ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第四話 エリート軍医とエリート国防軍人-2


「……さて、お子様も寝たことだし」

 夜中、ちゃぶ台を片付けてしかれた布団の上。横になっていたイヴァンは、寝ている竹丸を蹴飛ばすと、シベル語でつぶやいた。

「何だよ、トイレなら自分で行けな、二十一にもなって」
「なわけあるか、竹丸。久しぶりに会ったんだから酒くらい飲もうぜ」

 たたき起こされて、不機嫌そうにぶつくさたれる竹丸は大和語。それに対して、夜中だというのにやたらテンションが高いイヴァンはというと、母国語であるシベル語。両者とも、どちらの言語も扱えるが、二人で話すときは、今のようにたいてい自分の言語を勝手に使っている。感情表現が楽、という理由らしい。
 ちなみに、三笠がその中に入ると、何故かシベル語に統一されてしまう。竹丸曰く、「三笠は変なところ気を使うから」――余談として。

「昔から、竹丸が、これ見よがしにブドウワイン飲んでる横で、寂しくブドウジュース飲まされてた時代はようやく終わりを告げて」

 嫌味のこもった自作の歌を口ずさみながら、イヴァンは自分のかばんの中からコンビニで買ったビール缶を二つ取り出した。三笠に対しては大人の態度を取る彼も、“年上の”親友相手に容赦の二文字はない。
 竹丸は寝ぼけ眼をこすりながら、のそのそと起き上がる。しかし、そんな状態でも、正確に投げつけられた缶をしっかりと片手で掴むことはできたようだ。
 部屋の電気をつけなくても、外の月や街灯で十分に明るい。イヴァンは布団の上で胡坐をかいた。
 三笠は一度寝たらなかなか起きないという特技を持っているが、それでも多少は自重しなくてはいけないだろう。何せ家主は彼なのだ。竹丸もその辺りに気を使って、小さく抑え気味に口を開いた。

「お子様って、俺から見れば二十一歳も十分若い衆だぞ」
「その顔で三十路越えてますなんて言われて実感が湧くか、この野郎」

 イヴァンはむすっとした表情でそんなことを言いながら、ビールのふたを開けた。
 そう、竹丸はまだイヴァンと大して変わらないように見えるが、実際のところ十は離れているのだ。初めて会った頃のイヴァンはその事実に全く気付かず、同年代の友人として接していたため、今更直すこともできず、十歳も年上の男に向かって堂々とタメ口を利いている。竹丸も竹丸で、その手のことには無頓着であるから気にしていない。
 そして、二人の会話を聞いていた人はまた勘違いするのだ。「福井中佐はまだ二十代前半だ」と。
 やっと、竹丸も目が覚めてきたようだ。一度大あくびすると、缶のプルタブに手をかけた。

「ちょっと待て、イヴァン」
「何だ?」
「さっきこれ、投げた、よな」

 無言で、引きつった笑顔を造るイヴァン。確かに投げた。炭酸ものを投げた。事実である。
 竹丸はため息をつくと、それを持って台所のほうへ行った。そして少し経つと、ビールが溢れ出る独特の音が静かな部屋中に響き渡った。
 苦笑いを続けるイヴァンの頭が突然殴られる。いつ移動したのだろうか。台所にいたはずの竹丸が、ビール缶を持ったまま背後霊の如く突っ立っていた。

「“チカラ”使うこたないじゃないか、たかだか炭酸噴き出したくらいで」

 イヴァンは殴られた頭を押さえながら、ぶつぶつ文句を言った。
 対する竹丸は、そんな言葉に耳を傾けることなく、布団の上に座って一口飲み込む。噴き出した分、だいぶ中身は減ってしまったようだ。竹丸は無念そうにため息をついた。
 そんな親友を見て、イヴァンは思わず微笑を浮かべる。それは月明かりのようにほのかで、優しいものだった。

「殴られてそんなにうれしかったか」
「人を勝手に変態に仕立て上げるな馬鹿」

 余計な言葉で一瞬、柔らかな笑みは消えた。だが、その一瞬だけだった。
 イヴァンは窓の外を見つつ、再び優しい表情になる。ベランダからわずかに見える月。青白い明かりの下でビール缶を手に、青年は親友を見た。

「お前さ、相変わらずため息は多いけど、表情、良くなったな。ちゃんと笑えるし、怒れるし、呆れられるし。本当によかった」
「何を偉そうに」

 竹丸は親友から目を逸らしてつぶやくと、表情を確かめようと大まじめに自分の頬をつねりだした。
 イヴァンは、竹丸にかつて何があったのか知らない。過去は知らず、目指している未来も分からない。いつか、彼が話せる日が来ればいいと思う。その時は、何時間でも酒や愚痴に付き合うつもりだった。
 
「……いつかさ」

 竹丸はふいに熟睡している後輩のほうに目を向けた。いつもは大人の中に混じって生きている少年だが、寝顔だけは歳相応である。

「こいつが心から曇りなく笑える日が来たらいいな」

 竹丸の言葉に、イヴァンはにっこりと笑って何事かつぶやいた。それは古いシベル語だった。今の言語体系とはかなり違うため、竹丸には何と言っているのか分からない。
 だが、訊き返さなかった。
 
 布団に再び入って、イヴァンはすぐ隣の壁を見つめる。絵が一枚掛かっていた。淡紅色の、美しく儚げな花。イヴァンは知っている。これは三笠が描いた絵だ。背景も何もなく、ただその花だけが白い紙いっぱいに描かれていた。まるで、それこそが世界であり、他は何もないとでも言うように。
 花の名は、芙蓉、という。