ゆめたがい物語
作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第八話 夢見る少年と夏祭り-1
太鼓の低い音が、体の芯にまで響いてくる。
昼までは大雨だったが、今では信じられないくらいに雲は晴れ、月が微笑みを湛えて顔を出し、さらにぼんぼりの明かりが、楽しげに神社の石畳を照らしていた。
参道では、色とりどりの袖がひらひらと舞い、威勢の良いかけ声があちらこちらで飛んでいる。
夏祭り。
そんなにぎやかな通りを、ほかの子供と変わらない軽やかな足取りで進む黒髪短髪の少年が一人。
「中……竹兄ちゃん、綿あめ買って!」
「嵐はよく食うなぁ。はいよ、綿菓子な」
長袖に半ズボン姿で無邪気に笑う、小学生の“弟”。その頼みを呆れながらも聞いてやる“大学生”の“兄”。
福井竹丸は青い縦縞をした浴衣の袖から財布を取り出し、禿げた綿菓子屋の親父に小銭を手渡した。
「坊主、良い兄ちゃんがいて幸せだな、歩きながら食べるんじゃないぞ」
電球で頭を光らせながら、親父は綿菓子を手渡した。様々な客を見てきた彼にも、この二人は十歳ほど年の離れた兄弟にしか見えなかったのだろう。
嵐は「うん」と大きくうなずくと、屋台の並んでいる参道から少し離れた木の下まで歩いていった。にぎやかで明るい屋台通りとは違い、そこはぼんぼりすらなく、わずかに置かれた照明だけが辺りを申し訳程度に照らすといった場所であった。
「あ! 当たりだ! やった、もう一本もらえる!」
早々と食べ終えた嵐は茶色の目を輝かせながら、隣の竹丸に赤く塗られた割り箸の先を見せた。
生温い夜風が二人の前を通り過ぎる。辺りに広がる竹林のさざめきが、祭りの音をかき消すように流れた。
竹丸は風に袖を揺らめかせながら、わずかに目を左へ動かす。すると、こちらも薄い笑みを浮かべた。
「俺も“当たり”だ……職場見学したいなら、ついてこい」
そういうと、一本結びにした長い茶髪を静かに踊らせ、竹丸は竹林の方へと歩いていった。
割り箸を鞄にしまうと、嵐もその後を追っていく。さざめきとともに、波の行き来する音も聞こえてくる。竹林の先には、海岸があるのだ。
「作戦通りだ。全然気づかれてない。やっぱ、子供連れだと紛れ込みやすいな」
竹丸は雨の雫で湿った竹林を歩きながらつぶやいた。連れの少年以外、近くに誰かがいる気配はしない。ただ大きな狐が走り去っていく。人気のない場所であった。
「俺役に立ってますか? 中佐みたいな国防軍人になりたいから、すっげーうれしいな。職場見学もできるし」
息をひそめつつそういう少年に、竹丸は静かな微笑みを浮かべた。
職場見学。それはかの大捕り物の後のこと。何の役にも立たなかったどころか、目の敵にしていた東郷三笠に身を挺して庇われ、落ち込んでいた秋山嵐に、福井中佐が約束したことに始まった。
「今度仕事の手伝いをさせてやる」と。
今回中佐が追っている事件。それは国防軍の任務ではなかった。彼が自分の勘で動いただけであった。用心深く、さらに情報収集に長けている相手だから、少しでもそういうそぶりを見せてはいけない。そのため、国防軍にも、また犯罪者逮捕を職としている憲兵隊にも、連絡は入れなかった。
念には念を。見る人が見ればすぐに国防軍人と分かる男が、一人でふらふらと祭りにいたら違和感がある。そこで彼は、どこにでもいる小学生である嵐に同行を求めたのだ。
「でも、やっぱり親子設定にした方が良かったんじゃないか? 二十歳以上年の離れた兄弟なんてそうそういないぞ」
「福井中佐、三十代半ば近くなんて今日初めて知りましたよ。どっからどうみても大学生くらいじゃんか」
実年齢に似合わない若々しい顔でため息をつく竹丸。自覚がないのだ。嵐はまた違った様子のため息を一つ。しかし、それは当の本人に届くことなく、いつの間にか波の音の中に消えてしまった。
数分歩くと突然竹林が開け、目の前には月に輝く黒い海が広がっていた。
遠くの海には何隻もの船が並び、今も二人のいる砂浜から離れたところで船が次々と出されている。
「中佐、あの人たちは何やってるんだ? もしかして、今日戦う感じ?」
腕まくりをしながら意気揚々という小学生。今にもその手のひらから炎を出さんばかりだ。
竹丸はその腕をつかみ、苦笑いを浮かべた。
「夜中から海の区の花火大会があるんだよ。雨も止んだしな。あの船で花火を打ち上げる台船に職人さんとか花火とかが移るんだろうな。お前さん、さっきの露店が花火大会関係のって知らなかったのか?」
「だってあの花火大会遅くて見たことないし。なんで日が変わってからすんだろ」
嵐は竹丸の呆れ顔に対して、膨れっ面になって返した。思わず、大きな声を出してしまったが、咎められることはなかった。
月明かりが二人を照らす。その淡い光の中で、竹丸は目をつむって、まるで学校の授業のような口調で語りだした。
「……外暦一七一七年、大和国において伝染病の大流行、さらに大飢饉も加わり、数十万という人々が命を落とし、また、娘を売ったり生まれた赤子を殺したりする風習も広まった。死者への追悼、それから暗雲立ちこめ絶望した人々に光をともそうと、遅い朝日の訪れの前に花火職人たちが打ち上げたのが始まりといわれている……物事にはちゃんと歴史もあれば意味もあるんだよ」
「中佐、先生みたいだな。“竹兄ちゃん”じゃなくて“竹丸先生”って感じ? さすが首席! 強いだけじゃなくて頭いいなんてすっげー!」
むくれていた少年の表情は、独り語りを聞くにつれ、どんどん尊敬の念を込めたものへと変わっていった。月明かり故だろうか。その瞳ははっきりと分かるほど輝いている。
その時、嵐は気づいていなかっただろう。竹丸は、表情に影を落とし、強く唇を噛んで、輝くその茶色の瞳から目を逸らしていた。
「……さて、ゆっくりしている時間はない。行くぞ、動き出すとしたらそろそろのはずだ」
表情の影を微笑みで消し去り、福井中佐は船が出ている方へと歩いていく。
祭り囃子の音が竹林の向こうから流れてくる。波の単調な音に、笛やら太鼓やらの盛り上がりを見せる音。そんな二つの真ん中では、ただ雨で濡れた砂の上を黙って行く湿った足音が微かに聞こえる程度であった。

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