ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第五話 大捕り物とムイ教徒-6


 薬品の臭いが鼻をつく。
 辺りでは指示を飛ばす声やそれに答える声、また誰かのうめき声や布を裂く音など、様々な音が入り混じっている。そのため、そこがどこであるかを理解するのは難しかった。
 意識が覚醒しかけ、不意に明るい光が瞼の裏側までも突き刺す。
 作戦本部三階の救護室。
 東郷三笠は、まぶしさから目を逸らすように寝返りを打とうとした。だが、突然腹部に激痛を感じ、目を大きく開けて思わず獣のような呻き声を上げる。

「あー、もう、動くな、馬鹿野郎。ほら、せっかく塞ぎかかってたのにまた開いた」

 不機嫌そうなシベル語が降ってきた。三笠は聞きなれたその声に、現実へと引き戻される。

「イヴァン?」
「珍しく派手にやったじゃないか。急所は外してもらったとはいえ、俺がいなかったら長引いたぞ、これは」
 
 イヴァンはそう言いながら、横向きの三笠を強引に仰向けにさせて、再び傷口に人差し指と中指を置いた。光線で打ち抜かれたときとは違い、傷は貫通しておらず、出血量もだいぶ押さえられている。
 イヴァンの指先が淡い光を放ちだした。紗江と同じように指先から出ているが、彼女のものとは違い、それには温かみと柔らかさがあった。光は傷の中に入っていき、少しずつだが、三笠の傷は塞がっていく。
 これは、イヴァンの持つチカラである。
 癒しのチカラ。イヴァンの体力と、それから患者の体力や血などを利用して、傷の修復をしていく能力である。世界中を探しても、このようなチカラを持つ人間は、五人といない。それ故に、イヴァンはこの業界で神の如く崇められているのだ。

「竹丸先輩は?」
「あれはチカラを使うまでもない。もう意識は戻って、お前が庇った秋山ジュニアを慰めてる」

 イヴァンはそう言うと、周りにいたほかの軍医に、別の患者に対しての指示を飛ばし始めた。イヴァンはまだ二十一歳という若さだが、その経験、実力から、世界中の軍医から一目置かれている。国防軍の軍医達も指示通りにてきぱきと動き始めた。
 周りに手の空いている軍医がいなくなると、青年はまた三笠にシベル語で話しかけた。

「お前にしちゃ、偉かったな。分かってただろ? 清原紗江だっけか。彼女に自分のチカラは通じず、絶対の防御も、何も意味を持たないこと。それでも、命をかけてでも秋山ジュニアを庇うとは」

 三笠の能力、瞬身と絶対的防御。
 彼の願いに対しては全くの役立たずであるが、これは何より三笠が生き延びるための能力ではないか、とイヴァンは思っている。何が何でも生き抜かないといけない理由を、彼は知っているのだ。
 それなのに、三笠はこの日、身を挺して人を庇った。普段ならありえないことであった。
 その時、三笠の傷口からの出血量が少し増えた。イヴァンは表情を変えずに光を微調整する。三笠の顔は悔しそうにゆがみ、泣き出しそうであった。

「違う、違う! 俺は、俺が守りたいのは……」
「……分かってる、分かってるさ、三笠。うん、せっかくの機会だ、数日間、ゆっくり休めよ」

 イヴァン相手に、三笠の言葉は大和語に戻っていた。心が不安定になっている証拠だ。こうなってしまっては、彼を落ち着かせるのが先決だろう。
 イヴァンは自分の配慮のなさを後悔しつつ、治療の力加減を少し変えた。三笠の血などを、治療に少し多めにまわしたのだ。その分、傷は速く塞がるが、使った分だけ当然三笠の意識は遠のいていく。少なくとも二、三日はおとなしく寝ざるを得ないだろう。今の三笠には良い休息になるはずだ。

 だんだんと、作戦本部三階の救護室も、外の事後処理隊と同じように静かになっていく。夕日も沈みかけ、紺色の空が迫ってきた。
 イヴァンは三笠の治療を終えると、手近な窓の外を見つめた。畑があった場所では、寝袋のようなものがいくつも並んでいる。この戦いで死んだ教会側の人達だ。
 イヴァンは、懐から手にすっぽりと収まるくらいの玉を取り出した。木製で、一体の女神が彫られている。

「主、わが命の主宰よ、あなたを信仰し、あなたの名の下に戦い、命を落とした子らに、安寧をお与えください」

 イヴァンはシベル語でそうつぶやくと、玉をかざして複雑な印を結んだ。そして、最後に膝をつき、玉に口づけすると、立ち上がって深々と礼をした。

「さすが、シベル人。完璧な作法だな」
「弟から習っただけだよ。俺が知ってるのは葬送の礼だけだ」

 知らない間に、イヴァンの背後には福井竹丸中佐が立っていた。頭にはぐるぐると白い包帯を巻き、額のところではわずかに血がにじんでいる。

「過激組織への見せしめだか、国民に対する軍事力のパフォーマンスだか知らないが、よくもまあ、ここまでムイ教徒なり味方なりを傷つけたもんだ」

 竹丸の方を向かずに、ただ徐々に暗闇へと沈んでいくムイ教徒たちの遺体が入った黒い布袋を目に映しながら、若いエリート軍医は吐いて捨てるように言った。
 踏み荒らされた畑に一台のトラックが入ってくる。おそらく、遺体を積んで処分するためだろう。
 親友の後ろに立ったまま、名目上の責任者は一言も言葉を発しない。白い包帯ににじんだ血が少し多くなった。

「まあ、お前も上からの指示でどうしようもなかったんだろうけど、俺はな、こういう戦いが、何よりも一番嫌いなんだ! お前の頼みじゃなきゃ、絶対に参加しなかったよ」

 一度コンクリートの硬い壁を強く蹴りつけると、イヴァンは女神の彫られた玉を懐にしまう。その代わりに、次は携帯電話を取り出した。等間隔で光っている。どうやら着信があったらしいが、仕事中につき全く気付かなかった。
 メールボックスを開くと、つい先程だったらしい。シベル人の名前があった。

「ボリスが……来るってな。竹丸の家に泊めさせて……もらうことにしただ? いつそんな」
「ああ、さっき電話で。お前の弟、お前とは似ても似つかない良い子だな。めちゃくちゃ礼儀正しいし、素直だし」

 竹丸はニヤニヤ笑いながら、件の“弟とは似ても似つかない”兄の横に立った。
 イヴァンは今回の件について、別に竹丸を責めているわけではない。さらに、彼には愚痴を言うだけ言ったらすぐに吹っ切る潔さがある。
 それが分かっているからこそ、竹丸は笑って、軽くおどけることができたのだ。
 一方で、イヴァンが親友の嫌味に反論することはなかった。というより、できなかったのだ。弟については全くその通りであり、素直でない兄は面倒くさそうに顔をしかめると、大きな欠伸をした。

「……じゃ、俺はもう寝るぞ。竹丸、作戦の責任者として、俺が起きたらあのたこ焼き腹いっぱい食わせろよ。まさか、三笠まで治療する、破目になる、とは思わなかっ、た」

 イヴァンは立ったまま、突然力が抜けたように倒れこんだ。
 すかさず竹丸は意識のない親友を支える。イヴァンのチカラは、三笠や竹丸とは比べ物にならないほど体力や精神力を使うのだ。こうなっては丸一日寝たままである。
 竹丸はイヴァンを近くのベッドに寝かせると、先程の親友と同じように、窓の外を眺めた。駆け足のように、空は暗くなっていく。
 見よう見まねで親友が行っていた葬送の礼をしようとするが、うまくできずに、ただ手を宙でかき混ぜるだけになってしまった。
 どこかで、カラスの声が通り過ぎていった。