ゆめたがい物語
作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第六話 ムイ教徒と異国の病院-6
「あ……」
部屋に入って、少年はそんなかすれた声しか出せなかった。
真っ白な部屋。三笠の病室より狭いが、窓からは海が見え、かもめの声が聞こえる。それだけなら、そんなに違いのない病室だった。
だが、ベッドの上にいる患者。その状態が、三笠とは比べ物にならなかった。
頭部が、すっぽりと無機質な灰色の機械に覆われていたのだ。顔すら分からない。体の至るところに点滴やチューブが取り付けられているが、そんなことは気にならないほどの衝撃だった。
部屋に入ったときから、あの声は聞こえなくなった。目の前にいるのは生きているのかすら分からない、哀れな患者。
ボリスは、横にあった丸椅子に、力が抜けたように座り込んだ。自然と、手は懐に伸びる。女神の彫られた玉を、取り出すことなく握り締めた。
「主よ、お救いください……」
そう祈ることしかできなかった。助けを求められても、兄のように医術を持っているわけではない。この日ほど、己の無力を痛感した日はなかっただろう。
外を、かもめが嘲笑うかのごとく、自分より高い場所を飛んでいった。
「祈るだけじゃ、母なる女神は何もお与えにならない」
一心に祈りを捧げていた少年は、ドアが開いたことに気付かなかった。
深く、厳かな響きを持った若い男の声。それは紛れもないシベル語であった。
病室の白いドアの前には、黒くゆったりとした着物に茶色のマントを羽織った青年がいた。濃い茶色の目に、三笠たちと同じような系統の顔。大和人だろう。
茶色のマント。それは、ムイ教徒の中では高位の聖職者を表す。敬虔な信者であるボリスは急いで椅子から立ち上がり、膝を付いて正確な礼を捧げた。
「老師様」
「君はこの子に、助けを求められた。違うかい?」
そう言いながら、聖職者の青年は下駄をならしながら、ボリスのほうへと近づいてきた。大きな足取りだ。坊主頭で、首は普通の人より太く、肩幅も広くがっしりとしている。
坊主頭は、ムイ教南道宗では清廉潔白を意味している。つまり、北道宗を信仰するボリスとは宗派が違うことを意味していた。
だが、今は些細な事でしかない。少年は目の前の高位聖職者に礼を尽くして、すがるような表情で彼を見た。
「この娘は、幼い頃より病で入院生活を続けている。そして、数年前に、その意識すら失い、以来ずっとこのように眠り姫だ」
「そんな……」
膝を付いていたボリスは、思わず立ち上がり、ベッドの上の哀れな少女に駆け寄った。わずかに見える首筋は細く、また、青白かった。
「十年前までは伝染病と誤解を受けてきた病で、今でも差別は残っている。差別をしない人たちは、こんな機械をつけている状況を見て、死んでいるとみなして、心臓などの臓器を提供しろと言い出す。そして、提供しないと、それだけで家族もろとも無慈悲な人殺し扱いだ」
青年は腕を組みながら、無表情で淡々と語る。それとは対照的に、ボリスの表情は哀れみから絶望に、そして怒りへと変わっていった。矛先は簡単に誰とは言い切れない。得体の知れない何かが心でくすぶっている。
心の中に溜まった混沌とした感情の洪水。それを吐き出すように、敬虔なムイ教徒である少年は今まで口にしたことも、また考えたこともなかった疑問を聖職者の青年にぶつけた。
「老師様、何故、主は彼女をお助けにならないのですか?」
「違う、我らが母は、彼女に手を差し伸べられた。君に、彼女の声なき助けを届けられただろう?」
「あ……」
青年の言葉に、ボリスは病室に入ったときと同じような声を出した。だが、今回は力が抜けて呆然とした様子ではなく、顔を上げて自分の手を目の前に掲げていた。窓から入ってくる日差しが、彼の手を白く照らす。
「僕に、できることがあるのですか? 彼女のために、こんな、医術も、主からのチカラもない、こんな僕でも」
「君にできることは、君が何をしたいかによる。答えが欲しいなら、考えなくてはいけない。答えが欲しいなら、探さなくてはいけない。答えが欲しいなら、自分で行動しなくてはいけない」
そう諭しながら、青年はベッドの横に立って、布団の中から点滴に繋がれた少女の細い右腕を出した。ボリスは釘付けになる。可哀想だと、そう思う気持ちに代わって、愛おしいと、別の感情が湧き上がってきた。
「手を、握ってあげなさい。彼女との出会いが、きっと君を大きく変えるだろう。君は何がしたいのか。この小さな手から、何かを感じて、帰りなさい」
聖職者に言われるがままに、ボリスは再び丸椅子に座ると、そっとその手を取った。か細く弱々しい手。だが、その中に、確かなぬくもりと鼓動を感じた。
ボリスはその命を感じようと、少女の手を自分の頬に当てた。途端に、涙が溢れ出る。何故か分からない。相手は、顔も、姿も、名前すら分からない少女である。
「僕に、何ができる? 兄さんみたいに、医術もチカラも語学力も、三笠さんみたいな何でも話せるような、友達もいない……」
少女の手に、涙がとめどなく流れる。全く動かないその手が、優しく涙を拭うことはない。
聖職者の青年も、ボリスに手を差し伸べることはしなかった。与えたのは問いだけである。それどころか、無力に泣き続ける彼を、そのまま病室に置き去りにしてしまった。
それにさえ気付かず、少年は与えられた問いについて、機械だらけの部屋で考え続ける。
そのうちに、見舞いを締め切る放送がなった。それでようやく少年は我に帰り、少女のベッドの横にある時計を見た。だいぶ時間が経っている。
「もう、帰らなきゃ」
ボリスは涙を拭い、寂しそうに顔を歪ませて、頭部の機械ではなく、数少ない生身である少女の手に告げた。
沈みつつある日差しが、病室をオレンジ色に照らす。ボリスは握っていた白い手をそっと自分の手のひらに乗せ、椅子から降りると、窓に背を向けてベッドの前に跪いた。何かの鐘の音が、病室に響き渡る。
赤い光、深く響く音の中で、騎士の誓いでもするかのように、見習士官は少女の手の甲に口付けをした。
流れた涙が、少年の頬、少女の手にまだ残っている。それは夕日を受けて、窓の外に見える海よりも、美しく輝いていた。

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