ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第七話 北国兄弟と大和文化-4


「どうしてもさ、食べたかったもんがあるんだ」

 銭湯でさらに小一時間弟を休ますと、イヴァンは唐突にそんなことを言って、まだ多少の具合悪さの残るボリスを、無理矢理待合室のソファから立たせた。周りの老人たちは心配してもう少しいるように勧めたが、こういう時は医者の意見が絶対的である。
 結局、老人たちの願いもむなしく、イヴァンはずるずると弟を連れて、寂れた銭湯を後にした。
 下弦の月は竹丸のアパートを出たときと変わらず、山の上でぽっかりと浮かんでいる。畑のトウモロコシの陰では、一匹のキツネが息をひそめて顔を上げていた。
カエルの鳴く田んぼを過ぎ、大小さまざまな犬に吠えられながら住宅街も過ぎ、二人は車通りの多い国道に出た。
 銭湯で予想外に長居をしてしまったため、時刻は既に夜の十時過ぎ。それでも、車は絶え間なく目の前を通り過ぎ、歩道にもスーツ姿の酔っぱらった一団、学生鞄を提げて早足で歩く高校生、ジャージでランニング中の老人など、国道沿いのこの辺りはまだ眠っていないようだった。

「兄さん、大和の人は寝なくても生きていけるのか?」

 街灯すらない田舎育ちの少年には、明るい夜というのが不可解で仕方ない。恐る恐る兄に尋ねると、イヴァンは苦笑いを浮かべた。ちょうど、何かの看板の明るい光が、苦笑いを打ち消すように照らしつける。

「夜型なんだよ。そのかわり、お前みたいに朝の四時に起きたりはしないから……さて、着いたぞ」

 話しながら、イヴァンは大きな駐車場があるファミリーレストランの前で立ち止まった。
 背の低い植木があたりを囲み、それぞれを小さなライトが下から照らしている。入り口ではそれより大きく明るいライトが輝き、背丈ほどある旗にはパフェやハンバーグなどの写真がプリントされていた。 
 中は外見の華やかさとは裏腹に空いていて、本を開いた学生がコーヒーを飲んだり、くたびれた背広姿のサラリーマンが、遅めの夕食を食べていたりするくらいだった。さすがに、十時を過ぎると客も限られてくるのだろう。

「夕飯まだだろ? 奢ってやるから好きなもん食べろよ」

 ウェイトレスに案内された窓際の席に着くなり、イヴァンはカラフルなメニューを開いて弟に突き出した。どのページでも、様々な料理が所狭しと並んでいる。
 ここで、一番高いものを選ばないのが紳士、良心、良い人、この三つの称号をほしいままにする少年の生き方である。目に映るあまたの値段の中から、そこまで高くない、かといって、安すぎて遠慮しているようにも見られない、ギリギリのラインを見極めてボリスは夕飯を選んだ。
 注文は全て兄に任せて、ボリスは大きな窓の外を見た。すぐ近くの電柱が目に入る。そこには、一枚の指名手配写真。不気味なキツネの面をした暗殺者が写っていた。

「ここの抹茶パフェ、昨日竹丸の部屋の雑誌で見たんだけど、どうしても、食べたかったんだよ」

 イヴァンは弟に向かって無邪気に笑いかけた。ボリスは「また甘いものばっかり」と呆れた顔をする。その顔を凝視はせず、そして整った笑顔を変えることもなく、兄はじっと見つめていた。

「……温泉じゃ、散々だっただろうけど、ま、来年学校で大和旅行するんだろ。良い予行練習になったな」

 あくまで笑顔を変える事はない。イヴァンは、どこまでもきれいな笑みを浮かべている。
 それに対して、ボリスはふと暗い顔になった。

「そのことだけど、兄さん。僕、行かない。行かない事にした」

 一度落とした暗い影を、どうにか拾って微笑んだ弟。しかし、兄から視線をそらしたその表情は、暗いものよりも痛々しかった。
 イヴァンは何も言わない。腕を組んで、じっと弟を見る。そうしているうちに、イヴァンが頼んだセットのサラダが届いた。

「父さん、また入院するんだろ? 今度は、手術もするって言うし、いろいろお金もかかるから」

 腕をほどいてサラダを食べ始めた兄。ボリスはそれを機に、両手を膝の上に置いて絞り出すように言った。その手は兄には見えない。強く、握りしめていた。
 イヴァンは一度フォークを置く。笑顔はない。強さを感じる碧眼でまっすぐに弟を貫いていた。

「バカ、金なら俺がなんとでもしてやる」

 ボリスが大和に来るという話を聞いたときから、何となく、イヴァンは予感がしていた。家の経済状況が分かるようになってきた弟が、いくら軍で見習いとして働いて貯めた金だとしても、思いつきの旅行で消費するはずがない、と。
 一度軽く息を吐くと、イヴァンは優しい笑みを浮かべた。

「今回大和に来たのも、諦められなかったからだろ。飛行機代だけなら、お前の貯金で何とかなったはずだからな。……今度は、学校の友達連と楽しめよ。金なら大丈夫だから」
「でも……兄さんには、良い中学行かせてもらってるし」

 そんな弟の言い分も、兄には十分予測できていた。食べかけだったサラダに再び手を付けていく。
 ボリスは現在、シベル国内でも名門と名高い私立の進学校に通っている。彼としては、小学校卒業後は兄と同じように軍で生活するつもりだった。家に金がないのは相変わらずなのだ。
 しかし、イヴァンは決してそれを認めなかった。
 それどころか、普通の公立の学校でもない、何倍もの学資のかかる学校への進学を熱心に勧めた。学費は全て一人で負担すると、渋る親族を黙らせて。
 それをボリスは後ろめたく思っていた。