ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第三話 北国軍医と真夏の夜-1


 その日、嵐が友達と遊んで帰ってくると、ダイニングのテーブルの上にはいつもより多く、また豪華な夕食がすらりと並んでいた。
 
「ママ、ちょっと多くない?」

 嵐は呆れ顔をしてキッチンで追加の料理を作っている鼻歌交じりの母を見た。
 彼の母は、結婚する前はホテルの調理人としてその腕を振るっていた人で、その技能は一般の主婦の域を軽々と超えている。
 だが、往々にして作りすぎる気があるのだ。そのたびに、近所の人たちに配ってはまたその名声を高めていくが、嵐は何となくしっくりこない気がしている。

「今日はパパのお客様が見えるのよ。泊めてほしいんだって」

 母は味噌汁の味見をすると、少しキッチンから顔を出して言った。
 嵐は一人納得する。母は、客が来ると昔のホテル時代の記憶がふつふつと蘇って、冷蔵庫のものをほとんど使うくらいの気合の入りようで、料理を作り出すのだ。
 と言うのも、嵐の父、秋山博士が連れてくる客というのはそのほとんどが各国の偉い人か、その名を轟かす研究者だからである。
 しかし、泊めてほしいと言うのは初めてだ。

「ただいま」

 嵐が夕食を眺めていると、不意に玄関のほうで声が聞こえた。
 走っていくと、そこには四十代ほどのスーツ姿の男性。黒髪は歳の割にふさふさと多く、分厚い眼鏡の奥では優しそうな黒い目が、息子に向かって笑いかけている。
 それから、もう一人。黄緑色の髪をした、鼻の高い外国の軍服姿の青年だ。歳は二十代前半だろう。髪は右側の一部だけ伸ばして、複雑に編みこんでいる。目の色はどこまでも青く、肌は染み一つなく真っ白だった。

「息子さん? 初めまして。シベル軍軍医の、イヴァン=ボルフスキーだ」

 綺麗な大和語を使い、笑顔で自己紹介すると、イヴァンは嵐に手を差し出した。大きな手のひらだ。嵐はおずおずとその手を握る。優男風にも拘らず、触れた肌はごつごつと硬かった。

 夕食はすぐに始まった。イヴァンはそんなに腹が空いていたのか、無言で、箸を止めることなく、出されたものを詰め込んでいった。
 嵐は母をちらりと見る。久々にこんな食べっぷりのいい人間を見た彼女の顔は、これ以上ないほど輝いていた。それで満腹になってしまったのか、母はあまり食べずに、またしゃべりもしなかった。
 食事の三分の二がなくなった頃、イヴァンはやっと箸を一度置いて、秋山一家を見た。

「突然お邪魔して、こんなにご馳走になってしまってすみません。本当は友人の家に泊めてもらうつもりだったのですけど、一人は彼女が来るから止めてくれと断られまして」

 そう言うと、イヴァンは一度ため息をつく。「ま、彼女来るんじゃ仕方ないですけど」と、諦めきった口調でつぶやくと、今度は表情を一変させて、強く訴えかけるような目で一家を見た。一人事情を知っている秋山博士は苦笑いを浮かべている。

「もう一人の奴なんて、信じられます? 食費と光熱費、水道代、布団代、存在代、謝礼を払うなら泊めてやってもいいって言うんですよ! 上三つはどうとして、布団代と存在代、それから謝礼って、ひどいもんですよ。かれこれ八年以上の付き合いなのに。しかもふざけるなって言ったら、それからずっと着信拒否です」

 まだ怒りが収まらないのか、イヴァンはそれからもまくし立てる。
 その話を聞いて、嵐は何故か昨日国防軍本部前で会った、かの“守銭奴”高校生国防軍人の顔が浮かんだ。さすがに、それはないだろうと、嵐は頭からその憎たらしい顔を追い払ったが。

「ところで、イヴァンさん、軍医って言ってたっけ?」
「お、そうだ。シベル軍戦闘兵科付軍医、肩書きだけなら大尉って奴だな」

 イヴァンはそう言うと、胸に付いている二つのバッチを指差した。一つは赤十字で、もう一つは金のラインが入った階級章だ。おそらく、軍医と大尉を示すのだろう。しかし、まだ小学生の嵐にはよく分からなかったようだ。

「イヴァンさん、いくつ? 大尉ってすごくないですか?」
「ん、二十一。まあ、小学校出て、そのまま軍医の道に入ったから、見た目よりは長いよ」
「小学校出てすぐ!?」

 ちなみに、嵐は今小学六年生である。そうすると、これから一年経たずに働きだした計算になる。彼としてはこれから当然のように中学、高校、そして大学へと進学するつもりだったから、その世界の違いに驚嘆した。

「どうしてもさ、医者になりたかったんだ。でも、医者になるには金がかかるし、家は食べていくのでやっとだし、ただでさえ、俺、下に弟がいるから、そこまで金を使っちまうわけにはいかなかったんだよ。軍医として軍に入れば給料もらいながら医者の勉強ができるし、まあ、いいかなって思って、ね」

 そう言うイヴァンの表情には、どこか影があった。言葉の端々から、彼の境遇が、決して恵まれたものではなかったと言うことが分かる。
 それでも青年は笑う。その笑顔の下に何があったのか。分からない。しかし、その強さゆえに、彼は軍医としての、大尉としての、そして、エリートとしての、今があるのだ。
 イヴァンは再び食事に手を付け始めた。無限の胃袋。そう言う以外ないだろう。
 結局彼は、“秋山家、恐怖の絶対に余るフルコース”を、一人で難なく食べきってしまった。