだ。絹のように細く美しい金の髪、珠玉のごとき金の瞳、滑らかな白い肌。かつて王座に腰かけていた王家の血筋を思い起こさせる容姿を持つ彼の名はレトヴェール・エポールといい、無様にも敵前で突っ伏しているこの少年で間違いないだろう。
消すか。否か。
厄介な芽は摘んでおくに越したことはない。しかし政会とて、いくら訳を並べられるのだとしても同盟組織の人間の命をやすやすと刈り取れるほどの絶対的権威はない。一歩間違えれば両組織の信頼問題に発展する。力を蓄えつつある此花隊に喧嘩を売るには、高くつきすぎる。
わざわざ手を汚さずともこの程度の実力であればいずれ自然と淘汰される。崖から転落したと見せかけて殺害してもなんら問題はないのだが、男は面倒臭さが勝ったのか、そうしなかった。
とかく、キールア・シーホリーを追わなければならない。『戌旺』は摘むべき命を捕らえただろうか。
大剣を肩に担いだ男はレトの横をすり抜ける。態勢を低くし踵を浮かせた、そのとき。
たとえるならば一本の糸。それでいて針のように細く先端の鋭い殺気を感じ取ったのだ。
「五元解錠」
男の脳裏に糸の先端が突き刺さる──否、捉えた殺気が明確な形を持って迫り来た。見れば、倒れていたはずの少年の身体は跳ね上がっていて、構えた双剣で半円を描くように空を切っていた。
「真斬──ッ!」
狙いは足元。脛。横振りに、叩かんと勢いづいた鋼鉄の肌が肉薄すると男はばねのように飛び上がった。刃の先端は男の褐色の肌を、浅いながらも搔き切った。
男が着地すると、レトは口元の泥を拭いながら言った。
「……くそっ、……素早いな」
「……」
「先には行かせねえよ」
冗談を言える余裕はないだろう。男の表情はしかし一変もせずに堅く、眉一つ動かない。体力は底を尽いていたはずが、まだ動く気概でいるらしい少年を叩き斬らなければならない。男は背中の鞘から飛び出した大剣の柄を握ると、ゆっくりと銀の刃が顔を出した。
- Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.122 )
- 日時: 2023/01/08 12:00
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)
第110次元 純眼の悪女Ⅹ
分厚い鋼の一刃が、レトヴェールの細い体を割らんと容赦なく振り回される。彼はその刃先から逃れ、何振りかに一度双剣を充てがい、そしてつかの間に呼吸をするのでやっとだった。
火傷痕の男が弱視であることは、男の右側にもぐりこむたび、彼の的が外れるので確認できた。しかし武人たる男は弱点を突かれたところで動きを鈍らせるような素振りはてんで見せなかった。
が、レトの見つけた弱点は、次第に功を為した。
しばらく剣と剣とで打ち合いを繰り広げる間に、レトは何度か隙をついて男の右側に切り込んだ。見切っている男は回避をする。この攻防が時折あると、レトの中に、ある周期が生み出されるのだ。
技とは繰り返し、繰り返し型をとることで身にしみついてくる。剣技の型など習った覚えもないレトにとってただの打ち合いは体力を奪われるだけの、遊戯と遜色ない。しかし彼は、男の右側の守りが一定の型で築かれているので、そこをあえて攻めるとした。したらどうだろうか。レトの振るう剣は同じ動作を繰り返す。動きに身体が慣れてくると、各段に呼吸がしやすくなる。止まらずとも動いていられる。だんだんと手足が最小限の動きを会得していく。
奇妙な感覚だった。弄ばれるだけだった形勢から一変して、あたりの木々や草花で翳った視界は澄み渡り、剣を握る手指の感覚は研ぎ澄まされていくようだった。
とはいえ、相も変わらず次元技を発動させる暇はない。息はしやすくなったものの、悠長に詠っていられる隙を作るにはまだ壁が厚い。男の剣術はなかなかに易しくなかった。
男の大剣がごうんと低く唸った。横凪ぎの一刀が、残光を引きながらレトの首元にかかったのだ。銀色の切っ先が柔らかい首肌を引っ掻いた、その瞬間だった。
脱兎のごとく森林から飛び出してきた巨大な影を目にする。影の実態は白く巨大なもので、情けなく眉間を皺を寄せた『戌旺』だった。『戌旺』は主人の姿も忘れたのか、火傷痕の男に向かって突進し、ついには男に覆い被さった。過剰に鼻をひくひくと痙攣させながらぐったりと伸びている。
レトがびっくりして目を見開いていると、『戌旺』が飛び出してきた茂みから、声が飛んできた。
「──レトヴェールくん! こっち!」
状況が飲み込めなかったが、迷っている余裕はなかった。素早く双剣を鞘に納めると、レトは茂みに向かって駆け出し、キールアの手を取ってそのまま走り出した。生い茂る木々の陰の下にできた、深い暗闇に紛れていく。
目指す先はまず、カナラ街の方角だが、カナラに留まらせる気はなかった。さらに北西を往けばウーヴァンニーフとトンターバの境界、山脈地帯の麓に入る。幾晩かかけて麓を抜け、トンターバに辿り着きさえすれば、ルーゲンブルムへと渡る船を捕まえられるだろう。
ルーゲンブルムは先刻までアルタナ王国との関係不和があり、国内も荒れていたが、両国の王家同士が先月婚姻の儀を執り行っている。両国の水面下の争いは減りつつある頃だろうとレトは見ている。まだ反対派の活動は鎮火しきっていないだろうが、じきにそれも収拾がつく。逆に身を隠しやすい時期かもしれない、と睨んでいた。
できるだけ舗装されていない──簡単に足がつかなさそうな──道を選び、レトは先を急いだ。レイチェルと隣接しているとはいえ熟知しているほどではない。多少の右往左往はあった。キールアといえば、黙って手を引かれているから、彼の選ぶ道を信頼しているらしい。幸い、キールアの足はほかの年頃の少女よりも森中や山道に慣れているし、そうそう根を上げなかった。
森中には、北西の山脈から南にかけて流れているテンハイトン川から枝分かれした小川が、いくつか流れている。そのうちのひとつに行き着いた2人は、あたりに人の気配があるかを探ってから、しばしの休息をとるとした。
軽く喉を潤したレトは、たまたま通りかかった野兎を狩って、下処理をしていた。動植物が豊富な環境下でわざわざ携帯食料を消費するまでもない。それに動物の開き方は、まだレイチェル村に住んでいた頃、祭りで村の男から習った覚えがあった。
下処理を済ませると、レトはあたりを見回して、キールアを探した。彼女は川の傍らに腰を下ろして、水を掬っては口をつけていた。
キールアが、レトのいる場所まで戻ってくれば、彼は早速、兎の肉に串を通して火にかけていた。
どこで見つけてきたのだとか、長居はしていられないだとか、二言三言交わし合ってそれから、沈黙が生まれる。
ぱちぱちと火花の音が立つ。ゆらり、曲線を描いて昇る火の糸をぼんやりと眺めながら、外気にさらされた両腕をさすっているキールアの肩に、レトは隊服の上衣をかけてやった。
肩に暖かくて重たいものがのしかかって、キールアがはっとレトのほうを見た。
「なんで戻ってきた」
見れば、彼の横顔は静かにそう告げていた。
それにどうやって。レトの目に疑問の色が滲んでいるのを察したキールアは、長くは見ていられないのか、すぐに目を逸らして話しだした。
- Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.123 )
- 日時: 2023/01/22 12:00
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)
第111次元 純眼の悪女ⅩⅠ
次元の力『戌旺』に追跡されていると勘づいた。追いつかれるのも時間の問題だ。策を講じなければ捕らえられるか、最悪その場で噛み殺されてしまうだろう。
だから、とキールアがもったいぶって次に口にしたのは、意外にも植物の名前だった。
「マナカンサスを探したの。レイチェル村で住んでたときに、ここの森でも育つのかなって、なにも考えずに植えたことがあったから……。あとでお母さんに話したら、ここの森の環境じゃ上手く育たないよって、叱られたけど」
「たしか、火で炙ると、独特な強い薫りが立つっていう」
キールアは無言で頷いた。2年前、まだ薬草について知識の浅かったキールアが、この森の中にいたずらに種を植えたマナカンサスがあった。運よく進路の近くにあるのを彼女は思い出したのだ。巨大な体を持つ『戌旺』が入りこめないような、狭くて複雑な獣道をわざと選びながら、わずかな希望に賭けてマナカンサスを目指した。植えただけの数は育たなかったようだが、子どもが迷いそうな茂みの中にそれは鮮やかに咲いていた。マナカンサスが育つ本来の環境とは異なるため、花弁も葉も小さいし、茎も短かかったが、キールアを満足させるには十分だった。
進路を限定すれば、『戌旺』の目を撹乱し、さらに遠回りさせられる。次に狙うのは嗅覚だった。ただ奪う、狂わせるだけでは意味がない。
『戌旺』が次元の力であれば、『戌旺』が活動できるのはすなわち、術者も動ける状態にあるのだ。だとしたら、レトヴェールと術者──あの火傷痕の男との戦闘が続いている証拠だ。
キールアはまず上衣を脱ぎ、マナカンサスから一枚だけ葉をちぎっておいて、あとの花弁や葉、茎を上衣に包んだ。布の表面に、手持ちの薬用の馬油を軽く塗りこんでから水辺近くの茂みに仕込む。次に茂みからかなり距離をとって、軽く火を焚く。ちぎっておいた葉を炙って煙を浴びた。十分に浴びたら、適当な石をくくりつけた枝先に点火する。最後に、火元を足でもみ消した。
ここが正念場だ──決意を固めたキールアは大木の根元に身を隠し、やがてやってきた『戌旺』を視界の先に捉えた。『戌旺』は黒ずんだ鼻先をすんすんと地面にこすりつけながら、近くまで歩み寄ってくる。見上げるほどの巨躯に、肩が震えて固まる。恐ろしい見た目に変わりはない。しかし、恐れている場合ではないのだ。
『戌旺』は、上衣を隠した茂みに寄っていく。なにせキールア本体は炙ったマナカンサスの煙を浴びている。キールアの目論見通り、彼女の衣類に引き寄せられた『戌旺』が、茂みの中へ顔をうずめた、瞬間。彼女はいまだ、と、着火している枝つきの石を茂みに向かって投擲した。空中でくるりくるりと旋回した枝先が、やがて茂みに着地すると、瞬く間に茂みを包むように火が立った。マナカンサスは火に炙ればたちまち強烈な薫りが立つ植物だ。煙を被っただけでも薫りを発生させるそれが、嗅覚の優れた犬型の生物に無効なはずはない。
マナカンサスの激臭を吸い込んだ鼻が天高く突き上げられ、頭を大きく振り、じたばたと『戌旺』は暴れ始めた。固唾を飲んで見守っていれば、『戌旺』は足元を踏み荒らしたあと、巨体を翻して一心不乱にどこかへと駆け出してしまった。
おそるおそる大木の裏から顔を出したキールアは、はっとした。
(術者のもとに帰るんだ!)
燃え立つ茂みの火の手がこれ以上回らないうちに、キールアは水辺に足首まで浸からせ、ばしゃばしゃと水をひっくり返して消火した。『戌旺』の巨大な足跡を追って辿り着いた先では、やはり、レトと火傷痕の男が相対していた。
レトは一部始終の説明を受け終えた。感心する反面、危険を顧みない彼女の行動に、少々の不安と苛立ちとがくつくつと腹の底から煮え立ってくるのを感じた。眉をひそめ、苦々しい顔で彼は言った。
「向こうは普通の飼い犬じゃない。次元の力だ。下手すれば食い殺される。たしかにどの道、策は考えるべきだけど、お前のしたように道を選びながら森を抜ければそれだけで十分だった」
「でもだってレトヴェールくん、危なかったじゃない!」
キールアが、めずらしく間髪入れずに、はっきりとした声で反論してきたのでレトは目を丸くして彼女の顔を見た。
『戌旺』がなかなか扉を閉じないうえ、術者のもとにも帰らないので、キールアは心配でたまらなかった。『戌旺』のあとを追って道を引き返した先で、レトの首に剣の切っ先が差しかかっているのを目撃したら、いてもたってもいられず、声をかけていた。
返す言葉が見つからず、レトはしようがなく黙った。「心配するな」「余計なお世話だ」「あとから追う算段はできていた」──堂々と虚勢を張るには十分な文句があったのに、できなかった。図星をつかれていたのだ。
「……悪い」
息を詰め、言葉を探し、ようやく唇からこぼれ落ちたのは、そんな情けない声だった。キールアは、思いがけない彼の弱音にどう返したらいいか迷った挙句、「ううん」と小さくかぶりを振った。
レトがふいに仰いだ空はまだ青かったが、彼はきつく眉根を寄せた。すばやく火元を消して、荷物をまとめ始める。
森林では、日が傾き始めてから暗くなるまでが早いし、日が落ちればあたりは深い闇に包まれてしまう。身動きが取れなくなってしまえば不安が募り、緊張状態が引き延ばしになるだけだ。
「日が落ち始める前に動くぞ。とりあえず、お前をカナラに送り届けたらあとは指示をする。俺は引き返して、隊と政会連中に上手いこと話を通す」
「……」
キールアは頷くとも、返事をするともなく、その幼い顔に暗い影を落としていた。頼み事はなかったことにされたのだろうか。跡形も残さずに殺してほしい、などと背負わせようとしたのが、愚かな考えだったのか。彼女の瞳にはほとんど生気が宿っていなかった。
日没までに森を抜けなければと気負いすぎたのだろう、レトは途中の分かれ道で、行き先を誤った。大地が緩やかに盛り上がっていくのを訝しんではいたが、しかし引き返している余裕がなかった。しまった、と後悔したのは、進路を断つように切り立った絶壁の崖の上に立たされてからだった。
崖下を覗けば、遥か下方ではテンハイトン川が立派に幅をもたせてごうごうと流れていた。
「……こっちじゃなかったな。悪い、途中の分かれ道で道を誤った」
「大丈夫。じゃあ、戻ろっか」
向こう岸で青々と茂っている林道はまだ、日に照らされて白く光っている。2人が踵を返した途端だった。来た道の方向からひやりとした殺気が飛んできたのだ。外気とはちがう寒気が足元から背にかけて肌を逆撫でした。
「その娘を引き渡せ」
火傷痕の男は林の陰から現れると、威圧的な低い声で、レトに言った。
無駄な争いはしないよう体裁を整えるため、あえて剣を抜いていないのだろうが、そのじつ男には隙がなかった。側に控えさせている『戌旺』も身体の大きさは元に戻っているものの、歯を剥き出しにして低く唸っている。くれてやったマナカンサスの激臭はすっかり抜け落ちたのだろう。足がつかぬような道を選んできたのに、短い時間で距離を縮めてこられたのはそのせいだ。
男を睨みながらレトは、頭を回さなければならなかった。背後には崖。すでに足が竦んでしまっているキールアを抱えて男の脇をすり抜けるのは厳しすぎる。身体をひとつでも揺らせば男は鞘に手をかけそうな剣幕である。
ぐちゃぐちゃと絡まってほどけそうにない思考の奥に、ふと、レイチェル村の田園風景が広がった。
レイチェル村に突然襲来した、翼竜型の元魔。たくましい翼をたたえた化け物の出現はまだ幼いレト、ロク、キールアに恐怖を与えた。元魔が襲いかかってくると、レトは咄嗟にキールアを背後に隠したのだった。何を考える余裕もなかったのにそうした。田園風景は、霧が晴れるように白々と開けて、するとキールアの母──カウリアの顔が浮かんできた。
頼んだよ、とカウリアはただひとつそれだけをレトに託したのだ。
「キールア。殺される覚悟があるんだったな」
名前を呼ばれて、キールアは気の抜けたような声で、え、と口からこぼした。
「跡形もなく殺してやるよ。お前の望みの通り」
言われるやいなや、キールアの肩をレトが抱いて引き寄せた。男の指先が鞘に伸びる。同時に足が浮く。それよりも早く。速く。レトの足は地面を蹴って跳び上がっていた。
身体が宙に浮いて、緩やかに頭が傾きかけたときに、キールアは川の香りを吸い込んではじめて、崖から落下しているのだと理解したのだ。
眉一つ動かさなかった男が、細い目を大きく開いて、初動作を完全に止めてしまったのに、レトたちはそれを見るまでもなく崖下に消えた。
レトは腰元の鞘から一本、すでに抜刀していた。テンハイトンの水流は勢いづいており、岩壁から白いしぶきが跳ね返っている。しかし崖の上から覗いたときに余計な岩やほかの遮蔽物はほとんど見えなかった。無事に着水してしまえばあとは水の流れに身を任せられる。目下の問題はただ一つ。着水するまでの距離がもうない。一秒、二秒が生死を分けるだろう。
「できるだけ息を吸え!」
レトは大きな声で言って、天高く、剣を振り上げた。右腕の中で抱きこまれているキールアは言われるがまま胸と腹に息をためた。
川面が、すぐそこまで迫る。
前唱を唱えている時間はない。レトは覚悟に満ちた目をしていた。
「真斬──!!」
脳裏に描くは、五等級の厚い扉。血管内の元力が脳から左手指まで、一直線上に沸き立った。縦一線。銀の刀身が振り下ろされれば、白い真空波が唸りをあげて川面を叩き割った。瞬間、水面から太い首が伸びて、大きな弧を描く。すかさずレトは息を吸いこんで、抱きかかえたキールアとともに、透明な水柱に身を投げ入れた。
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