ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第七話 北国兄弟と大和文化-5


「だから、バカだってんだ」

 イヴァンは残っていたサラダを一気に口の中へと流し込むと、モゴモゴとそんな事をつぶやいた。その頃になると、ボリスの頼んだハンバーグのセットのパンも届いていたが、手を伸ばす事はなかった。

「せっかくの学生生活だろ、楽しんでこい」

 その言葉で、ようやくボリスは兄の方をしっかりと見た。やっと、兄の言わんとする事が分かったのだ。
 そう。イヴァンは、小学校しか出ていないのだ。小学校の校長は、その類希なる才覚を惜しみ、家にまで押し掛けて、中学に行かせるように嘆願し、さらに両親も強く勧めた。
 しかし、それでも、家の経済状況を正確に把握し、また、家族想いで現実主義者の彼に、その選択はできなかったのだ。

「ありがとう、兄さん。いつか、いつか稼げるようになったら、絶対返すから」
「だから、このバカ。そんなこったどうでもいいから、それより、勉強には、ついていけてるか?」

 これで何度目か分からない頭を下げる弟に、先ほどとは打って変わったいたずらっぽく軽い口調で言いながら、イヴァンは水の入ったコップを手に取った。どこか、気まずげに目を泳がせているボリス。パンにのびる手は冷静さを誇張していても、もう片方の手は落ち着きなく首や頬をかいていた。

「えっと、どうも、左手ぐるぐる動かす法則が分からなくて……」

 パンをゆっくり噛みながら、左手の指をあちらこちらに動かす弟。それを見たイヴァンは、同じように左手を動かした。ただし、ボリスよりも規則的で迷いのない動き方をしている。

「フレミングの左手の法則か、俺もあんまり得意な方じゃなかったな」
「え? 兄さん、これ、中学の……」
「ああ、勉強したんだ。竹丸の昔の教科書もらって、竹丸に分からないところを教えてもらいながら。今は高一分くらいまで進んでるな」

 事も無げにさらりと言うイヴァン。軍で働き、医学の勉強をしながら、それでも通えなかった分の勉強まで、彼は身につけたのだ。
 ボリスは、今更ながら兄の秀才たる所以を知り、尊敬の念と同時に、どこか暗い後ろめたさを感じた。

「数年のうちに、高卒資格を取るのが目標なんだ。三笠の言葉を借りるなら、勉学は維持費がかからない、ってな」

 そう言って笑ったイヴァンの横顔は、驚くほど、昼に会った三笠と似ていた。やはり、互いを信頼し合い、また熟知している親友なのだ。
 イヴァンの注文したスパゲッティが届いた。「先に食べてていいか?」と問いながら、その手はスプーンとフォークに伸びる。
 紳士、良心、良い人。もちろんボリスが断る事はなく、また、イヴァンもイヴァンで返答など聞かず、満面の笑みでほおばり始めた。
 黙々と食べる兄を見て、ボリスは水を一口飲んだ。うっすらと、レモンの涼やかな味が広がる。

「じゃ、これから勉強で分かんなくなったら、兄さんに教えてもらえるんだね」
「おいおい、いくらなんでも進学校の勉強は無理だ。竹丸に聞け、竹丸に。あいつは教えるのうまいぞ。三笠の説明はわけ分からないから聞くなよ」

 フォークを進める手を一度止めて、イヴァンはまたもや口に入ったままモゴモゴと言った。「竹丸は、国防軍の仕事を干されても、教職で生きていけるだろうな」ともつぶやく。
 そんなときに、ボリスが頼んだハンバーグも届いた。兄とは違い、丁寧に作法を一つとして違える事なく、食事を進めていく。
 イヴァンはフォークを置いて、そんな弟にじっと目を向けていた。

「……何だ、悩み事、学校関係じゃなかったのか」

 真顔でつぶやいた兄の言葉に、ボリスは思わずむせてしまった。それでも、口に入っているものを気力で飲み込んだのは、彼だからこそなせる技だっただろう。
 うつむいたまま、ボリスは何も言わない。
 温泉に行く前から、イヴァンは弟がどこか思い詰めた表情をしているのを見抜いていた。だからこそ、食べたいものがあるなどと言い訳をつけて、余計な竹丸のいるアパートに戻らず、わざわざじっくり二人で話せるレストランに来たのだ。

「俺が、信用ないか?」

 ふと、寂しそうに訊くイヴァン。演技などでは、なかっただろう。身振り手振り表情などでうまい事会話を進めるのが得意な青年であるが、今回ばかりは本心からであった。
 ボリスは、顔を上げてぶんぶんと首を横に振った。他の誰よりも尊敬し、信頼している兄である。誤解だと、口にこそ出さないが、焦りの色の見える目は語っていた。

「話せよ、ボリス。あの用心深い三笠だって、俺には隠し事しないんだ」

 兄の言葉に、ボリスは少しばかり表情を暗くする。だが、それもつかの間で、そっと視線を窓の外に移した。その先には、電柱に貼られている指名手配写真。キツネの面が、夜の闇の中で、青白い蛍光灯に照らされて、ぼうっと、浮かび上がっていた。