複雑・ファジー小説

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 入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)

あなたを失う理由。 完結
日時: 2013/03/09 15:09
名前: 朝倉疾風 (ID: kWFjr3rQ)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/

どうも 朝倉疾風です。





性描写などが出てきます。

嫌悪感を覚える方はお控えになってください。



主要登場人物>>1

episode1 character>>4


episode2 character>>58


episode3 character>>100


episode4 character>>158



小説イメソン(仮) ☆⇒p


《episode1》
・まきちゃんぐ / 煙
   htt☆://www.youtube.com/watch?v=kOdsPrqt1f4


《episode2》
・RURUTIA / 玲々テノヒラ
   htt☆://www.youtube.com/watch?v=wpu9oJHg2tg


《episode3》
・kokia / 大事なものは目蓋の裏
   htt☆://www.youtube.com/watch?v=LQrWe5_q6-A


《episode4》
・Lyu:Lyu / アノニマス
   htt☆://www.youtube.com/watch?v=lSFYtyxojsI


執筆開始◎ 6月8日〜



Re: あなたを失う理由。 ( No.67 )
日時: 2012/07/30 17:59
名前: 朝倉疾風 (ID: FZws4pft)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/



               02



 眠っているはずなのにどうしてこんなに五月蝿いんだろう。 もしかしたら蝉のせいかもしれない。 早朝からジャカジャカ五月蝿い虫だ。 蝉以上に五月蝿い虫というものも、なかなかいない。
 潰せばグシャリとバラバラになりそうな体なのに、どうして人に向かって放尿できるのかがわからない。 あれ、水分あんの?
 とりあえず耳に届く蝉の鳴き声がひどくて、嫌々ながら目を開ける。 ぼやけた視界。 どうしてか床で眠っていた。

「え……」

 どうして床で眠ってるんだろう。 ……ああ、そうか。 潮音にわたしのベッドを貸してるんだった……。
 心配で看病しているうちに床で寝ちゃったのか。 布団がかけられているのを見るに……兄さんがかけてくれたのかもしれない。
 え、いや待てよ。 なに、この五月蝿い音。 音……?
 蝉の鳴き声は確かに窓の外で五月蝿いんだけど、もっと別の……。
 視線を、正体不明の音が聞こえるベッドの方へ向ける。 そこには上半身を起こした潮音がいた。
 起きていたのかと思う前に、この耳にひどく響く奇声が彼女のものであると知る。 両手で頭を掻きむしりながら、唾液を垂らしながら、目を血走らせて何かを叫んでいた。
 なに……こいつ……。

「── さまっ、かみさま、かみさま、かみさま、かみさま、かみさま、かみさま、かみさま、かみさま、かみさま、カミサマ、カミサマ、カミサマ、カミサマ、カミサマあぁっ! アアァアァアアアァァアアァアアアァァアアアァッ!」

 体のあちこちから色々な体液を出しながら、潮音が錯乱していた。
 壁に頭を打ち付け、手首を遠慮無しにガリガリと引っ掻く。 裂けた傷口から血が溢れて皮膚を汚していた。
 わたしという存在は視界にすら入っていないらしい。 こんなに近くにいるのに。

「し、潮音っ!」

 遠慮なく引っ掻いている彼女の手首を掴み、そのまま押し倒す。 バタバタと暴れて抵抗される。 目の焦点は完全に合っていなくて、汗がひどく流れている。

「潮音っ! 落ち着いてよ、潮音!」
「んがっ、あぁっ! あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ! あ……っ」

 長く叫んだあと、それまで抵抗していた潮音の体の力がすぅっと抜ける。 焦点が少しだけ彷徨ってから、静かにわたしの目と合った。

「潮音……大丈夫……? わたしが誰だかわかる……?」
「── だ、だいじょ……ぶ……。 だいじょーぶだから……」
「ちょっと待ってて。 額の傷、手当するから。 救急セットもってくるね」

 いま彼女から離れると危険かとも思ったけれど、額と手首の血が痛々しい。
 それにしても驚いた。 心臓がバクバクいっている。 中学の時の大人しかった彼女とは思えない変わりようだった。 なんだったんだ今のは。 頭のネジがどこか抜けているんだろうか。
 階段を降りる途中で、いま起きてきたのか眠たそうに目をこすっている兄さんとすれ違う。

「なんかあったの」
「兄さん、潮音のところにいてあげて。 怖がらせないでね」
「んー、りょーかい」

 よし、おりこう。
 1階で救急セットを持ってダッシュで階段を駆け上がる。
 部屋に戻ると、虚ろな目で窓の外を見ている潮音が何かを呟いていた。 いや、口は動いているけれど声を出していない。
 傍でその様子を見ていた兄さんがわたしに気づき、不思議そうに言う。

「ねえ、どうしちゃったのこの子。 なぁーんかこっち見てくんないんだけど」
「ちょっと静かにしてて。 潮音、救急セット持ってきたから手当するね」

 声をかけても潮音の反応はない。 怖らがせないようにそっと手に触れると、ビクリと肩が震えて怖ばった表情でこちらを見た。

「怖がらせてごめんね。 血が出てるから消毒ね。 わたしが誰だかわかる?」
「わ……笑日ちゃん……。 本当の本当に? 踏切で会ったのって夢じゃなかったんだ……」

 よかった。 昨日のことは覚えているらしい。
 消毒液を塗って絆創膏を貼り、額の傷にも同じ処置をする。 どうでもいいけれど、その間じっと兄さんがこちらを見ていて少しやりづらい。

「踏切でわたしと会ったことは覚えてるんだね」
「なんだかすごく曖昧なんだけど……ね」
「なら、どうしてここまで歩いてきたのかは覚えてる?」
「え……」

 辺りを見渡して、不安そうに潮音の顔色が変わる。

「そういえば……ここ、どこ……? わたし、さっきまで自分の部屋にいて……なのに、なんで」
「ここはわたしの部屋だよ。 潮音は昨日、炎天下のなかを裸足でふらついてたの。 ……覚えてる?」

 しばらく考えていたが、潮音は首を横に振る。

「だめだよ……踏切で笑日ちゃんに会ったことしか思い出せない」
「そっか。 ちょっと混乱しているみたいだったから、ゆっくり休んでって。 ああ、潮音の兄さんに電話はかけたよ」
「ミチルに……。 兄さん、何か言ってたかな」
「いいや、何も」

 驚くくらい何も。 潮音の容態を心配するわけでもないミチルさんの態度は、少々気になる。 苦手なタイプだ。 いや、うちの兄さんよりかはマシなんだろうけれど。

「失礼な事を言ってたらゴメンね。 あの人、けっこう毒舌だから」
「確かに毒舌だねぇ、ミチルくんは」

 いつのまに隣に来たのか、ベッドのふちに顎を乗せた兄さんがニヤリと笑う。 いきなり口を開いた兄さんに驚いたのか、潮音がわたしの服の裾を掴んだ。

「わたしの兄さんで瑠依っていうの。 ミチルさんの知り合いらしいんだけど」
「1つ下の後輩なんだよねぇ。 まあ彼からは奇人扱いされてるけど。 それなりに良くも悪くもない関係ってところかな」
「十八公潮音です……。 兄がいつもお世話になっております」
「── きみって声ちっさいね。 何言ってんのか全然わからないから、さっきだっていもーとの独り言なのかと思ってたよ」

 それは言いすぎでしょ。
 でも確かに潮音の声は今にも消えてしまいそうなほど小さい。 恥ずかしがり屋ってことはないんだろうけど、もともとの声量が小さい。

「ごめんなさい。 あまり大きな声を出すのが得意じゃないから」
「ふうん。 なーんか小動物みたいだよね。 猫みたいな。 ね、いもーと」

 わたしに話をふらないでほしい。
 犬や猫といった類のものには少しばかり苦い思い出がある。
 わたしがまだ小学生のときに、うちでは猫を飼っていた。 母さんが拾ってきた捨て猫で、世話をしなくなったからわたしが代わりに世話をしていた。 それなりに大切にしていたし、向こうもわたしになついていたんだけど、ある日学校から帰ると猫が撲殺していた。
 肉団子のようになっているそれを見て、あまりの恐怖に足がガクガク震えたのを覚えている。 その猫の腹を容赦無しに蹴る、わたしの兄さん。 彼は笑っていた。 大切なものを壊されているわたしの表情が愉快でたまらなかったんだろう。

「わたしは小動物は嫌いだから」

 過去のトラウマがぶり返して冷たい声が出た。

「命を大切にしない奴も大嫌いだけどね」

 今のはわたしの綺麗事だった。
 もうこの話は無しと、目で兄さんを制する。 それに気づいたのかそれ以上は何も言ってこなかった。
 うちら二人の些細な心のギスギス感を潮音は気づいているのか、いないのか。 掴んでいたわたしの服の裾から手を離して、膝の上に置く。 その右手首には爪とは思えない、鋭利な刃物でつけられたであろう傷跡があった。 自殺願望でもあるんだろうか。 だとしたら、さっきのわたしの発言は少々地雷だったかなーと悔い改める。

「ところで、この子は一人でちゃんと帰れるの? ミチルくんには一晩泊まらせるって言ったんだろ。 ちゃーんと帰らないと、おうちの人が心配すっしょ」

 そうだった。 ミチルさんは一晩だけだと言ってあるんだった。

「もう少ししたら駅まで一緒に行こう。 電車賃と靴はわたしの貸してあげるから」

 一瞬だけ、潮音の表情が暗くなった気がした。 帰りたくないのだろうか。

「── そうだね。 ありがとう、笑日ちゃんには迷惑かけてばかりね」

 無理して笑っているのが見え見えな笑顔。 それでも言及しなかったのは、訳を聞かないでくれとその目が言っているような気がしたから。

Re: あなたを失う理由。 ( No.68 )
日時: 2012/08/03 01:10
名前: 朝倉疾風 (ID: FZws4pft)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/


 クーラーで冷えきった涼しい部屋に長時間いると、夏の昼下がりに外に出ることが本当に嫌になる。 というか廊下にまでクーラーが効いているわけじゃないから、自分の部屋を一歩出るだけでも億劫だ。 家の中でもこんなに暑いのに、外に出たらどうなるのかはわかりきっている。 じっとしているだけで汗が滲んでくるのに、少し歩くだけで目眩すらしてくるだろう。
 この中を潮音は裸足で、しかも隣町から歩いてくるなんて。 帽子も被らずに。 それだけしておいて、歩いてきた理由も覚えていないなんて明らかにおかしい。
 どうしても踏み込めないのは、それが潮音にとっての地雷だといけないから。
 手首の傷にしろ朝の錯乱状態にしろ、なんらかの悩みが溜まっていることは明らかなんだけれど。 本人の自覚が無いのならなおさら言及するのは難しいだろうし。

「スーパーでアイス買ってから行こうか」
「えっと……いいよ。 お金、持ってきてないし」
「いいよ、わたしが奢るから。 潮音っていちごミルクのアイスが好きだったよね」
「う、うん……。 本当にごめんね、笑日ちゃん。 電車賃もサンダルも全部用意してくれて」
「いいっていいって」

 駅に行くには少し遠回りになるけれど、アイス欲しさに本来ならまっすぐ行く道を右折する。
 自転車の後ろに乗っけている潮音が、ギュッとわたしに回している腕の力を強めた。 昼ご飯を食べた後、潮音を駅まで送ることになったんだけど、この暑さで気が引けてなんだかんだ2時間も部屋でグダグダしてしまった。 涼しくはなってないけれど、太陽が雲に隠れているから昼よりはマシだろう。
 そうはいっても人を一人後ろに乗せて自転車をこいでいると、さすがにバテる。
 スーパーで涼んでから駅へ行っても、電車には間に合うだろう。




 この世界は本当によくできていると思う。 主に偶然、必然云々の話で。
 偶然があるから出会いが生まれて、必然があるからそこに繋がりもある。 逆もまた然り。
 いやでも今回は本当に偶然だった。 偶然というか、もうこれは運命としか言い様がない。 運命というと何でも聞こえが良くなるし、奇跡だとかを連呼していると安っぽく思えるんだけど。
 いざ自分がそういう境遇に立たされると、運命だとか奇跡だとかのつま先にキスしてもいいっていうくらいに感動する。 そんなものあったらの話だけど。

「で、これって運命だと思うんだけど。 大瀬良くんはどう思う?」
「もう少し声の大きさ抑えれば」
「昨日会ったばっかりな大瀬良くんに今日会えるなんて……! 運命だよ! なんでスーパーにいるの?」
「── アンタが初めて俺の家に来たとき……作ってくれたお粥、美味しかったから……」

 なにこの可愛い生き物。 どうしよう、なんかこのままうちに連れて帰りたい。 大瀬良くんの格好良さが、既にわたしの中では“萌え”の域に達してしまっている。 萌える、というか大瀬良くんの普段とのギャップが本気で可愛い。 ……ああ、これが萌えってことか。 オタク属性が無いからよくわからない。
 予想していなかった大瀬良くんの出現に興奮するわたしに、潮音が小さい声で尋ねる。

「笑日ちゃんの彼氏さん? 格好いいね」
「未来の彼氏の大瀬良悠真くんだよ」
「アンタって本当に自分に都合いいように解釈するよな」

 こうして構われるの嫌いじゃないくせに。 分かりにくいツンデレはこれだから困る。
 ふむ、ここで大瀬良くんに潮音のことを紹介しとこうかとも思ったんだけど、他者との間に強力なバリアを張っている大瀬良くんにとって、潮音の存在は“どうでもいい”存在だろう。
 最初はわたしもその部類に入ってたんだろうけれど、わたしのしつこさは計算外だったに違いない。 こんなに図々しくしてくる人間はわたしくらいなものだろう。

「ポジティブって言いんしゃい」
「まあなんでもいいんだけど。 ……なんか用事あんだろ。 行けば」
「そうだね。 今から行けばちょうど電車が来るかな。 潮音、レジに並ぼっか」
「う、うん」
「じゃあね大瀬良くん。 またね」

 あまりここに潮音を長居させたくはない。 無いとは思うけれど大瀬良くんに惚れられても困るし。
 まああの人の本性を知っても「好き」と言えるのはわたしだけだと自負しているけどね。
 冷たい潮音の手を取って、会計を済ませて店内で食べる。

「外で食べたら溶けちゃうからね。 美味しい?」
「うん。 すっごく美味しい」

 いちごミルクのアイスを舐めながら、嬉しそうに潮音が笑う。
 こうしてみると昔を思い出す。 あの頃はここに麻央も加わって、3人で学校帰りにコンビニ前でジュースを買ったりしていたっけ。
 潮音と目が合い、彼女も同じことを考えていたのか、「懐かしいね」小さい声で言った。

「麻央ちゃんと笑日ちゃんと……3人でこうしてお店に寄ったり、近くの川で泳いだり……。 本当に懐かしい。 麻央ちゃんは頼もしくて、笑日ちゃんは優しくて……。 わたしなんかと仲良くしてくれて」

 その表情に陰りが見えたのは見間違いじゃないだろう。 消極的で謙虚なのはけっこうだけど、こういうのをネガティブというのか。 わたしには自分を卑下する見方ができないから理解できない。 最も、自分が大好きと思うようなナルシストでもないけど。

「そういう言い方やめればー?」

 できるだけ柔らかい口調で彼女を嗜める。
 きっと潮音もわかっているだろう。 こんなふうにしか言えない自分が好きではないということを。

「潮音が自分自身をどう思おうと勝手だけど、わたしは潮音も麻央も好きだから。 友だちが自分自身を悪く言っているのを見ると、悲しくなるよ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。 ただ潮音は潮音が思っている以上に良い子だから」

 このやりとりも久しぶりだ。

「笑日ちゃんは絶対に嘘は吐かないよね」
「ん? そうだね。 わたしは思ったことをストレートに言っちゃうからね」
「── だから嬉しい。 それってわたしのことを本当に“良い子”と思ってくれてるってことでしょ。 だからすごく嬉しいの」

 透明だと思った。 白い肌は日に焼けることもなく、太陽の光を反射する。 唇を舐めるその舌がアイスでほんのりと赤く染まっていた。 カラになったアイスカップをゴミ箱に捨てて、自転車にまたがる。

「また遊びに来て。 潮音も携帯持ってるでしょう」
「うん。 あ、でも中学を卒業してから買ったから、笑日ちゃんの番号が無いよ」
「ああそっか。 なら麻央から教えてもらって」
「わかった」

 潮音の事情も気になる。 欝みたいな様子は無いけれど、朝の錯乱は異常だったから。 まるで縋りつくように「神様」を連呼していた。 潮音本人は気づいていなくても、心は何かで傷つけられているのは確かだ。
 あれほどまで追い詰められているとしたら……だめだ。 思い当たる理由が無い。 2年の壁は分厚いようだ。
 そんな自分の考えを巡らせていると、踏切の音が聞こえた。 駅は近い。

 「隣の駅に着いたら家はわかる?」 「それは大丈夫」

 駐輪場に自転車を停めて切符を買う。 片道大人240円。 一駅だけだから数分で帰れるだろう。
 切符を潮音に渡してホームのベンチに座る。 バラバラになった蝉の死骸がベンチのしたにあった。 やっぱり血らしきものは見えない。 空っぽじゃん。

「そういえば帰ったら気をつけなよ。 潮音の住む地域って連続で女の子が襲われてるらしいじゃん」
「ああ……そうだった。 わたしもテレビで見て、怖かった」
「まだ明るいから大丈夫だろうけれど、ちゃんと自分の身は自分で護るんだよ」

 子どもに言い聞かせるようにいう。 潮音は数回頷いて、「自分の身は自分で……」とわたしの言葉を復唱した。 どこかそれが不気味に思えて彼女から目を逸らす。
 あ……向こうから電車が来た。

「潮音、電車きたよ」

 目の前を電車が通る。 しばらくして耳に響く嫌な音がして、停止した。 田舎だからか、乗っている人も乗る人も降りる人もいない。

「それじゃあ笑日ちゃん……ばいばい」
「じゃあね潮音。 また連絡してきて」

 電車に乗り、名残惜しそうに潮音はわたしの手を離さない。 駅員さんが笛を吹いて、迷惑そうにこちらを見た。
 手を、離さないと。
 白い彼女の手をほどき、白線から下がろうとする。 けれど、ぐいっといきなり腕を掴まれて引き寄せられた。 潮音の細い腕では考えられないほど強い力。
 強く抱きしめられて、耳の横にきた潮音の唇が開く。



「潮音のこと、ありがとな」



 それは確かに潮音の声だった。
 明らかに違うのは口調だけではない。
 蝉の鳴き声、周囲の雑音、電車の音。 すべてでかき消されそうな声量のはずの潮音が、ハッキリと力強く言ったのだ。
 ぼんやりと通り過ぎる電車を見送りながら、わたしはただ立ち尽くしていた。

Re: あなたを失う理由。 ( No.69 )
日時: 2012/08/03 22:43
名前: 朝倉疾風 (ID: FZws4pft)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/


 いま思えば何かの精神疾患なのかもしれない。
 クーラーの効いた涼しい自分の部屋に戻って、床で眠っていた兄さんを蹴り起こして追い出した後、課題をやりながらぼんやりと考える。
 さっきまで残っていたアイスの味も、既になくなっていて口寂しい。 そのせいもあってかなかなか課題が進まず、気づけば潮音の豹変ぶりについて考えてしまっている。 まあ、あんな衝撃的なものを見たら誰しも心に印象づくのは普通だろう。

 ああいう錯乱とまではいかないけど、中学1年生のときだったか。
 クラスメイトの男子数人が潮音をからかって遊んでいたことがある。 別に決して悪意があったわけではなく、その男子の一人が潮音に好意を寄せていて、素直になれずに彼女をからかってしまったらしい。
 傍から見れば微笑ましい限りなんだけど、当の本人はかなり嫌だったらしく、その男子の前歯が欠けるほど殴り飛ばした。
 いま思い出してもあの時の潮音の豹変ぶりには相当焦った。 麻央が暴れる潮音を押さえつけようとしても、わたしが男子を彼女から引き離そうとしても、無駄だった。
 結果、数人の男の先生が潮音を押さえつけて、その男子は前歯が1本欠けたこと、唇と口内を切ったこと、頬が腫れたくらいで怪我の事は収まった。
 潮音は教頭に呼ばれ、いくらなんでもあれはやりすぎだと注意を受けて、男子の両院は潮音を学校に来させないでほしいとすら願い出たほどだった。

 一番不気味だったのは、そのことについて潮音が何も覚えていないということ。

── 「先生には言わないでね、笑日ちゃん。 あのね、わたし……殴ったこととか覚えていないの」

 帰り際にそっと秘密を明かされてひどく驚いた。
 最初は冗談かと思ったけど、そんなことを言うような子ではなかったし。 覚えていないと言えば免れると考えているのか、とも疑ったけれど先生には何も反論せずに叱られていたし。

「── なんかになりきっちゃってるのかな」

 人は自分とは違う、自分よりも強くて優れているものに強い憧れを抱く。 それに近づきたい、それになりたいという思いが強くなる。
 潮音のような消極的な子だと、きっと誰かに憧れるという気持ちもあっただろう。 それがもう一人の潮音を作り上げて、理想の自分と本来の自分との区別をつかなくさせているとしたら……。

「かなり黒歴史になるだろうなー」

 明日の夏期講習で麻央に話してみようか。 麻央も麻央で何か勘づいているのかもしれないし。
 わたしは中学を卒業してからあの二人とは会っていなかったけど、二人は家も近いからたびたび会っているはず。
 潮音のことも気になるけれど、あー課題も終わらない。 明日、塾の自習室でやろうかな。 こんなに身の入らない課題っていうのも、なんだか久しぶりだ。
 

「他人のことで頭を悩ませるなんて、大瀬良くん以来だよーっと」






                ♪




 少女を温かく見守っていた母親が死んだ。
 最愛の人が亡くなって初めて“悲しさ”を覚えたのは、彼女が9歳のときだった。
 それまで当たり前のように傍にいてくれた母が、もういない。
 幼い少女にとってはひどく受け入れがたい現実で、一気に奈落の底へ突き落とされた感覚だった。 足はぐらつき、息はできなくなり、耳鳴りがひどく鳴る。
 普段はあまり使わない喉を震わせて、どんなに大きい声で鳴いても、母が還ってくることはない。

 悲しかった。

 生き物は死ぬものだと散々わかってはいたけれど、こんなに早くに別れが来るとは思ってもいなかった。 母が作ってくれた夕ご飯は、まだ完全に消化もされていないというのに、全部吐き出した。


 少女の悲しみはこれだけでは終わらなかった。


「俺が母さんを殺してしもうたんや」

 弱々しく震える声。 少女の肩を掴む頼りない手。
 強くて優しい彼が、泣いていた。
 怯えて誰にも縋りつくことができなかった彼に、どうすれば自分は味方だと教えることができるだろう。 いくら言葉で宥めても、頭を優しく撫でても、彼の心から罪悪感と恐怖が消えることはなかった。

「信じてや、なぁ──」

 この人には自分しかいない。 自分がこの人に欠如した愛を満たさなければ、この人は飢えて枯れてしまう。
 もしかしたら母のように突然消えてしまうかもしれない。
 少女は必死だった。 大切なものを失わうことに絶望的な恐怖を感じていた。 もう決して誰も消させない。 自分が護るのだと決意した。

 そして

 少女が13歳の夏。


 「彼」が生まれたのは、それまで必死で壊れないようにしていた心に、ヒビが入ったときだった。


Re: あなたを失う理由。 ( No.70 )
日時: 2012/08/04 22:33
名前: 朝倉疾風 (ID: FZws4pft)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/


              03


 回想。 中学1年の秋。

 あの頃はまだうちにも父親という存在がいた。 まあ父親という立場を利用して散々好き勝手するバカみたいな人だったけど。
 わたし自身は今とあまり変わっていないと思う。 好奇心が異常に旺盛で、ストレートに物を言ってしまっては後で後悔する。
 自分で言うのもあれだけど、友だちはそんなに多い方じゃあなかった。 これは現在進行形で。 相手がどう思おうが関係無くストレートに言うから、根はそんなんじゃないのに、性格がキツイ子として見られていて、あまりわたしと関わろうという子はいなかった。
 それならそれで別にいいと思うし、一人は嫌いじゃなかったからまったく気にしなかった。 ……でも、体育の時の、誰でもいいから二人組になりなさいという指示は嫌いだったけど。

 そのせいか、夏休みが明けても自分と同じように一人でいる潮音がやけに気になって仕方がなかった。 彼女はわたしのように自然と一人でいるのではなく、自分から他人と距離を作っているような気がしたから。 
 いつも教室で誰とも話さず、俯いて読書をしている。
 クラスの子が話しかけても、顔を上げて少し笑ってまた読書に集中する。 その仕草や雰囲気は決してお高く止まっているのではなく、柔らかい印象もあってか嫌われる存在ではなかった。

「栗の花が落ちるで、つゆりって読みます」

 2学期になって、麻央が転校してからは潮音は一人じゃなくなったんだけど。

「── 懐かしいね」

 麻央の言葉に一気に過去から現実に引き戻された。
 塾の自習室。 隣の席には麻央が椅子の上で体育座りをしている。 座りづらくないのだろうか。 短い髪を指でいじりながら、わたしと目が合ってニッと笑った。

「潮音にもそうやって話しかけたんですよね。 そうしたら、すごく驚いた顔をしていました。 あの時はまだ、笑日ちゃんとも親しくはありませんでしたよね」

 転校してきた麻央とは給食の掛かりが一緒になり、その時に意気投合してから仲良くなった。

「そうそう。 牛乳係でさ。 給食用から教室まで牛乳運ぶのが重くて重くて。 よく教室に行く途中で牛乳飲んだりしてたよね。 足りないぞーって怒られたけど」
「まあ、あの考えはさすがに麻央は思いつきませんでしたが」

 今思えば自分でも無いとは思うけど。 あの時は牛乳の重さが耐え難かったのだ。 資源がどーのこーので紙パックじゃなく、瓶だったし。
 麻央は指先でシャーペンをくるくる回しながら、また思い出したように

「中1くらいに……潮音が男子を殴る事件をやらかしましたね」

 ドキッとした。
 一昨日の潮音の言葉が頭をよぎる。 帰り際にわたしを抱きしめた彼女は明らかに潮音ではなかった。

「えっと……あれってやっぱ潮音がやったの?」
「潮音が殴るところを笑日ちゃんも見たでしょう。 あれに関して潮音を庇う気にはなれませんが、男子もやりすぎでした。 潮音を好きなくせにでしゃばるからです」
「── 潮音ってあんなに力強いっけ」
「笑日ちゃん……?」

 麻央なら何か知っているかもしれない。 中学を卒業してから疎遠がちになっていたわたしよりは、家も近くて時々連絡をとっている麻央のほうが、潮音の様子がおかしいことも気づいているかも。

「潮音の腕ってかなり細いよね。 握力だって……確かあの時は学年で一番弱かったはずだよ。 気も弱くて……そんな潮音が男子にちょっとからかわれただけで、あんなふうに殴りかかるかな」
「まぁ……確かにやりすぎだとは思いました。 からかいと言っても、小学校低学年レベルの下ネタでしたから。 こちらも苦笑でしたけど。 潮音らしくはない……そういう印象は受けました」

 麻央になら……言い出せるか。

「それにね、麻央。 あのあと潮音は言ってたの。 殴ったことをひとつも覚えていないって」

 麻央が怪訝そうにこちらを見る。 回していたシャーペンを机に置き、暇になった右手で頬杖をついた。 微かに瞳が動揺したように揺れる。

「覚えていない……? 潮音がそう言ったんですか」
「うん。 最初は覚えていないって言えば言い逃れができると思ってるんじゃないかなぁって思ってたんだけど……先生からは叱られても何も反論しなかったし、潮音にかぎってそれは無いかなって……」

 言いながら、麻央に言うべきかどうか迷う。
 一昨日、潮音に会って彼女の変貌ぶりを目の当たりにしたこと。 そして帰り際の不可解な言葉も。
 けれどわたしがそれを言う前に、真央が遮った。

「笑日ちゃんって潮音に会いましたか」
「えぇっ、なんで?」

 予想だにしていなかった質問に声が裏返る。 こういう時に動揺しまくりなのはわたしの短所だ。 嘘の一つもつけやしない。

「なんとなくです。 ……そうですか、潮音に会ったんですか。 彼女はどこか変だったでしょう」

 どこか、どころじゃなかったけど。 だいぶ変だったけど。
 そう言いたい気持ちを抑え、黙って頷く。 麻央はため息をついて暗い表情になった。

「前々から変だなとは思っていたんです。 麻央と会った日のことを覚えていないし、話のつじつまも合わない時がある。 見ていると不安定すぎて怖くなります。 どこか、普通ではない感じがして……。 笑日ちゃんの時はどうでしたか」

 わたしはこれまでの経緯を麻央に話した。
 潮音のことを考えるとあまり人にペラペラ言いたくない内容だったけど、麻央なら安心できる。
 炎天下の中を裸足でふらついていたこと、一晩うちに泊めたこと、「神様」と叫びながら発狂したこと、彼女自身の記憶が曖昧なことを話した。

 ただ、帰り際の潮音の言葉について話さなかった。


── 潮音のこと、ありがとな。


 なんだか麻央にすら話してはいけないことのような気がしたから。
 わたしの話を聞き終わったあと、麻央は悲しそうに微笑んだ。 さっきから1ページも進んでいない課題の参考書の端をいじる。 視線を落として麻央の反応を待った。
 しばらくして麻央が口を開く。

「それが本当なら十八公潮音は異常ですね」

 案外キツいことを言うと思った。 顔をあげる。 感情も意味もない顔を作成した麻央と目が合った。 その目は真っ黒で、何を考えているのかわからない。

「けど、麻央は潮音の友だちで有り続けますよ。 今までもそうだったし、これからも……。 潮音を支える覚悟もあるし、裏切らない覚悟もある。 潮音のことに対しては妙に執着してしまうのはわかってます。 けど……大切な友だちだから」

 ── ああ、わかった。 麻央が何を言いたいのかが。

 真央は選ばせているのだ。 わたしに、これからどうするのかを。
 潮音の友達としているのか、関わりを絶つのか。
 どっちにしろあんな状態の潮音を支えるのに、生半可な同情や好奇心などは不要だろう。 
 麻央はわたしの性格をよく知っている。 好奇心だけで動くようなわたしに選ばせて……いや、警戒しているのだ。
 中途半端に関わるな、と。 潮音を好奇心の対象として見るな、と。

「あんまみくびんなよー麻央」

 それはそれで癪だ。 麻央ほど潮音に執着なんて持っていないけど、数少ない友人ということには変わりない。 それは麻央にも同じことがいえる。
 友達が困っていたら助け合おうと、道徳の時間でも習ったし。 確かに興味もあるんだけど、いくらわたしでもそれだけであんな「異常者」に関わろうなんて思わない。

 友達なのだ。 潮音も、麻央も。

「わたしが覚悟もできないヘタレに見えたの? 何年つるんでんだ、ばーか」

 友達のためなら、なんだってする。
 彼女たちがくれたのは楽しい思い出ばかりなはずだから。


Re: あなたを失う理由。 ( No.71 )
日時: 2012/08/06 14:07
名前: 朝倉疾風 (ID: FZws4pft)
参照: http://ameblo.jp/asakura-3-hayate/



 夏期講習が終わって寄り道せずに麻央と分かれ、家路についた。
 母さんの車は無い。 いつ家に帰っているのか不思議に思うけれど、あの人はあの人なりに人生満喫してそうだ。 “夫”という縛りが無くなってからは……ああ、変換ミスかな。 亡くなってからは、あの人も幸せそうだし。
 人の人生はその人次第だ。 娘だからといって、わたしがあの人の人生の邪魔になってはいけないし、甘えてあの人の負担になってはいけない。 それはあの人も同じ。 お互い様だ。

「ただいまー」
「おおー、おかえりんご。 なんや早いなぁいもーとちゃん」

 靴を脱ごうとした足が止まった。 きっといま自分はすごく間抜けな顔になっているだろう。 まあ初対面の人に気楽に声をかけられたら、誰だってビックリするんだろうけど、この家にお客さんが来ることが珍しいから新鮮だ。
 新鮮ついでに言うけど、わたしを出迎えたのは兄さんじゃなかった。
 年齢は兄さんくらいの男の人。 明るい茶色に染められた髪に、カラコンをしているのか目の色が灰色だった。 なんかパッと見た服装の第一印象が “オシャレ雑誌に載っているモデルが着ている服装”。 いつもジャージばかり着ているうちの兄さんとは大違いだ。
 わたしはファッションにあまり興味が無いから、服の名前とかはわからないけど、目の前の男がそこそこお洒落だということはわかる。
 服装はカジュアルなのに、髪と目の色が異質すぎて似合ってはいるけど、合ってはいない。 その目の色をじっと凝視したまま固まっていると、その人が困ったように笑った。

「あいやーそんなふうに見られたら、俺もどうしてええかわからんようになるわ」
「あ……すいません」
「ええってええって。 目の色ちゃうかったらビックリするやろ」
「まあ、驚きました」

 関西弁と声ですぐにわかった。 この人、潮音のお兄さんだ。 確かミチルさんだっけか。
 あまり潮音とは似ていないけれど、肌の白さは遺伝なのかもしれない。 だから髪の色も映えるのか。

「ミチルさん……ですよね。 瑠依の妹の笑日です。 いつも兄がお世話になっております」
「ほっほーう。 流鏑馬とちがってめっちゃしっかりしてんなぁ。 まあ、とりあえず上がりぃよ。 俺の家でもないんやけどな」

 似ていないのは外見だけではないらしい。 お喋りなミチルさんは潮音と似ても似つかない。 声も大きいし。 関西弁なのはなんでだろう。
 靴を揃えて玄関に上がると、のっそりと部屋から兄さんも出てきた。 ミチルさんを見た後に兄さんを見ると、やっぱり項垂れてしまう。 顔がいいんだからまともな服を着ればいいのに。 相変わらず眠そうな目だ。
 その目をわたしに向けて、なにやら言い訳をしだす。

「なんかミチルが来てるから。 呼んでもないのにね。 なんでだろうね」
「なーにが呼んでもないのに、やねん。 ざけんなドアホ。 流鏑馬いもーとがおらんけん寂しいわーって言ってきたんはアンタでしょが」
「寂しいとか言っていないよ。 暇だから趣味に付き合ってって言っただけじゃん」
「はっ……。 ほんで来てみたら、部屋ん中で猫になりきっとるんやで。 いもーとちゃん、こんなんの面倒見よって大変やなぁ」

 ミチルさんは毒舌だ、と潮音が言っていたことを思い出す。 ズケズケと言う人は嫌いじゃない。 本心を隠している人のほうがよっぽど苦手だ。 ……千隼くんとか。





 玄関で話すのもあれなんで……と、リビングで3人でお茶をすることになったのは、わたしも予想外だった。 いや、リビングに行くように促したのはわたしだけど、 「いもーとちゃんとも話したい」 とミチルさんが言いだしたのだ。
 けっきょく兄さんとミチルさんの向かい側に座って、お茶を啜る始末である。

 兄さんとミチルさんは大学の友人で……まあ友人(?)というふうにハテナをつけたほうがいいと思う関係性らしい。
 隣の県に大学はあるんだけど、ここからならバスで数時間あれば行けるところだそうだ。 兄さんはその周辺に一人暮らしをしているんだけど、ミチルさんはわざわざ実家に帰ってきているらしい。

「往復代とか……かかりすぎませんか」
「俺さ、大学とかあんま行ってないけんなー」

 年齢は兄さんの方が1つ上。
 もともとうちの兄さんはキャンパス内でもひどく目立つ存在で、ミチルさんも名前は知っていたと言う。 話しかけたのはミチルさんの方。 兄さんが食堂でお菓子をバリバリ食べていたところを、本人曰くナンパしたらしい。

「俺がちょっとお菓子つまんだくらいで、もうめちゃくちゃボコられたんやで。 信じられんやろ」
「食べ物の恨みは怖いからねー」
「まあ、それはええわ。 ……流鏑馬からいもーとちゃんのことも聞いとったんやけど、まっさかおかっぱやとは思わんかったで。 髪短いん好きなん?」

 急にわたしに話が振られて焦る。

「えっと……中学のときは腰以上まであったんですけどね。 高校に上がるときにバッサリ切りました」

 最後のは嘘だ。
 わたしの意思で切ったのではなく、寝ている間に兄さんが勝手に切った。
 兄さんはわたしが好意を寄せているもの……気に入っているものに対して容赦がない。 わたしを好きだからそれらに嫉妬して攻撃しているのではなく、わたしの傷ついた顔を見るのが好きだからなのだと言っていた。
 悪趣味だ。 わたし以上に。

「っていうかミチル。 俺のいもーとなんだから、いもーとって呼ぶのやめてよ」
「ええやんべつに」
「いもーとの兄は俺だしね。 兄さんの特権ってやつだよ。 お前は自分の妹にでも呼べばいい」

 そうだ、潮音。
 あのあと潮音はどうなったんだろう。 無事に家に帰れただろうか。 あれから連絡もない。 メアドは麻央から聞いてと言っておいたんだけど…。

「あの……ミチルさん。 あのあと、ちゃんと潮音は家に帰れましたか」
「帰ってきたで。 いもーとちゃんから言われとったけん様子とか見よったんやけど、特に変わったところは無いなぁ」

 今のこの流れで潮音の話題を出すのはどうかとも思ったが……。
 でも麻央にメンチ切ったしなぁ。 潮音の支えになると言ってしまったし、ここでミチルさんにはっきりと言った方がいいのかもしれない。

「潮音の右手首にリストカットの跡があるのは……ご存知ですか」

 目の前のコップに手をつけようとしていたミチルさんが、その手の動きを止めた。 ゆっくりとわたしに顔を向けて、灰色の瞳でこちらを見る。

「── だから?」
「は?」
「だからどしたんやって聞いとるんやけど」

 これは……意外だ。

「家族が何か思いつめているかもしれない。 そう考えても、心配の一つも無いんですか」

 口調は決してミチルさんを責めていないつもりだ。
 人を責める立場でもないしね、わたしは。
 ミチルさんはしばらく考えていたけど、からっとした笑顔で顔をあげた。

「んー無いなぁ。 心配……か。 俺んところは母親が事故死しとるんやけど、それでどっか変になったんかねぇ。 ようわからんけど、家族ってものはいらんと思うとるよ」
「なら……潮音がどうなってもいいというんですか」
「俺には関係無いしなぁ」

 関係無い、か。
 どことなくわたしの家に似ているかもしれない。 無関心ってことはないけど、放任主義だから。

「こーらー」

 ポカッと。
 横から長い腕を伸ばして、ミチルさんの頭を兄さんが軽く叩く。

「そんなこと言ったら、潮音ちゃん可哀想でしょーがー」

 兄さんは怒っているようにも見えた。 口調はぞっとするほど柔らかかったけど。
 そんな空気を察したのかいないのか、ミチルさんはニッコリと笑う。

「五月蝿いねん。 このシスコンが」


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