ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第五話 大捕り物とムイ教徒-5


「さて、と。わたくし、これでお暇しようかしら。今日は東郷少尉と福井中佐にお会いできたから、こんな教理にそぐわない教会だけど、わざわざ来てあげた価値はあったってものね」

 紗江は倒れた福井中佐に流し目をくれると、彼を投げた際に少々崩れた着物の帯を、てきぱきと直していった。
 袖が揺れるたびに、三笠の表情に緊張が走る。分が悪すぎた。
 こちらは三笠と半人前の“チカラ”を持つ嵐、さらに意識のない福井中佐。それに対して、相手は国防軍が目の敵にしている“王志会”の大幹部。しかも、国防軍随一の兵士、福井中佐が手も足も出なかった。
 捕らえることができなくても、せめて、意識のない先輩だけでも守ろう。そう思いながら、三笠は中佐をかばうように、銃を美女に向ける。
 できれば、このまま何もせずに去っていって欲しい。そんな三笠の願いは、予想外の展開により虚しく砕かれた。

「逃がすか!」

 嵐が、手から炎を出しながら突っ込んでいったのだ。紗江の行動に意識を集中させていた三笠は、止めることができなかった。
 歴戦の国防軍人、福井竹丸ですら軽くあしらわれた相手である。実力も経験もない嵐が、勝てる相手でも、それどころか傷を負わせられる相手でもない。

「あの、馬鹿」

 三笠は悔しそうに歯軋りをするが、動けなかった。民間人を守るのは国防軍人の最優先課題であるが、三笠にとっては嵐よりも、付き合いが長く親しい福井中佐のほうが、守るべき人物であったのだ。
 案の定、嵐の炎は紗江が手を振ると消えてしまった。ろうそくの火を消すより軽い動作であった。
 美女は嵐に微笑みかけると、一瞬にしてその懐に入り、腕と胸元を掴んだ。三笠は、彼女がやろうとしていることを正確に理解した。嵐の体が宙に浮く。それは、見事な柔道の背負い投げだった。

「学習しない人間は嫌いよ。このまま何もしないのだったら、わたくしも何もせずに帰ってよかったのだけれど」

 紗江は床にたたきつけられた嵐の足元に立って、見下すような視線を送った。意識はあるが、痛みと衝撃で少年は動くことができない。

「やはり、こういう手合いはお仕置きしないと」

 不意に、紗江はそのほっそりとした右腕をまっすぐに上げた。窓から入る夏の強い日差しの中、その指先がまばゆく輝きだした。
 指先が、嵐に向く。三笠も、また当の本人である嵐も、彼女が何をしようとしているのか、おぼろげながら予測できた。だが、二人とも動けなかった。
 今まさに指先から何かが放たれんとした時、三笠の視界は白昼夢にでも襲われたかのように、突然違うものに変わった。
 様々な声や風景が、洪水のように目の前を過ぎていく。全て、三笠が今まで見てきた記憶だ。幸も不幸も、流れては目の前を去っていった。

 ――秋山嵐、十一歳、小学六年生です。

 意識が元の部屋に戻ってくると、時間は白昼夢前から全く経っていないようだった。床に倒れて、恐怖で引きつった顔をする小学六年生。それが、三笠の視界いっぱいに広がった。
 白昼夢中の、記憶が蘇る。すると、ある記憶の一場面が再び現れた。
 その時、三笠の頭の中に、福井中佐のことはなかったのだろう。
 何かを叫ぶと、三笠は地面を蹴って走り出した。嵐の目が彼のほうを向く。美女はそれを見て、またもやあの蠱惑的な微笑を浮かべたかと思うと、そのまま嵐に向かって指先から何かを放った。
 放たれた指三本分くらいの太さの光線。放たれた先には小学六年生の少年。
 だが、それは少年の腹すれすれのところで止まっていた。服こそ焼かれたが、肌には傷一つない。

「守銭、奴……」

 嵐の目の前には、金にしか執着しないはずだった、高校生国防軍人が立っていた。いつかの占領事件と同じく、背を向けたまま。
 しかし、あの時と違うことがある。あったはずの絶対的防御は役を果たしていない。彼の腹は紗江の光線で斜めに打ち抜かれ、とめどなく血が出ていた。

「何で……」

 嵐のかすれた声。それに三笠が答えることはなかった。ただ、目の前の微笑を浮かべる美女を睨む。乱れた息の中、痛みで意識が飛びそうになっても、決して膝を付けることはない。

「チカラが破られたのは初めて? 東郷少尉」

 紗江は三笠の腹部を刺したまま、ゆっくりと近づいた。芳しい香の匂いが漂う。甘い誘惑。それでも、三笠は膝を付けまいと、ほとんど残っていない気力を振り絞って体を支えていた。
 そんな様子を見て、紗江はくすりと笑った。

「わたくし、思いの強さなら、誰にも負けませんの」

 三笠の耳元で、透き通った声が囁かれた。背丈はあまり変わらない。それにも拘らず、はるかな高みから投げかけられたかのような、圧倒的な差が感じられた。
 美女はかろうじて意識を繋げている三笠、それからすでに意識のない福井中佐に対してそれぞれ深々と礼をすると、日光の入ってくる窓の前に立った。

「それでは、またお会いいたしましょう。わたくしもあなた方が好きですよ、福井中佐、東郷少尉」

 紗江は光の中に溶けて、跡形もなく消えてしまった。立っていたところは、相変わらず明るく照らされているだけである。
 三笠の意識も、そこまでしか続かなかった。足の力が抜ける。紗江が消えた瞬間、張っていた緊張が解けて、徐々にその視界は闇の中へと沈んでいった。