複雑・ファジー小説

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あなたを失う理由。 完結
日時: 2013/03/09 15:09
名前: 朝倉疾風 (ID: kWFjr3rQ)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/

どうも 朝倉疾風です。





性描写などが出てきます。

嫌悪感を覚える方はお控えになってください。



主要登場人物>>1

episode1 character>>4


episode2 character>>58


episode3 character>>100


episode4 character>>158



小説イメソン(仮) ☆⇒p


《episode1》
・まきちゃんぐ / 煙
   htt☆://www.youtube.com/watch?v=kOdsPrqt1f4


《episode2》
・RURUTIA / 玲々テノヒラ
   htt☆://www.youtube.com/watch?v=wpu9oJHg2tg


《episode3》
・kokia / 大事なものは目蓋の裏
   htt☆://www.youtube.com/watch?v=LQrWe5_q6-A


《episode4》
・Lyu:Lyu / アノニマス
   htt☆://www.youtube.com/watch?v=lSFYtyxojsI


執筆開始◎ 6月8日〜



Re: あなたを失う理由。 ( No.72 )
日時: 2012/08/07 16:00
名前: 朝倉疾風 (ID: FZws4pft)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/


「いもーとってミチルのこと嫌いだよね」

 ミチルさんが帰った後、突然兄さんがそんなことを言った。 言っていること自体は単純なんだけど、その真意がわからない。
 テーブルに残された、さっきまで3人で飲んでいたお茶のコップを片付けながら、わたしは彼から目を逸らす。

「まあ、だから俺はミチルを好きなんだけどね」

 わたしの答えを待たずに兄さんは自己完結して一人で楽しそうだ。
 このくらいでわたしも動揺するな。 兄さんはわたしの反応を見て楽しんでいるだけなんだから。
 気づかれないように鼻で深く息をして、動揺を悟られないように普通のトーンで言う。

「兄さんのことも嫌いだけどね」
「知ってるよ」

 すべてを見透かしたような目が、わたしを捉える。

「いもーとの考えていることはわかるよ。 わかりやすいしね。 何を好いているのか、何を嫌っているのか、何に無関心なのかも。 だからいもーとは俺に隠し事ができない」
「他人の心を踏みにじるのは、兄さんの得意分野だもんね」

 精一杯の嫌味だった。
 これくらいの嫌味で兄さんが傷つくわけがない。 わかってはいるけれど、また何も考えずに言ってしまった。 わたしも懲りないな。 兄さんに口喧嘩で勝ったことなんて1度もないのに。
 ソファで寝転んでいた体勢から上半身を起こして、兄さんが首を傾げる。
 不思議そうに。
 本当に不思議そうに。

「何を言っているのやら。 俺が傷つけたいのは、いもーとだけだよ。 誰でもいいってわけじゃあない」
「バカね兄さん。 わたしはもう何をされても、言われても、見ても、聞いても、感じても、傷つかないよ」

 嘘は吐いてない。
 わたしにとっての最大の“弱点”を、この人はまだ知らないのだから。
 怪訝そうな顔。 こうして見ると本当に子どもみたいだ。 わたしが何を言ったのか理解できないのか、受信ボックスの無い言葉の真意は脳内でゴミ箱に捨てられて、「あーあーあーああーあー」誤作動を起こした兄さんの脳が、また壊されて再建築される。
 目をパチパチさせて、それが落ち着くと首をコキリッと鳴らした。 人差し指をわたしに向ける。
 にへらっと力のない笑顔も。

「やっぱり俺、いもーとのこと大嫌い」

 その時。
 ポケットに入れていた携帯電話がルルルルと鳴った。 振動が太ももに伝わってくる。 濡れた手をタオルで拭いて画面を見ると、見たことのない番号からだった。

「はい、もしもし」

 向こうからの返事はない。 けれど微かに雑音がする。 車の通る音……誰かが泣いている?
 鼻を啜る音がしてひくついた声がわたしを呼ぶ。

『わ……笑日ちゃ……』
「── 潮音?」

 電話は潮音からだった。
 いったい何があったんだろう。
 声は震えていて、息は荒い。 全速力で走ったのだろうか。

『は……っ、し、たい……笑日ちゃ……ごちょうめ、死体が、した』
「落ち着いて、潮音。 ゆっくり話して」
『し、した……女の、死体、死体があって……ひっ、笑日ちゃ……』
「潮音?」

 ガシャンッと大きな音がする。 遠くで潮音の泣き叫ぶ声が聞こえた。 携帯を落としたのか? 
 いや、待てよ。 いま死体って言った?

「潮音、いったん電話切る!」

 絶対に聞いちゃあいないんだろうけど。 電話を切って、麻央の番号を探す。
 指で携帯を動かしながら麻央の携帯に電話をかけ、その間に財布を持って玄関へ向かう。

「あ、麻央? 麻央っていまから潮音の家に行ける?」
『行けますけど……何かあったんですか』
「さっき潮音から電話があったの。 もしかしたら過呼吸になってるかもしれない。 えっと……5丁目って言ってた」

 あー靴が上手く履けない。

『5丁目は麻央と潮音の家の近くですが……』
「とりあえず5丁目に行って! 落ち着いて聞いてほしんだけど……死体があるって言ってた!」
『死体……?』
「わたしにもわかんないの! とりあえず潮音を探して! 今からわたしも行くから」

 片手でなんとか靴を履き、 2回転びそうになりながらもなんとか自転車にまたがる。
 ポカンとした顔で玄関から出てきた兄さんと目が合った。

「兄さん、緊急事態だから。 ちゃんと一人で夕御飯作って食べてて」

 返事を待たずに自転車をこぐ。 あー暑い。 心臓もバクバクいっている。
 隣町。 死体。 頭によぎるのは嫌なニュース内容ばかり。
 連続婦女暴行でついに死者が出てしまったのだろうか。
 いやそんなことよりも気になるのは……。

「潮音……っ」






 麻央から特定の場所に来て欲しいとメールがきたのは、電車で隣町の駅に着いて数分後だった。
 まだ夕方だというのに人が少ない。 もともと辺鄙な町だからかもしれないけれど、いやでも目に付く電柱に貼られたポスターがその理由だった。

「犯人はまだ見つかっておらず……か」

 連続婦女暴行事件。 正確には愉快犯による猟奇的事件なんだろうけど。
 千隼くんが言っていたことを思い出すと、こうやって町全体で警戒するのもわかる。 今まで3人……いや4人だったか。 若い女性が狙われてるんだから当たり前だ。
 潮音が見つけた死体が、もし5人目の犠牲者だとしたら……。

「笑日ちゃんっ」

 気がつけば、わたしはそこにいた。 麻央にメールで伝えられた場所。
 こじんまりとした飲食店が並んでいるが、シャッターを閉めている店も少なくない。 こんなに早くに、夏休みといえど平日だから定休日というわけではないだろう。
 マナーのなっていない人が捨てていった空き缶やダンボール。
 そこには既に警察がいて、隣の飲食店のお客だろうか、人だかりもできていた。
 名前を呼ばれて我に返ると、麻央がわたしの手を握っていた。 ひどい顔だ。 泣いていたのだろうか。

「麻央……潮音は……?」
「過呼吸になってて近くのお店の人が潮音を見つけてくれたらしいです。 救急車でさっき運ばれました。 それで……潮音の近くに、例の、暴行事件の5人目の被害者が……」

 顔が真っ青になっている。 まさか麻央は被害者の姿を見たのか。

「潮音は死体って言っていたらしいですが、生きているらしいです……。 きゅ、きゅしゃで運ばれました。 潮音が混乱していただけかと……」

 とりあえず潮音と被害者は救急車で病院に運ばれたらしいけど、麻央が震えながらわたしにすがりついているので、このまま帰ることもできない。
 わたしの服の裾を握り締め、唇が震えている。 顔色も悪い。

「麻央……? なんか麻央も変だよ。 これくらいのことで取り乱すなんて、麻央らしくない」

 これくらいのこと、と言うと今起きていることが重大ではないことのように聞こえるが、実際、麻央なら何があっても取り乱さないようなのに。 肝が座っているのだ。 冷静沈着で、水面下のようにつめたく静かに達観して傍観している麻央が、頼りなく震えている。

「いえ……なんでもありません。 ショックなだけです。 それに潮音もこういう形で事件に関わってしまったから……」

 これだけ人が自分の周りで襲われている。 ましてや自分の友人はその第一発見者になってしまった。 ショックなのも無理はない。
 わたしだって潮音が発見者として事件に関わってしまった以上、無視していられない。 
 そうだ、もともとこの事件には興味があったんだ。
 好奇心。
 私の中で膨らんで制御ができない感情。
 犯人が誰なのかなんてどうでもいい。 どうして自分自身で欲を満たさないのか。 どうして文房具を入れるのか。
 ── 最後のは趣味としか言い様がないかもしれないけど。 変態の気持ちは変態にしかわからないし。

「麻央。 わたしは別に警察でも無いし、刑事でも探偵でもないから、捜査とかたいそれたことはできない。 犯人が誰なのかは興味が無いし、捕まえられるなんてたいそれたことできるわけないんだけどさ」

 怪訝そうに麻央が顔をあげる。
 潮音に関しては好奇心で近寄るなと言われたけど、この事件に関してはお咎めを受けていない。

「ヒーローにならなれると思うんだよね」


 

Re: あなたを失う理由。 ( No.73 )
日時: 2012/08/10 17:53
名前: 朝倉疾風 (ID: FZws4pft)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/



 以下、ヒーローとサブキャラに成り下がりそうな悪役のお話。

「あー、やぁっぱり家にいるんですね。 その様子だと眠っていらっしゃいましたか」
『いや……まあ、数分前に起きたな。 寝起きやわ』
「そうですか。 ……潮音が今どこにいるかわかりますか」
『なんや、偉ぅ急やなぁ。 潮音ならさっきまで部屋で寝よったで』
「話通じてないんですかね。 今、と言ったんですが」
『そんなん俺がいちいち知るかい。 ていうか、いもーとちゃんはなんで俺の携帯の番号知ってんねん。 流鏑馬にでも聞いたんかいな』

 兄さんの携帯からミチルさんにかけたとき、ミチルさんの電話番号を確認して覚えていたから、とは言わなかった。
 ミチルさんの質問を無視する。

「潮音は今病院です。 病院側から何も連絡は入っていませんか」
『あー……さっき家の電話がなっとったわ。 俺、それで起きたし。 まあ取れへんかったけどな』
「潮音を心配してはいないんですか」
『俺にあいつの心配してほしいんか? ああー……めちゃくちゃ心配やな。 心臓がズキズキするくらい心配やわ。 ……これでええか?』
「ふざけてますか」
『大マジや』

 電話の向こうでクスクス笑う声が聞こえる。 何が面白いのかわたしには全然わからない。
 しばらくして笑い声は止み、深いため息が聞こえた。

『真面目に言うてるで。 俺はあいつを失うんが一番怖い。 考えるだけで今にも発狂しそうや。 無関心を装うだけでいっぱいいっぱい……ダサイやろ、なぁ』

 賛同を求められても困る。 わたしは失うことが怖いならずっと手元に置いておくだろうから。 わざわざ無関心を装う必要もないと思うけど。
 失うのが怖いなら離さなければいい。 ずっと大事にしていればいい。 どうしてそれができないのかがわからない。

「その気持ちはわたしにはわかりません。 どうしてミチルさんが潮音に関心を抱こうとしないのかも。 病院に行ってあげてください。 潮音のこと、ちょっとは気にかけてください」

 一番辛いのは関心すら持たれないということ。 好きだの嫌いだの言っているうちはまだいい。
 けれど、自分の心から存在を除外されることほど辛いことは無い。
 嫌いなら、まだその存在を受け入れいられていることだ。 どういう形であれ、どういう感情を抱かれているのであれ、他人の心に残れるのならまだ幸せだろう。

『── 潮音は俺を俺を見たら怒鳴るんや』
「怒鳴る……?」

 普段の潮音からは想像もできない。 けれど、一度豹変している潮音を見ているから、潮音の情緒が不安定だということはわかる。

『俺が好かんのやろ。 潮音も……あいつらも……俺が目障りなんやろ』
「── どうしてそう思うんですか」

 あいつらが誰かは、聞かなかった。
 電話越しの声は弱々しく、いまにも泣き出しそうでこっちが緊張する。 普段がああいうノリなだけに、重々しく感じさせられる。

『俺が……母親を殺したけんや』






 電話を切る。 一方的に。
 自分でも狼狽えるほど心臓がドクドクと高鳴っていた。 辺りを見る。 人が少ない電車の中。
 本当は電話はマナー違反なんだけど、空いている席のほうが多いから注意はされなかった。
 あの後、麻央とはいったん分かれて潮音がいる病院の名前だけを聞いて家路に着いている。
 窓の外は既に茜色で電車内をオレンジ色に染めていた。 不安を掻き立てられるようなその色が視界に入らないように俯く。
 考えるな。
 そう思っても頭で反芻するのはミチルさんの言葉。


 ── 俺が……母親を殺したけんや。 冗談やない。 俺が殺したようなもんやったんや。



 確か、潮音の母親はずっと前に事故で亡くなっているはず。 どうしてミチルさんは自分が殺したと思い込んでいるんだ。
 それと潮音に関心を抱かないことになんの繋がりがあるんだ。

「あーもう、わっかんないなぁ」

 大きい声でそう言い、頭にかかるモヤを取り払う。
 今回もヒーロー役を買って出たんだけど、グダグダ感が半端ない。
 課題はあと少しで終わるようなそうでもないような気がする。 あー今日って何日だっけ。 夏休みだと曜日感覚が狂ってしまって困る。
 仕方がない。 ヒーローの本領が発揮されるまでは家で大人しく残りの課題でもしていよう。 あと、兄さんに絶対に見つからないように大瀬良くんにも会いに行こう。
 いま、彼は何をしてるんだろう。

「── あのバイトしてたらいやだなぁ」

 そう思うとけっこうヘコむ。 そして怒りと殺意が湧いてくる。 どこの誰かが大瀬良くんにそんなことを強要させているのかわからないけど、絶対に大瀬良くんは嫌なはずだ。
 そこまで考えて、わたしの意識は大瀬良くんから潮音のほうに戻った。
 今考えるべきは、潮音のことだ。 大瀬良くんはこの件が終わった後にでも会えばいい。 わたしには時間があるのだから。

 アナウンスが聞こえて立ち上がる。
 握り締めた切符はくしゃくしゃになっていた。
 電車から降りて駅員に切符を手渡し、夕暮れの空の下を自転車を押しながら歩いて帰る。
 今はゆっくり歩きたい気分だった。 後ろに影が伸びてわたしの身長を追い越す。 それを見ていると影に身体を侵食された気分になった。 自転車が重い。 これくらい持てなくてどうする。 ちゃんと歩け、わたし。 ちゃんと潮音のことだけ考えろ。
 あの子は弱いのだ。 弱い癖にそれを自覚していないのだから、なおタチが悪い。 頼ることをせず、一人で抱え込んでいてその重みに耐え切れずに潰れてしまう。
 それなのに人を気遣って遠慮している。 遠慮……その気持ちもわからなくはない。 ミチルさんがあんな状態なら、潮音だって頼れなかっただろう。
 潮音に何かあった。 これは間違いない。 それを打ち明けられないのは……記憶から忘れてしまっているのは、一種の障害だとする。
 なら、なにがあった? 潮音をあそこまで怯えさせる出来事……。
 母親が事故死したのが理由なのだろうか。 それでもあそこまで錯乱するものなのか……。

 母親を、殺した。

 さっきもミチルさんの言葉からして、直接的ではないだろう。 間接的に母親の死に関わってしまった。 ミチルさんはそれを悔いている。 潮音はそれを知っていて、だから言い出せなかったのか?
 ミチルさんが母親の死に縛られているから、潮音自身のことを打ち明けられないのだとしたら。
 もう重荷を背負わせられないと、遠慮しているのだとしたら。

「いや……違うでしょうが」

 違う。 違う、違う、違う。
 そんなんじゃない。 さっきミチルさんは言っていた。 潮音がミチルさんを見ると怒鳴る、と。 それが潮音にとっての拒絶なら、潮音はミチルさんを憎んでいるのかもしれない。
 それが意図的で無いにしろ、直接的で無いにしろ、母親を殺したミチルさんを。 潮音にとって彼は嫌悪すべき存在なのかもしれない。
 でも……それを潮音は表に出さなかった。 ミチルさんに連絡をとったと言っても、特に何の反応もなかった。
 やっぱり引っかかるのは潮音の豹変ぶり。 別の潮音がいるとしか考えられない。

「………………………………」

 別の、潮音……?

 足を止める。 心の中でザラリとした何かが触れた。 焦りにも似たその感情は、暴れながら大きく広がる。
 何かが引っかかる。
 気持ちが悪い。 吐いてしまいそうだ。
 でも、あるひとつの可能性が頭いっぱいに浸透していく。

 もし、もし潮音が潮音ではなかったとしたら……。
 潮音ではない誰かがいるとしたら……。

 撫でるような生暖かい風がわたしの髪を揺らす。 冷めることのない焦燥感。
 わたしは、潮音の心の脆さを甘く見すぎていたかもしれない。






 シズと名乗る人物から連絡がきたのは、その3日後だった。

Re: あなたを失う理由。 ( No.74 )
日時: 2012/08/12 15:33
名前: 朝倉疾風 (ID: FZws4pft)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/



 多重人格。
 本人とって耐えられない状況から、心のダメージを回避しようとするため、切り離した感情や記憶が成長して別の人格となって表に現れる障害。 byウィキ○ディア

 ぐるぐると頭に多重人格の情報が流れてきて、頭痛がしてきた。 汗もダラダラ出てくる。 夏期講習の無い日の真昼間から、中央公園のベンチに座って蝉の五月蝿い鳴き声をBGMにしている真っ最中なんだけど、えらく暇だ。
 腕時計を見る。 時間は待ち合わせ時刻より3分過ぎていた。 時間にはルーズな方だし、5分、10分相手が遅れても特には気にしないんだけど、こうも暑いと時間云々より暑さに逆ギレしたくなる。 もうやだ。 泣きたい。 ていうか暑い。 さっきから何回も主張してるけど、暑すぎる。 うわー泣きたい。
 けれど涙ごときに体の水分を体外に放出してたら、絶対に干からびるだろう。 意味は色々違うだろうけど、節水を心がけているわたしとしては節約でお金を出すことなど惜しまない。 もう我慢ならん。 自販機でジュースを買おう。 120円を使うのも躊躇われるけど、暑いのは仕方がない。
 辛抱ならずにベンチから立ち上がろうとして、「…………」 止めた。

 目の前に、待ち合わせをしていた相手が来ていた。
 腰以上ある黒髪に、この暑さの中でも焼けていない白い肌。 淡いピンク色のワンピースを着ており、その服装のせいか年の割には幼く見える。 麦わら帽をかぶっており、水色のリボンがだらしく垂れ下がっていた。

「いまは……どっちですかね」
「俺だ」

 容姿と声質にまったく合わない口調。
 わたしの目の前に居るのは、確かに十八公潮音のはずだ。 正真正銘、十八公潮音だ。 それは絶対に変えられない事実で、絶対に覆せない現実で。

「── どうも。 会うのは久しぶり……ですかね。 駅で一回お会いしただけですよね」
「あー……。 だな」

 ── どうしよう。 妙に緊張する。 
 何度でも言うけど、目の前に居るのは確かに潮音だ。 けれど、潮音じゃない。 そう説明されたけどいまいち実感が無いし、受け入れることは容易ではない。 ましてや長年の友人が、いわゆる 「多重人格」 だと言われたらショックも大きい。
 そうじゃないのかと疑ってはいたんだけど。

「なあ、ここ暑ぃからファミレスとか入んねえ? 蝉もうっせぇから声もあんま聞こえねえよ」
「あ、そうですね」
「あとタメ語でいい。 鬱陶しいし、他の奴らが変に思うだろ」
「わ、わかった」

 3日前に電話をもらったときは、潮音の悪ふざけかとも思ったけど、こうしてみると別人すぎて感心すらしてしまう。
 さっさと歩いて行って公園から出ると、くるりとこちらを振り返って、

「俺、ここらの場所知らねえわ。 笑日、どっかファミレス無ぇの?」




 店内は相変わらず賑わっていた。 ざっと見ると今日は学生が多い。 ドリンクバーでわたしはオレンジジュースをコップに注ぎながら、既にメロンソーダを飲み干している、シズと名乗る潮音を見た。 ……もうシズでいいか。 なんだかややこしいし。
 コップを持ってテーブルに戻る。 向かいでメロンソーダをズズズズと飲んでいるシズがわたしの視線に気づいたのか、不満そうな顔をした。

「ジロジロ見てくんな。 うぜえ」
「ごめん……えっと……まずは自己紹介してもらっていいかな」
「自己紹介だあ?」

 すっごく嫌そうだ。 でもわたしだっていきなりこんなことになって驚いているのだから、自分のことくらい話してもらわないと困る。

「だって、シズはわたしのことを知っているみたいだけど、わたしはシズを知らないし」
「あー……まあそうだな。 確かにそうだった。 んじゃ、自己紹介な」

 シズが長い髪を耳にかける。 鬱陶しそうだ。

「名前はシズ。 あー、本名はちゃんとあるから。 年はハタチ。 あんま気は長い方じゃないな」

 なんだろう、この気持ち悪い感覚。 声も容姿も潮音だから戸惑ってしまう。 演技かもと思っていたけど……演技やなりきりでここまでできるのか。 どんな痛い子だよ。

「いつから潮音の中にいるのよ」
「潮音が13歳のときだ」
「自分が多重人格だっていう自覚は潮音にあるの?」
「無い。 あいつが“俺”になってるときの記憶は、あいつには無いし、俺の存在も知らねえよ。 俺はあいつのしていることは全部わかるんだけどな」

 それで記憶が曖昧だったのか。 潮音からしてみれば自分が何をしていたのか思い出せないのは、さぞかし不安だっただろう。

「シズは……どうして生まれたの?」

 一番気になるのは、やっぱりここだ。 シズの生まれたわけ。
 多重人格なんて誰でもが好き好んでなるわけじゃない。 一番思い当たるその原因は、虐待。 虐待が原因で多重人格になるといったケースは、わたしもテレビ等で知っている。
 ゆっくりと、シズがスプーンの先をこちらに向けた。 彼の目もまっすぐにわたしを見ている。 逸らすことはできない。 真っ黒に吸い込まれそうなこの感覚は、大瀬良くんの瞳と似ている。 そうだ、彼と同じ。 このどうしようもなく何かに絶望しているような目。 わたしには無い、瞳の色。

「お前にも兄がいたよな。 あいつは優しいか」
「は?」

 いきなり話が変わって、間抜けな声が出た。 吸い込まれる感覚が一気に覚める。
 いったいどうしてそんなことを聞くんだろう。

「優しい……そうだね、傍から見れば優しいんだろうけど。 まあ、ちょっと変な趣味があって、そこを治してくれれば普通に良い兄さんなんだろうね」

 ぶっちゃけそんな兄さんを想像できない。
 シズはわたしの返事に満足そうに頷いた。

「お前の兄貴は変態なんだな」

 否定は絶対にできない。 妹の傷ついた顔を見るのが好き、だなんて確かに変態チックだろうし。

「変態な奴らは根から腐りきってる奴らが多いが……なかには純粋な奴らもいる。 あまりに純粋で、純粋すぎて、逆にそれに耐え切れずにおじゃんになるような……」
「回りくどい言い方だね。 何が言いたいの」
「ミチルは純粋だってことだ」

 ミチルさん……? どうしてこの話にミチルさんが出てくるんだ。 話が見えてこない。
 疑念を持つわたしに構わず、シズは話を続ける。

「純粋な人間ほどどす黒く染まるのは簡単だ。 ミチルも最初はそうだったんだろうよ。 少なくとも俺はそう思ってる。 まあ……最初は俺は、潮音の話し相手だったんだよ。 潮音の妄想。 自分の頭の中で作り上げた、妄想の友達。 それが最初の“俺”だった。 まだ“俺”っていう人格ができていなかったときだ」

 『ある事』があり潮音の心に闇と病みが生まれた。 彼女が求めたのは自分自身を受け止めてくれる、唯一の理解者。
 まだ幼かった潮音は、頭の中で空想の友達を作り上げ、それに語りかけ、自分で答えるといった遊びをしていたらしい。

「どうして潮音はそういう友達を作ったの。 肝心なところ、聞けてないんだけど」

 そうだな、とシズは小さく言った。
 何度か小さく息を吐いて、赤い舌で唇を舐める。

「ミチルは、潮音を虐待している」





               ♪





 目を覚ますと病院だった。
 昼間から後の記憶があやふやな少女は、自分の右手首に突き刺さっている点滴の針と、夕方の5時過ぎを指している時計を交互に見て、怪訝そうに首を傾げる。
 自分は、何をしていたのか。 どうして病院にいるのか。 頭に残っている鈍い痛みはなんなのか。
 どれを思い出そうとしても、心に黒いモヤが溜まっていく感覚がした。

「傷が……増えてる……」

 右手首にあるハッキリとした鋭い傷跡が増えていくのも、少女は気づいていた。 身に覚えのない傷。 何一つわからないまま、少女の視線が泳ぐ。
 そのとき、ふいに視界に入った自分の細くて白い両足を見て、少女の記憶の視界が一気に明るくなった。

「ひ……っ、し、死体……」

 そうだ、死体。 自分は見たのだ。 路地裏で裸にされている女性を死体を。 知っている。 この光景を、知っている。 死体だ。 自分が殺したのか。 いや、違う。 死体を見つけてしまっただけ。 それだけ。

 正確には死体ではなく、例の婦女暴行の被害者が気を失っているのを見てしまっただけだった。
 だけど、少女の中に染みこんでしまった狂気は、誰にも拭えないほど大きく膨らんでしまっていた。

「……み、さま、かみ、かみさま、かみさま、かみさま、かみさま、かみさま、かみさま、かみさま、カミサマ、カミサマ、カミサマ、カミサマ、カミサマ、カミサマ、カミサマ、カミサマ、カミサマ、あっ、あぁあああああああああああぁぁあっ、あああああああああああああああぁっ!! 」

 そして少女はまた縋る。
 彼女に決して味方をしない、実在しない相手に。

Re: あなたを失う理由。 ( No.75 )
日時: 2012/08/13 13:36
名前: 朝倉疾風 (ID: FZws4pft)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/


 からんっとグラスの中で氷の音がした。
 周りの人の雑談なんて耳に入らない。 喫煙席のせいか煙草の匂いがひどく不快だったんだけど、それも気にはならなかった。
 ストローから咥えていた唇を放して、何かを言おうとしたんだけど、言うことがまとまらなかった。
 シズから視線を逸らす。 どうしよう、なんて言ったらいいんだろう。 ミチルさんと知り合っているだけに、なかなかこの事実はショックだ。

「どうして……とか、聞いてもいい?」
「これを言うためにお前と会うことを決めたんだ。 話してやるよ。 ……そうだな。 一番の理由はあいつらの母親が死んだから、だな」

 潮音の母親。 潮音がまだ小学生のときに事故死したと、麻央から聞いていた。 麻央は本人から聞いたのかもしれない。

「事故死だったんだよね」
「ああ。 母親の信号無視のせいだ」

 信号無視……? 事故死とだけ聞いていたけれど、潮音の母さんは信号無視なんかをするような人だったんだろうか。 急ぎの用事があったとか。 まさか、故意で違反を犯すようなことは無いと思うけれど。
 頭の中でグルグルと想像が駆け巡るけれど、事実は当たらずとも遠からずだった。

「不幸な事故だった。 ミチルの塾の帰りが夜遅くて、いつも母親が車で迎えに行っていた。 だけどたまたまその日は、母親が高熱だったらしい。 それなのにミチルを迎えに行ったから……しんどくてボーとしてたんだろ。 信号が赤なのに……普通車と大型トラックがぶつかって即死だったんだと」

 ミチルさんの塾の迎えの途中で事故死。 誰のせいでもない。 不幸な事故。
 口で言ってしまう分には簡単だけど、頭で割り切ることは難しいにちがいない。
 突然の母親の死に、幼い潮音はもちろんだけどミチルだって他の家族だってショックだったはずだ。

「母親の死で一番苦しんだのはミチルだろうな」

 不意に呟かれたシズの言葉。 何気ない言葉だったんだろうけど、わたしはそれで全部わかったような気がした。
 パズルがスラスラと解けていくような感覚に若干の興奮を覚えながら、

「ミチルさんは言ってた。 自分が母親を殺したようなもんだって。 つまりは、そういうことでしょう」
「お前、声でっけえよ。 ハッ倒すぞ!」
「あ、ごめん……」

 まただ、落ち着けよわたし。 目の前でシズがこちらを視線で殺しそうなほど睨んでるじゃない。 周囲に今の話が聞かれていないかを伺い、声量を落とす。

「ミチルさんは自分の迎えに来る途中で母さんが亡くなったから、自分が殺したと思ったんだ」
「ちげぇよ」

 あれ、違った。 当たってると思ったんだけど。
 ── バカか、わたし。 こんなクイズ感覚でどうする。 好奇心で動いている証拠だ。 潮音のために、なんだから。 それを忘れるなよ、わたし。

「じゃあどうしたっていうの」
「ミチル本人も責任は感じていたが、殺したと思うほどじゃない。 ……周りがそういうふうに、ミチルを責め立てたんだ」
「周りが?」

 周り、というと他の家族のことだろう。 いや家族だけじゃないかもしれない。 近所の人や親戚、関係の無い第三者の目が一斉にミチルさんに向けられる。
 彼は母親を殺したわけじゃない。 ただ、塾の迎えをいつもどおりに来てもらう予定だっただけ。 そこにたまたま母親の高熱という悪い条件が重なった。 結果、母親は事故死した。
 ミチルさんに全ての責任があるわけじゃない。 そんなこと、わかりきっているのに。

「そのとき中学生だったミチルは純粋だった。 だからこそ、周りの言葉が本当にそうだと思ってしまった。 自分だけが悪い、自分のせいで母親が死んだと、そう思ったんだろ。 それでミチルは……潮音を味方につけようとした」
「味方に……?」
「ああ。 ……最初は潮音に許してくれと懇願し、潮音の胸で泣きじゃくっていた。 次第に潮音に快楽を与えながら自分の味方につけようとしたんだ」

 ふと脳裏に兄妹同士の淫らなやり取りの映像が浮かんで、ひどく気分が悪くなった。 眉をしかめて、思考を振り払う。
 そんなわたしの表情の変化に気づいたのか、シズが慌てて補足する。

「快楽と言っても性交じゃねえよ。 そこまではミチルもしなかった。 だがそれでも、潮音の心をボロボロにするには充分だったろうな」

 どんなことをされたんだろう、なんていう質問はしなかった。 野暮なことだし、それをずっと潮音の奥から見ていたシズにとっても嫌な記憶だろうから。

「それが、シズの生まれた理由?」
「ああ。 その頃からだな。 潮音が“俺”を妄想で作り出したのは……。 全部あいつは“俺”に喋ってくれた。 悲しいことも悔しいことも辛いことも、全部、ミチルのためなら耐えられると……そんなバカげたことも言っていた」

 本当にバカげている。 潮音の実直さと愚直さには苛立ちすら感じさせられる。 もう、優しさだけでミチルさんを包み込めることはできないのに。
 殴って見捨てることは簡単だ。 切り捨てることも。
 けれどそれができないのは、潮音本人がミチルさんを好きだから。 たとえどんなに歪んでいる愛情だったとしても。
 グラスの表面に付着した水滴を指でなぞる。 水は素直にわたしの指先に吸い付いて、皮膚を濡らす。 なんの疑いもなく。
 潮音もまたなんの疑いもなく、ミチルさんを受け入れてしまったのだろう。 そして気づけば、ただの感情の掃き溜めになってしまった。

「シズは今のシズになったのは、確か潮音が13歳のときだったよね」

 シズは軽く頷いた。

「今まで潮音の妄想でしかなかった“俺”が、気づけば潮音の体を動かせていた。 目の前にはミチルがいて、何故か俺の手足を舐めていた。 ビビったってよりは、おえーって感じだったな」

 そう言って自嘲する。 悔しそうにその顔が歪み、悲しそうにその目が伏せられた。 拳がきつく握り締められ、震えている。

「殴って殺してやったら……よかったんだ……」

 小さく、シズは呟いた。
 その肩は頼りないほど震えていて、外見だけだと潮音が泣いているように見えて、ひどく抱きしめたくなった。

「潮音があいつに糞みてえな同情を捨ててりゃ……俺があいつを殺してやってたよ……。 あんな奴、見捨てりゃいいのに……」

 潮音が兄として家族としてミチルさんを、彼女なりに護りたいと思っているのなら、そこでシズがミチルさんを傷つけても、潮音は喜ばないだろう。
 潮音の大事な人だから、手が出せない。 耐えるしかない。

「シズは、潮音が好きなんだね」

 潮音は間違っている。 ミチルさんの分の重荷を一人で背負って、自分がボロボロなのにも気づいていない。
 じゃあ、わたしはどうする。
 シズがわたしにここまで話したってことは、何とかして欲しいから。 潮音に気づかせる、ミチルさんを止める、終わらせる。
 少なくともここまで踏み込んだんだから、わたしは潮音とミチルさんに話さなきゃいけない。
 お互い、傷つく必要なんてどこにもなかったんだってことも。

「── 左利きだね、シズ」
「あぁ? ……ああ、そうだな」

 潮音の右手首の傷跡は、シズの痛みの証だろうから。

Re: あなたを失う理由。 ( No.76 )
日時: 2012/08/16 14:37
名前: 朝倉疾風 (ID: FZws4pft)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/


               ♪



 少女の母親が死んだのは、肌寒い秋の終わりだった。

 葬儀で喪服に包まれている親族たちを見て、少女の心は黒くて冷たい感情を覚えた。
 棺の中は遠目に見れば白い百合がたくさん咲いているように見えたが、近づいてみると眠っているような母親が百合の中にいた。 綺麗にお粉も塗っていて、赤い唇はつやつやしている。 損傷の酷かった顔の部分は、うまく百合のベールで隠されていた。
 眠っている。
 少女はそう思っていたし、これから二度と母親の美味しい手料理が食べられないなんて思ってもいなかったから。

「おかあさん、もう朝なんだよ。 起きないと」

 線香を手に持って、少女は母親に呼びかける。
 周りにいた親族たちの鼻を啜る音。
 少女は不思議そうに首を傾げて、そっと母親に触れてみようと手を伸ばす。 小さな指先で母親の頬に触れた。 それはぞっとするほど冷たかった。
 それが少女にとってはひどく恐ろしいものだった。
 もう一度触ろうとして手を伸ばし、そこを後ろから誰かにそっと止められた。

「もうええよ、潮音」

 振り返ると少女の兄がいた。
 泣き腫らした目。 悲しそうに首を横に振って、少女の手をそっと包み込む。

「もう……おらんねん」
「いないってどういうこと……? だって、ここにいるのに」
「おらんて」
「だっておかあさん、ここにいるのに」
「止めろて!」

 兄に怒鳴られたのは初めてだった。 腹に響くような大きな声。 少女の足が竦んで、目尻に涙が溜まる。
 その様子に耐え兼ねたのか、親族の一人が兄の肩に手を置く。

「そこらへんにしときぃ。 ミチルくん、向こうにお父ちゃんおるやろ? そこに潮音ちゃん連れて行きぃや」
「── 声あげたりして、えろうすんません」
「かまんけん。 ここはおばちゃんに任せとき」

 そう促されて、小さな妹の手を引きながら兄は座敷を歩く。
 その手は汗ばんでいて、母親とは全然違って温かかった。

「ミチルくんの迎えの途中で事故ってしまったんやろう」

 低い小さな声が聞こえて、兄妹の足は止まる。 廊下のすぐ隣の部屋で、何人かの親族が集まって葬儀中だというのに話しているらしい。

「インフルエンザやったらしいんよ。 潮音ちゃんもまだ小さいし、おじさんはそのとき仕事やったんやて」
「ミチルくんも中学生だったんだから……少し考えれば、おばさんの様態が酷いってわかったはずなんですけどねぇ……」
「えらいのに車乗ってから……ほんまに残念やわ……」
「ミチルさんのせいやないか」
「こら、あなた。 まだ子どもだったんだから、しょうがないじゃない」

 少女の手がぎゅっと強く握り締められた。 見上げると、そこには今まで見たことのない表情をしていた兄がいた。
 泣くのを堪えているのか、自分のことを言っている親族たちを恨んでいるのかはわからない。 ただ、気持ちが悪い笑顔だった。 一言で笑顔と言い表していいものかどうかは別として。
 引きつったような笑顔が張り付いていた。




 ぐいっと手を引っ張られ、廊下を引き返す。
 広い家だ。 30人程度の親族や知り合いは、ほとんどがお座敷に集まっている。
 誰もいない2階の、とっくに亡くなった祖父の部屋の戸を開けて、兄は静かに少女をベッドに腰掛けさせた。
 床に膝をついて、少女の目線に合わせる。

「ミチル……おとうさんのとこ、戻らないの?」
「戻らへんよ」
「おかあさんのとこは……?」
「戻らへんよ」

 機械のようにそう呟く兄は、まるでシャボン玉に触れるように静かに優しく少女の頬を撫でた。 その手つきがあまりにも弱々しい。
 子猫みたいと、そんなことを思いながら、少女は兄を抱きしめた。 低学年の少女が中学生の兄を抱きしめる。 強く、強く。
 兄は思った。
 この子は自分を裏切らないと。 絶対に見捨てないし、見限らないし、切り捨てない。 いつまでも自分の傍にいてくれると。

「なぁ……潮音」

 体温だけでは足りなかった。

「兄ちゃんを……助けたって……?」

 救いが欲しかった。 自分のせいで母親が死んだと思いたくなかっただけなのかもしれない。 考えることを止めて、目の前の少女だけを見つめて、自分の居場所はここだけなのだと錯覚する。
 ただ、心の隙間を埋めるだけの存在。 脆い心を支えるだけの存在。
 兄にとって少女はそれだけの存在だった。

 その存在が怖いほど大事になりすぎて、気づけばもう“妹”ではなくなっていた。







 今日も夜に少女の泣き声が聞こえる。

「今日、どっか出かけとったな。 どこ行っとったん?」
「ごめんなさい」
「さっきからそれしか言わへんなぁ。 まさか……俺から逃げようとしよったん?」
「違います。 全然違います」

 薄暗くて狭い部屋。
 ベッドの上の人影は傍から見れば、甘い夜を過ごす恋人のようにも見える。
 けれど、その会話の内容は従事関係を明らかにしているものだった。
 少女は泣いていた。 頬の涙の痕は既に乾いていたが、目尻には溢れきっていない涙が溜まっている。

「俺の傍にはおってくれんのか……?」
「大好きです。 ずっと貴方の傍にいます。 約束です」

 まったく変わらない表情。 口だけが動いているようだ。 機械的に喋る少女は誰が見ても“異常”だと思うはずなのに、そんな返事さえも兄は嬉しかった。
 少女を抱きしめて、頬ずりしながら、兄は深く息をつく。

「笑日ちゃんに取られるかと思いよったんやで……」

 泣きたい。
 泣きたい。
 泣きたい。

 泣きたいほど愛しい。


 愛しい。


 そんな兄の気持ちを知っているからこそ、少女は耐えた。
 こんなにも自分を必要としている相手を見捨てることなんて、少女にはできなかったから。
 それが、“もう一人”を作る原因になったんだけど。 


 今夜も少女は神様に縋る。
 絶対に助けてはくれないし、絶対に居ないともわかってるけど。




「かみさま、助けてください。 どうかミチルを救ってください」 


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