ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第七話 北国兄弟と大和文化-1


 日はすっかり沈み、夜空では無数の星が輝いている。
 病院を出た後、どのように帰ったのか。ボリスはよく覚えていなかった。
 何度も、かの少女の助けを求める声が、耳元で叫ばれているように反復する。バスで立っていても、そのあと道を歩いていても。
 ぼんやりしすぎて、通りで人ともぶつかった。どうやら相手も雑誌を読みながら歩いていたようで、どちらも互いに謝りながら去っていったが。
 落としたその雑誌の表紙には狐の面。薄暗い街灯の下で、ボリスに向かって妖しく微笑んでいた。
 泊まり先である福井竹丸の住むアパートに着いたのは、夜七時を過ぎだった。
 ドアの前にはプラスチック製の籠を手に仁王立ちする、黄緑色の髪をしたボリスと似た雰囲気の青年。ただし、服装は半そで半ズボンという、季節にあった涼しげなものであり、またその顔立ちは、切れかけている電球の薄明かりの下でも分かるほど整っている。

「よお、あと十分遅かったら迎えにいくところだったよ」
「兄さん、遅くなってごめん」

 微笑みかける兄に、ボリスは汗を拭いながら謝った。
 大和国は、二人の母国であるシベルと比べて暑い。それは夜になっても全く変わらず、学校で習った“熱帯夜”という馴染みのない単語の意味を、ボリスは身をもって学んだ。

「ま、いいさ。ボリス、風呂行くぞ、風呂」
「え、風呂?」

 唐突に、持っている籠を弟の目の前まで持ち上げながら、イヴァンは満面の笑みで言った。その中には準備良く垢すりや石鹸、タオルなどが入っている。

「大和に来たら、温泉に行かないとな。明日にはお前、帰るんだろ?」

 イヴァンは籠を突き出した手を下ろすと、弟に向かって優しく微笑んだ。心まで見透かされそうな、澄んだ青い目。ボリスは思わず兄から目を逸らし、アパートの廊下から見える、月を見つめた。この夜の月は、望月からは程遠い、下弦の月であった。
 夜の湿った風に一部だけ編み込んだ髪を踊らせながら、イヴァンは目を合わせようとしない弟の横顔を、相変わらずの微笑を浮かべたまま静かに見守る。それに気付かず、ボリスは月から兄へと視線を代えた。しかし、それでも、兄の切れ長の碧眼を見ようとはしない。

「それじゃ、竹丸さん呼んでこないと」

 紳士、良心、良い人。三つの称号を弱冠十三歳にしてほしいままにする少年は、早口でそう言うと、部屋のくすんだ銀色のドアノブに手をかける。
 だが、その手は頭の上から降ってきた無情な言葉によって、一度動きを止めてしまった。

「ああ、竹丸なら、ドクターストップ。まだ怪我治ってないし、俺権限で今日は家でゆっくりさせる」
「……だから昨日飲み会なんてしないで早く寝かせてあげればよかったのに」

 再び、忘れかけていた自責の念が、ふつふつと湧き上がった。夜風が生暖かさを運び、汗まみれの首筋にぶつかる。少年は掴んだままのドアノブに視線を落とし、深くため息をついた。

「どっちみち、竹丸さんに挨拶はしないといけないし、兄さんちょっとそこで反省してて」

 今度も、兄の顔は見なかった。
 くすんだドアノブをひねって、狭いアパートの中へと入っていく弟。家に上がるときは靴を脱ぐ。ついこの間までぎこちなかった動作も、合格点レベルには達したようだ。
 もっとも、まだはだしには抵抗があるようで、スリッパは欠かせないが。
 イヴァンはそんな弟の姿を、後ろから青い目を細めつつ見ていた。

「……さて、あいつ、今度はまた何を悩んでいるのやら」

 弟の姿が見えなくなったことを確認し、苦笑を浮かべながらつぶやいた青年は、アパートの廊下にある赤く錆びた手すりに左手を乗せた。
 どこに植えてあるのだろうか。百合の香りが風と共に歩き、目の前をゆっくりと通り過ぎていった。