ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第三話 北国軍医と真夏の夜-2


 深夜。
 満月の明かりが窓を介して差し込んでくる。
 住宅街であるこの辺りに、深夜の人通りは全くない。静かだった。都会からは少し離れた、いわゆるベッドタウンだから、星もまずまず綺麗に見える。
 もっとも、北の国、しかもその田舎で育った彼にとっては、まだまだ物足りないものであったが。
 しかし、風に揺れる緑の木々に、各家の玄関においてある色とりどりの花というのは、見ていて飽きないものだった。気候の違うシベルではそんなか弱い植物は育たないし、何より彼の故郷では夜中も灯る電灯というものはないのだ。
 イヴァンは貸された一室のベッドの上で、今度こそ寝入れるかと、窓の外を眺めるのをやめて、布団をかけて寝転がった。だが、どうも寝苦しい。布団を跳ね飛ばしてみる。少し楽になったかもしれない。しかしそれもつかの間、ひとたび慣れてしまえば、その開放感もたいしたことなかった。

「……暑い。暑い、暑い。よく大和人はこれで生きていけるな」

 秋山家の人々に、就寝の挨拶をして早二時間。時刻は一時を少し過ぎた頃。母語であるシベル語でつぶやいた忌々しげな言葉は、ただでさえ暑いのに、それを増長させてしまったようだ。
 こういう時、普通どうするべきか。イヴァンは起き上がって考える。純粋な大和人なら、おとなしくクーラーを付けると言う選択肢を選ぶだろう。だが、クーラーは金持ちの道具であり、泊めさせてもらっている身には贅沢すぎると考えたイヴァンは、せっかく付けておいてもらった冷房を自主的に切ってしまった。

「そうだ! 誰かに電話でもして暇つぶしをすれば」

 イヴァンは思いつくや否や、ベッドから降りてかばんから携帯電話を取り出した。――ただの迷惑人間である。
 アドレス帳を開くと、さすがにシベル人の名前が多かった。だが、ところどころに大和人らしい漢字併記の名前もある。そして、その中の一つのところでカーソルが止まった。
 そこには“福井竹丸”とあった。

「竹丸なら遅くまで起きてるし、特に問題は……あ」

 今まさに通話ボタンを押そうとした時、間一髪で思い出したのだ。

「あのリア充め。ハ、彼女がどうした馬鹿野郎。くそう」

 どこかの犬が遠吠えをした。それは悲しい男の泣き声にも似て、イヴァンはしみじみとその声を聞いていた。
 懲りることなく、イヴァンはさらにアドレスを調べる。彼のアドレス帳は基本的に登録順である。最後のほうまで来ると、大和人の名前は見えなくなっていった。気にせずカーソルを下げていく。すると、本当に最後のほう。下から数えて二番目に、漢字表記の名前が現れた。それを見ると、“東郷三笠”。

「さすがに、着信拒否も切ってるだろ。……お」

 ボタンを押そうとしたイヴァンは、またもやすんでのところで手を止めた。電話がかかってきたのだ。携帯電話の液晶には相手の名前が映し出されている。それを見ると、何と息の合ったことか。“東郷三笠”とあった。

「よう、三笠。さっきはよく断ってくれたな、おかげでめちゃくちゃうまい飯にありつけたぜ」
「ほお、それはよかった、俺もいい感じに金が浮いてせいせいしてる」

 シベル語の会話。互いに、その口調はとげとげしい。だが、その軽い響きやどことなく芝居がかったところから、二人とも本気で怒ってはいない、という印象を受ける。分かっているからこその悪ふざけ。そんなところだろう。

「で、イヴァン。何で大和に来たんだ?」

 携帯電話の向こうから聞こえてくる声。問いただすようなものではなく、ただ単に好奇心から訊いたような口調。イヴァンは、当たり前かと思う。確かに給料の半分近くを大和旅行に使ってはいるが、前触れもなく来て泊めてくれと頼んだことは、これまで二、三回しかないのだ。

「大和国防軍から要請を受けてな。至急来てくれって」
「……そろそろ大捕り物ってことか」
「ま、その辺は竹丸が詳しいだろ。あいつが責任者らしいから」

 イヴァンはそんなことを言いながら、再びベッドの上に這い上がって胡坐をかいた。壁に背を預けると、案外楽であった。

「電話の用事は、そんなことじゃないだろ。で、どうした? 三笠」