ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第七話 北国兄弟と大和文化-7


 その言葉に、弟が答える事はなかった。ただ静かに、窓の外を目に映す。
 ちょうどその頃になると、イヴァンが注文したパフェも来た。クッキーやらクリームやら、これでもかというほど突き刺さったり塗られたりしている。
 自然と、ボリスの視線は、満面の笑みで抹茶クリーム付きのクッキーをほおばる兄の姿へと変わる。昔から家のためにと我慢ばかりしてきた兄が、嬉しそうに自分のしたい事をしている姿は好きだった。

「兄さんは、今回はいつまで大和にいるんだ?」
「いつまでかな。来週まではいるつもりだ。明後日の花火大会は見たいし、三笠の学園祭、来週末にあるんだけど、何か手伝いさせられるし、それから、一人もう少し治療の必要な下士官もいるし」

 それを聞いたとき、ボリスは昼にあった老婦人の孫を思い出した。ボルフスキー大尉によって命を救われたと話したその青年。きっと彼の事だろう。

「病院でその人に会ったけど、兄さんにすごく感謝してるって言ってた」
「そうか。もう話せるぐらいには回復したんだな。それは良かった」

 取り皿にクッキーやクリームを盛りながら、イヴァンは心底ほっとしたように整った顔を緩ませた。口の周りにはクリームが付いていたが、ボリスは何も言わない。エリートの兄よりそんな抜けた兄の方が、彼の知る兄らしかった。
 パフェの半分くらいを皿に入れると、イヴァンはスプーンとともに弟に差し出した。

「僕いいよ、兄さん。食べたかったんだろ?」

 慌てて首を振る弟。皿も突き返そうとする。そんな様子を直視せず、イヴァンはパフェをよそった皿に視線を落としながら口を開いた。

「……昔は、一個の菓子パン、こうやって分けて食べたろ」

 その言葉で、不意にボリスは、暖炉の火すら満足に灯せない、生きていくのでやっとの頃に戻ったような気がした。幼少期と言って良い時期だ。明るい電気の光は、短いろうそくの火に変わったように感じ、つるつるのテーブルはひび割れた木の板に見えた。

「これからどんなに出世して金に余裕ができても、それでいろんな事忘れても、あの時の気持ちだけは、忘れちゃ何か、ダメになる気がすんだな」

 きっと、兄もボリスと同じ光景をその目に映していた事だろう。
 いや、小学校を卒業してから八年間、収入の芳しくない両親に代わって家計を支えてきた彼なら、もしかしたらもっといろいろな事が見えているのかもしれない。
 ボリスは、差し出されたスプーンを手に取って、クリームをすくうと口へ運んでいった。イヴァンと同じように頬は緩み、さらに目も輝いていく。

「……この仕事終わったら、俺ちょっと忙しくなるけど、父さんの看病と、母さんの手伝い、よろしく頼むな」

 ささやくような、静かな声で兄は言った。ボリスは少し顔を暗くする。自然と、スプーンを動かす手も止まった。

「前線に、また行くのか?」

 重たげに口を開いた弟。それに対して、イヴァンはフッと微笑むと、その表情のまま水を一口飲んだ。

「いや、今度は俺の用事。病気の子をな、治す手伝いができるかもしれないんだ。つっても放浪の旅してる師匠を捜すのが俺の仕事だけど」
「兄さん、よかったな」

 ボリスは自分の事のように喜んでいた。自然と、顔全体にこれでもかというほど明るい色が広がっていく。
 イヴァンがなりたかったのは、軍医でなく普通の病院にいる、白衣を羽織った医者ではないか。ボリスは常々思ってきた。軍医になったのは選択肢がそれしかなかったからで、決して意志ではなかった。そう考えているのだ。
 嬉しそうな弟。それを見てイヴァンは笑顔を浮かべ、次々とパフェを腹へと運んでいく。
 気づけばレストランの客はこの外人の兄弟以外、誰もいなくなっていた。