ゆめたがい物語
作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第七話 北国兄弟と大和文化-3
その後もボリスはいくつもの文化の違いにぶつかり、その都度兄に指摘されながら、何とか後は浴槽へ入るだけ、というところまでたどり着いた。
この辺りになると、流石の彼も周りを見て空気を読む、という大和の技を身につけ、イヴァンに教えられなくても、頭の上にタオルをのせて、そっと湯船へと入っていく。
「シャバゴクラク、シャバゴクラク」
突然、何事かつぶやいたボリス。湯につかり、体の力を抜いてのんびりしていたイヴァンはぎょっとして弟を見る。
周りの老人たちは何が聞き取れたのか、歯のない口を開けて大笑いしていた。
「今何つった? ボリス」
「え、さっきほかのお客さんが入った時に言ってた……お祈りか何かか? シャバゴクラクって」
「そんな大和語知らないぞ」
大和語に関しては、医術と同じくらいの自信を持つイヴァンである。それが慣用句であれ、方言であれ、わからないままでは引き下がれない。
ちょうど、近くに先ほど彼の方を叩いて激励した、かの老人がいる。何事も、先達は大切。イヴァンは頭を軽く下げながら、人生の大先輩に近づいた。
大和語を解さないボリスには、兄が何を話しているかわからない。
だが、雰囲気から、すっかり意気投合して上機嫌に語らっていることはわかる。
さらに、二人だけだった会話から、一人、二人と増えていき、いつの間にかイヴァンは五人の老人と熱い温泉の中で談笑する、という状況が出来上がっていた。
兄と老人たちとの会話に入れず、これからどうしようかと思っていた矢先、ボリスはどこからか、この浴場内とは違う、息苦しくない空気が入ってくるのを感じた。辺りを見回すと、外へと続くドアがあるではないか。
「兄さん、あのドアの先には何があるんだ?」
ボリスは老人たちに配慮しつつ、兄に小声で聞いた。
「ああ、露天風呂だよ。外にも風呂があるんだ。露天もいいぞ、俺はしばらくこっちにいるけど、先行ってろ」
笑顔でいうと、イヴァンはまた老人たちとの会話へ戻る。世代はもちろん、国境すらも軽々と超える。ここまできたら、彼のこの交流力はある種の才能だろう。
このままここにいてもどうしようもない。それどころか、真夏の室内温泉という最悪のコンディションの中で、吐き気すら感じ始めている。
ボリスは、タオルを手に持ち、老人たちに頭を下げると、露天風呂へと続くドアの方へいそいそと歩いていった。
ボリスが一人で露天風呂へいってから、優に三十分は過ぎた。室内浴槽談笑メンバーはさらに増え、今や十人弱の団体となっている。
「……ところで外人のあんちゃん、大和へは留学かい? 旅行にしちゃあ、こっちの言葉がうますぎるのう」
最初の方から話していた、白髪の少々恰幅の良い老人が、ずれかかった頭のタオルを直しながら訊いてきた。周りの客たちも、皆疑問に思っていたようで、うんうんと頷きながらイヴァンを見る。
「仕事ですよ、仕事。弟はただの観光ですけど」
「兄ちゃん若いのにもう出張が必要なほど働いてるのか。こりゃ頭が下がるな、うちの倅なんて隣町に配達行くのも渋るってのに」
ほかの老人から見ると少しばかり若い、わずかに黒い髪の残っている男が、ため息まじりにつぶやいた。何人かは他人事に聞こえなかったようで、「偉いのう、兄ちゃんは」と感慨深げに同意する。
タオルが熱くなってきた。これで何度目だろうか。イヴァンは一度浴槽を出て、タオルを冷やしにいく。その様子を見ていた、先ほどから会話に加わった長い白ひげの老人は、ほお、と目を丸くした。
「おぬし、いい体つきじゃな、スポーツか何かでもしてるのか?」
「ええ、柔道を少々」
湯船に入り直しながら、イヴァンはにこやかに微笑みながら答えた。本当は軍に在籍している、といえば話は早いのだが、それを言う気にはどうしてもなれなかった。
「少々なんて謙遜するでない。その筋肉じゃ、相当強いだろう。……悔しいものじゃ、最近大和は柔道で負けっぱなしでの。何年か前に国際大会で優勝した子も最近話題にすら出てこぬ。もう、高校生くらいだと思うんじゃがな」
その言葉に、イヴァンは思わず意味ありげな苦笑いを浮かべる。
だが、その表情はもやでかすんだのか、誰に指摘されることもなかった。ただ、シベル人の青年の中で、気まずさに似た感情が渦巻き、ふと親友の顔が浮かんだ。
体つきを指摘した白ひげの老人は、そのまま話し続ける。
「今大和で強いって言ったら何じゃろうな、国防軍の甥があり得ないほど強い中佐殿と少尉殿がいるとか言っておったが……」
「いやいや、やっぱりあれやないか? ほれ、キツネ面。……兄ちゃん、キツネ面って知っとるか?」
苦笑いを浮かべたまま、心が完全に別の場所へ飛んでいたイヴァンは、耳慣れない訛った大和語を聞いて、不意に現実に引き戻させられた。
「え、あ、キツネ面、ですか。あれですよね、チカラを持った犯罪者、および元犯罪者を殺してるって」
「流石兄ちゃん、大和の問題ねんに勉強熱心やな。あんたもええ体つきやけど、キツネ面には敵わんやろ」
そう言うと、方言の老人ははげた頭を光らせながら、誇らしげに胸を張った。浴室内では声が反響して、耳にがんがんと響いてくる。老人の自慢。何かが、ずれているとイヴァンは思うが、突っ込むことはしない。
キツネ面。それは、十年ほど前から大和を騒がせている、謎の人物のことだ。
わらべ歌にもなっている。
『白い狩衣、身にまとい、黒髪闇に、なびかせて、正義の鉄槌、振り下ろす。笛の音高く、響いたら、すぐそこちょうど、その後ろ、キツネの面の、死神が』
どうやら、老人たちの話題は完全にその暗殺者へ移ったようだ。イヴァンは少し彼らとは心の距離を置き、湯の白いもやに身を任せ、その会話をぼんやりと聞いていた。
「チカラを持った犯罪者はおっかないからな。キツネ面がなんとかしてくれとるから、わしらも平和に生きていけるってもんや」
「でものう、いくら危険人物じゃからといって、突然殺して良いものかの」
イヴァンはそんな意見を聞きながら、ほう、と上を向いて息を吐き出した。汗が、こめかみから首筋へと伝う。すると、ちょうど時計が目に入った。思ったより長湯をしてしまったようだ。
何かを忘れている。そんなことを思ったのは、時計を見て、さらに数分あまり経ってからのことだった。その間に、何人かの老人は露天風呂へ行ったり、脱衣所へ行ったりと、談笑メンバーも少なくなってきていた。
もう何度目かわからないが、頭のタオルを冷やしにいこうと青年が立ち上がったその時、露天風呂のドアが勢いよく開いた。慌てて出てきたのは、ほんの少し前に露天風呂へと行った恰幅の良い老人。
「外人のあんちゃん、弟さん倒れてるぞ!」
「……あ」
こともあろうに、弟思いだったはずの兄は、その存在を小一時間もの間、すっかり忘れていたのだった。
急いで露天風呂へと行くと、湯に入ったまま、黄緑色の髪の少年が、風呂を覆う比較的平らな岩に突っ伏していた。心配するより先に、イヴァンは頭を抱える。おそらく、彼は休憩しながら入るということを考えずに、小一時間ずっと浸かり続けたのだろう。
「のぼせちまったか、兄ちゃん、弟さんその辺に寝かしときな、医者がいないか待合室探してくる」
ゾロゾロと室内風呂から様子を見に来た老人の一人は、早口でイヴァンにそう言うと、急いで露天風呂を後にしようとする。そこで、自責の念で頭痛のしていた青年は、己のするべきことを思い出した。
「あ、俺、医者です」
そう言ってからの行動は早かった。
周りの老人にタオルや水を持ってくるように、テキパキと指示を飛ばし、自分はぐったりしている弟を湯から引きずり出す。どうやら完全に意識を飛ばしている、という訳ではなく、朦朧としているという方が正しいようだった。
石畳の上に仰向けで寝かせると、ちょうど洗面器にたっぷりと入った水が届けられた。それでタオルを冷やし、頭、それから足先にのせる。何かの本を見ながらやっているのかと思うほど、その動きに無駄はなかった。
弟が倒れたというのに、慌てることなく一つ一つ冷静に済ませていく、外国人の青年。
先ほどまで他愛もない話で笑い合っていた老人たちは、そんな彼をあっけにとられて見つめていた。

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