ゆめたがい物語
作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第四話 エリート軍医とエリート国防軍人-1
「よう、早かったな、イヴァン」
夕日もすっかり沈んだ夜八時。
アパート階段を登ると、そこには三笠のよく知った顔の外国人が立っていた。昨晩のような電話での会話を除くと、なんだかんだで半年ぶりくらいだろうか。大してどこも変わっているようには見えず、髪の長さ、服装、表情なども、全く半年前と同じだ。
イヴァンは帰ってきたブレザー姿の親友を見ると、澄んだ笑顔で微笑みかけた。実は二時間立ったままで待っていた、などということは、年齢だけでなく精神的にも三笠より大人である彼は、絶対に口にしない。何事もなかったかのように笑顔を見せるだけである。
「ちょっと来たのが早かったみたいだな」
長時間待ったイヴァンは、何食わぬ顔で“ちょっと”という言葉を使う。さすがの三笠も、まさか二時間待たせたとは思わず、ポケットから鍵を取り出すと、そのまま親友を中に入れた。
玄関も部屋もあっさりとしていて、必要最低限のものしかない。イヴァンは思う。奇しくもそれは先程、三笠が彼を見たときと同じ。そう、相変わらずだと。
「もう少ししたら、竹丸先輩が来るから、まあ、それまでなんか飯作るから、お前は洗濯物取り込んで、たたんどいて」
三笠は一方的にシベル語でそう言うと、自分はキッチンに入っていってしまった。
早くも、食材を洗う音が聞こえる。ちゃぶ台の下から座布団を出そうとしていたイヴァンは、恐る恐るベランダ、および部屋の窓近くに目を移す。そこには、カッターシャツや下着類はもちろんのこと、布団やまくら、座布団のカバー、シーツ、マットなどといった、普段の洗濯では洗わないようなものまで所狭しと並んでいた。ここまでくると、人手が来ることを見越して、わざわざ大型のものまで洗ったのではないかと疑いたくなる。
一度ため息をつくと、イヴァンは早速作業に取りかかった。量は多いとはいえ、所詮一人暮らしの洗濯物。時には家族六人の洗濯物を一手に引き受ける彼の敵ではない。
しかし、実際たたむ作業もなかなか大変だ。三笠は、大体の家事に関してはプロの域に達しているのだ。何かあればすぐやり直しを命じられる。かくいうイヴァンもそれなりの域に達してはいるが。
しかし、どこか悲しい。ともかく、三笠レベルに達する前に、良い人見つけて結婚したいと、しみじみ願うイヴァンであった。
「たたみ終わったら次は玄関掃除な」
「……竹丸の奴、まだ来ないのかよ」
無念そうにつぶやくイヴァン。せめて料理ができたら。そんなことを思うが、それはそれでダメ出しが多いだろう。何せ三笠の“安売りのものだけ買う”と言う戦法の下、ちゃんとした食事を作るのは至難の業なのだ。
玄関に向かったそんな時、救いのチャイムが鳴り響いた。イヴァンは満面の笑みでそのドアを開ける。
「竹丸! ……あれ?」
その先にいたのは、ねじり鉢巻を巻いた、頑強そうな中年の男であった。イヴァンは笑顔を戻すこともできず、ただ固まっていた。
男も男で、まさか外国人の青年が出てくるとは夢にも思わなかったのだろう。こちらも目を点にして立っている。
そんな中で、エプロンを付けたままの三笠が玄関までやってきた。
「店長じゃないですか、昨日はご馳走様でした」
「おう、三笠君。ほたるの奴から今日は来ないって聞いてな、たこ焼き届けに来た」
男はそう言うと、持っていた出前用の容器からたこ焼きの入った皿を何枚も出した。まだ湯気が立ち上っている。三笠はそれを戸惑いながら受け取ると、とりあえず、全て流れ作業の如くイヴァンに押し付けた。
「昨日は出前の話を言い忘れたからな。このとおりうちでは電話一本で近辺ならどこでも届けるサービスをしてる。こう見えても君の勤め先の国防軍本部も出前のお得意さんなんだ」
そう言って、胸を張るたこ焼き安倍屋の店長。国防軍少尉東郷三笠としては、そんな国防軍御用達のたこ焼き屋があったことに愕然としていた。呆れると同時に、今まで利用しなかったのが悔まれてならない。ここのたこ焼きは本当においしいのだ。
「すみません、あんなぽっちのことでいろいろ良くしていただいて」
「娘の命に代えられるものはない。友達……もいるようだからちょうど良かった。それじゃ、三笠君、またよろしく」
颯爽と去るその後姿は、何にも変えがたくかっこよかった。
三笠は「冷める前に食べるか」と言うと、イヴァンが出していた掃除道具をてきぱきと片付け始めた。
次に玄関のほうで音がしたのは、それから大して経たず、五分後くらいのことであった。チャイムが鳴ることもなく、「入るぞ」という声と共にドアが開いた。二人とも出迎えには出ない。たこ焼きの魅力にすっかり囚われてしまっていたのだ。
「たこ焼き! しかもこの匂いは安倍屋か!」
玄関にいる段階から、そんな感嘆の声が聞こえてきた。すぐに青年は飛んでくる。後ろで一本に結んだ茶髪は、この時間になると少し崩れるようだ。
だが、そんなことは気にしない。ちゃぶ台の上のたこ焼きに、目をらんらんと輝かせている。匂いだけで分かったということは、彼は先程店長の言っていた国防軍の“お得意さん”の一人なのだろうか。
「これ、竹丸先輩の分です」
「三笠も目が高いな、ここのたこ焼き好きなんて」
差し出されたたこ焼きを、福井竹丸国防軍中佐はうれしそうに受け取ると、すぐに食べ始めた。
まだ暖かい。食べ慣れているようで、竹丸は中が熱いことなど全く関係ないように次々と放り込んでいく。その間に、イヴァンのたこ焼きはすでになくなっていた。
「うまいな、これ。あともうちょい食べたいくらいだな、三笠」
「お、俺のはやらないからな」
何となく、危機感を感じたらしい。三笠は満面の笑みのイヴァンからたこ焼きを隠すように背を向けた。それを見た竹丸はけらけらと笑う。
「今言うのもなんだけど、実は俺、安倍屋のたこ焼きを差し入れに買ってきたん――」
「――竹丸、ありがとう!」
言うや否や、イヴァンはちゃぶ台の下に置かれていた竹丸のかばんをごそごそと漁りだした。中には少し冷めてしまったが、ちょうど三人分のたこ焼き。竹丸もまさか同じものが届けられているとは思わなかったのだ。
さすがに、たこ焼きだけでは栄養が偏りすぎている。三笠は勝手にそんなことをつぶやくと、キッチンへと入っていった。再び調理の音が聞こえる。アジでも焼いているのだろうか。だんだんとそれらしい匂いもしてきた。
言われたことは最低限やるべきである。根が真面目で紳士的なイヴァンは、嫌がる竹丸を引っ掴んで、玄関掃除をしに歩いていった。

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