ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第三話 北国軍医と真夏の夜-3


 かれこれ三笠とは、八年以上の付き合いのイヴァンである。何を言わなくても、その心は時として手に取るように分かる。
 一方で、三笠は何も言わない。今、彼はどこにいるのか。電車が走っていくような音が聞こえた。
 イヴァンはいつまでも待つ。元々気は長いほうと自負しているが、実際そのとおりで、貧乏から出世を勝ち取ったその人間性は、同年代の青年たちと比べて格段に練れていた。

「あのさ、イヴァン」

 それは、二本目の電車の音が通り過ぎた後だった。電話の向こうの三笠の声は、この暑さにも拘らず震えている。そして何よりも、暗く思い詰めた響きがあった。
 予想していなかったわけではない。イヴァンは壁から背を離す。背筋を伸ばし、注意深く再び親友が口を開くのを待った。

「……もう、時間がないらしい。俺は、どうしたらいいんだ?」

 胸を無理に締め付けて出したような、痛々しい声だった。言葉も、いつの間にか大和語になっている。
 イヴァンの表情は変わらない。そんなことだろうと、あらかた想像していたのだ。ふと窓の外の、輝く星に目をやる。
 三笠の嗚咽が耳に入ってくる。
 イヴァンは自身の手を見つめた。目を一度ぎゅっと瞑る。それと同時に、手も硬く握り締めた。無力感に苛まれる。そのこぶしで、そのまま自分の額を強く殴りつけた。

「この“チカラ”は何のためにあるんだよ、何にもできない、何の解決にもならない、俺は……」

 三笠の、呆然とした呟き。それは、もしかしたら他でもない、自分自身の叫びだったかもしれないと、イヴァンは思った。
 チカラは、強い思い、願いに対して、神様から授けられる。だからこそ、イヴァンも三笠もチカラを持つ。何にも変えがたいほどの思いを、二人とも抱えて、こうやって軍という厳しい世界で生きているのだ。
 しかし、チカラが夢を叶えてくれるわけではない。あくまで願いを叶えるのは自分であり、そのためにチカラをうまく利用して、夢を現実にする必要がある。
 イヴァンは長い付き合いだけあって、三笠の思いも、願いも夢も、他の誰よりも知っている。三笠に与えられたチカラが、いかに彼にとって役に立ち、そしてそれ以上に役に立たなかったか。その辺りのことは、よく分かっていた。

「明日は、泊めてくれるな、三笠」
「……特別に、食費と光熱費と水道代で我慢してやる」

 軽口を叩けるだけの元気は、かろうじて三笠の中にも残っているようだ。イヴァンは少し安心する。まだ、彼は絶望していない。まだ、夢も願いも捨ててはいない。それならば、後は三笠がどう動き、そして。

「俺がいかにうまく動けるか、だな」
「どうかしたか? イヴァン」

 心のつぶやきは、思わず口から出てしまった。三笠は、イヴァンのシベル語に合わせて、不思議そうに外国語で尋ねる。再び、電車の音がした。本当に、彼は今どこにいるのだろうか。イヴァンは思わず苦笑いを浮かべた。
 時刻は一時半を回ろうとしている。イヴァンは、胡坐を崩してベッドに寝転がった。さすがに、眠気が襲ってきたのだ。

「いや、何でもない。朝も早いからそろそろ俺は寝るぞ」
「ん、それじゃな、イヴァン」
「お前も、仕事ばっかしてないで、そろそろ帰って寝ろよ」

 返事はなく、すぐに電話は切れてしまった。
 まだ暑いことには暑い。だが、先程と比べると、幾分から楽になった気がする。
 イヴァンは布団にもぐりこむと、ゆっくりと目を閉じた。だんだんと薄れていく意識の中で、三笠のことが気にかかる。“時間がない”と、その言葉が心を占める。

「は、吹っ切ったつもりだったんだけどな」

 つぶやくイヴァンの閉じた瞼の隙間から、一筋の涙が流れ出す。青年は袖で強引にそれを拭うと、何かから逃げるように、布団を頭までかけてしまった。
 月明かりが、膨らんだ布団を照らす。平等に降り注ぐ光。だが、隠れているものに対しては、とことん無視をする。青年は常々思う。願わくは、せめて三笠には与えられるように、と。

 ――俺も、いつかは、いつか、照らされたいけどな。