ゆめたがい物語
作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第六話 ムイ教徒と異国の病院-4
言ってしまってから、ボリスは己の言い過ぎに気付いたようだ。
椅子に座り、消え入りそうな声で「ごめんなさい」と頭を下げる。彼は基本的に礼儀正しい紳士であるが、その一方で熱心なムイ教徒でもあるのだ。
シベルをはじめとしたムイ教圏の文化と、大和国の文化とではそりが合わないことが多い。彼の兄、イヴァンは宗教に無頓着だが、むしろそう言う人間のほうが少数派である。
「今度、店長に言って“たこなし”で作ってもらうよ。悪いな、俺も無理に勧めて」
「……何にも、壁もなく楽しめる兄さんが羨ましいです。僕は、大和語だってほとんど分からないのに」
ボリスは、そう言いながら膝の上で自分のこぶしを強く握り締めた。その間にも、三笠は黙ってたこ焼きを食べ続ける。
窓から入ってくる日差しが、少し強くなった。ちょうど、ボリスの背中を明るく照らす。窓の外の青空。三笠は爪楊枝を置いて、その澄んだ色を目に映しながら、口を開いた。
「イヴァンも俺も、八年前に会ったころは、身振り手振り、それから絵で描き示しながら、意思疎通を図った。結構勘違いだらけだったな。喧嘩ばっかだ」
今となっては、懐かしい記憶であった。イヴァンは十三歳、三笠は八歳。その出会いは、ただの偶然だったかもしれない。たまたま、大勢いる中から、二人は同じ部屋になった。
それは、柔道の合同強化合宿だった。
「母さんが、シベル留学の経験者だったのが救いだった。文法習って、今度は言葉の壁なんかなしにあいつと話すんだって、そう思ってた一年後の合宿で、イヴァンが同じように片言の大和語を話せるようになって現れた時は、大声で笑いあったな」
そう語る三笠の表情は、かつてボリスが見たことがないほど、晴れ晴れとしていた。この頃は、イヴァンも、また三笠も、今のような強い願いによって現れる“チカラ”を手にする前の、ただの見習い軍医と小学生であった時代だ。
三笠は、視線を澄み渡る青空から親友の弟へと向ける。たまに見せる、どこまでも優しい表情。少年の一番好きな顔であった。
ボリスは、強く握り締めていたこぶしを解き、白いレースのカーテンを締めながら、ふと心に浮かんだ疑問を口にした。
「……三笠さんは、どうやってそんな、シベル人もびっくりなシベル語が、しゃべれるようになったんですか?」
「ん、それは簡単だ。イヴァンの奴の長電話に毎日付き合えば、嫌でも語学力は身につくよ」
嫌味にも聞こえるその答え。だが、決して非難の色はない。三笠は、カーテン越しの淡い日差しの中で、目を細めて笑っていた。
「語学力も勉学も、しっかり身に付けろよ、ボリス。維持費が掛からない上に、それで稼げることもあるからな」
「三笠さんらしいや」
三笠の言葉に、ボリスは思わず声を上げて笑った。
守銭奴三笠。天才として名高い三笠は、国内外の軍隊でこう揶揄されることが多い。若すぎる才能への、嫉妬や妬みも多く含まれているのだろう。
だが、当の彼はそんな評判は気にしない。そして、同じようにボリスもそういった類の話は徹底的に無視している。金への執着心の裏に、何か強い思いを感じ取っていたのだ。
「やっぱり、兄さんが羨ましい」
「語学力か? イヴァンもお前と同じ歳からはじめたんだから……」
「いいえ、やっぱり何でもないです」
ボリスはそう言うと、もう一度ひとしきり笑って、椅子から立ち上がった。淡い日差しに照らされた顔は微笑んでいる。だが、どこかその明るさの中に、薄い影を落としていた。
「お見舞いに来たのに逆に励ましてもらって、すみませんでした。ちゃんと治るまでおとなしく寝ててくださいね、仕事とか、こっそり抜け出しちゃだめですよ」
保護者のように、あれこれと釘を刺してベッドから立ち去るボリス。もちろん、ほかの入院患者一人ひとりに頭を下げていくことを忘れない。
かの老婦人にシベル語で分かれの挨拶をすると、両手で病室のドアをゆっくりと開けた。廊下に響くガードルなどの雑音が、遠くから響いてくる。最後に、病室のほうを向いて一礼すると、音を立てることなく、少年は丁寧に閉ざした。
「抜け出すな、ね。何で、あの兄弟はこうも、痛いところをついてくるかな」
そう大和語でつぶやくと、爪楊枝を再び手に取り、三笠は残りのたこ焼きを食べ始める。
かもめの音すら聞こえない。白い病室は、時が止まったように静かだった。

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