ゆめたがい物語
作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第五話 大捕り物とムイ教徒-4
「これはこれは、美しい方。喜んで一服お付き合いいたしましょう」
乱入者の一人である福井中佐は、涼やかな美声でそんな軽い言葉を並べながら、美女に負けず劣らずの優雅な礼をした。隣の三笠はぎょっとして先輩を見る。ふと先程の、国防軍への非難が浮かんだ。
「竹丸先――」
咎めようとした三笠は、そこで思わず言葉を止めた。一瞬、背筋が凍りつく。そんな彼の様子は見た事がなかった。福井中佐の目はカッと見開かれ、今にも美女に向けている銃の引き金を引かんばかりだった。
「――もしそれが貴様でなかったらな、ムイ教南道宗、“王志会”のリーダー“王”の右腕、清原紗江」
福井中佐の言葉に、美女――清原紗江は懐の扇を開き、整った口元を隠した。目は不敵に微笑んでいる。
「さすが、福井中佐。良くご存知ですこと。東大“銀時計卒業”、勉強熱心でいらっしゃるわ」
「貴様らも、よくこんな末端兵士のことまで調べ上げたものだ。卒業以来、この銀時計を誰かに見せたことも、教えたこともなかったはずだがな」
中佐はそう言いながら、チャックの付いたポケットに手を突っ込み、鎖のついた懐中時計を出した。ふたに彫られている桜の紋が、窓から入ってきた昼の日差しできらめく。惚れ惚れするほど見事な純銀細工を手に、福井中佐は強く唇を噛んだ。
東大――東城大学という――銀時計卒業、それはその期において首席だったことを表している。大和国内、あるいはそれ以外の国からも、天才という天才が集められたそこは、まさにエリート集団。その厳しい競争の中で、一番という称号を獲得すると、将来への期待の象徴ともいえる、高価な銀時計を送られて卒業するのだ。
もちろん、その道のりは並大抵のことではない。当然、将来は政治の道なり、研究の道なりで、国をリードしていくことが約束されているとも言われている。それが、福井中佐の持つ銀時計の意味であった。
「やはり、欲しいわね、あなた方二人は。東郷少尉は“王”がとても気に入っていらっしゃるし」
どこか試すような口調で、二人に切れ長の目で微笑みかけると、紗江は視線を天井のシャンデリアに向けた。
三笠は胡散臭い話を聞いたとでも言うように、無表情の中で眉をわずかに上げて、相変わらず美女に銃を向けている。
福井中佐は、先程の唇を噛んだ険しい表情を、無理に無表情に戻していた。だが、銀時計はその分だけ強く握り締めている。力を込めて震える手。もう片方では冷静に拳銃を握っていた。
彼の平常心が保たれていたのは、そこまでだった。
紗江はおもむろに中佐に近づき、そしてその耳元で、そっとつぶやいた。
「あなたは、石川の、お気に入りだから」
あるいは、“石川”と、その名が出た時点から、中佐の心の崩壊は始まっていたのかもしれない。
紗江の首元に素早く手が伸びる。福井中佐だ。隣の三笠は、いつも温和で人の良い彼を見慣れているため、あまりの豹変振りに、止めることもできず、ただ後ずさりした。
福井中佐はそのままのど元を引っ掴み、首を絞めるかのように美女を壁へと押し付ける。壁に掛かっている宗教画が、その衝撃で音を立てて揺れた。
だが、そんなことを、今の竹丸が気にするはずがない。眉も目も、頬も鼻も口も、それぞれが紗江に向かって歪められているようだった。
「言え! 石川は、石川松五郎は、今、どこにいる!?」
首を締め上げながら、問い質すというひどく矛盾した方法。話せるはずがない。それでも、福井中佐は手を離さなかった。
三笠と嵐は、はっきりとそのときに気付いていた。紗江の表情に、いささかの苦悶も見られなかったことに。
危機を察知した三笠は、絨毯を蹴って中佐の元へ走ろうとする。しかし、美女が反撃に出たほうが早かった。
今まで全く抵抗しなかった紗江は、突然、のど元を締め付ける中佐の手に触れ、手首を掴んだかと思うと、そのまま彼を部屋の端まで投げ飛ばした。どう考えても細身の女。いったい、どこにそんな力があったのか分からない。
「竹丸先輩!」
三笠はすぐに方向を転換して、福井中佐を助け起こした。嵐も椅子から立ち上がって傍に駆け寄る。その拍子に彼の座っていた高価な椅子が倒れ、大きな音を立てた。
食器棚の角に頭をぶつけたため、福井中佐の額からは血が次々と流れ出ている。それにも拘らず、中佐は傷を押さえることもしない。よろよろと立ち上がる彼の手には、あの銀時計が離すことなく握られていた。
「石川は、どこだ……石川は、石川はどこにいる?」
それは、もはやただのうわ言だった。「石川、石川」と、何度もその名を呪詛の如くつぶやき続け、そして、一度大きくふらついたかと思うと、そのまま倒れこんでしまった。
銀時計が初めてその手から落ちる。絨毯の上で一度はねると、桜の紋が刻まれたふたが、ぱかりと開いた。三笠はそれを手に取る。時刻は三時二十五分を差していた。
そこで、違和感に気付く。三笠の腕時計は、一時を示しているのだ。
福井中佐の銀時計は、八年前の七月二十日、その三時二十五分でその動きを止めていた。

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