ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第七話 北国兄弟と大和文化-2


 大和国は「どこを掘っても湯が出る」と言われていて、そのためごく自然に人々は温泉が身近にある生活を送っている。山の中の秘湯から、大都会の中まで、どこにいても天然温泉の銭湯が探さずとも目に入るほどだ。
 福井竹丸のアパートは、海の区の中でも、限りなく山の区という地域と近い場所に位置している。
 山の区は、ここ大和国首都東城の中でも一番の温泉地帯で、かのアパートの近くにも、当然のことながら大きな入浴施設があった。これ見よがしに、その建物の上では温泉マークが紅く光って、夜の静まり返った住宅街を月そっちのけに照らしている。
 だが、現在絶賛大和満喫中のシベル軍軍医イヴァン=ボルフスキーは、そんな大きな銭湯に目も向けず、風呂の籠を持ったまま、その正面玄関を――ガードマンに挨拶しながら――堂々と横切ってしまった。

「兄さん、そこ、風呂屋じゃないのか?」

 紳士、良心、良い人。そんなボリスは決して「どこ見てるんだ、通り過ぎたじゃないか」などという指摘の仕方はしない。それがたとえ実の兄であってもだ。
 対するイヴァンは、きらびやかな銭湯をじっと見つめる弟に笑いかけた。

「ああいうのはどうも好かない。もっと小さいところで、ゆっくりじっくり入れるようなのが良いよ」

 その言葉に、ボリスは納得して、「兄さんらしいや」と思わず笑みを浮かべた。
 装飾の凝った銭湯から離れると、夜道はすぐに暗くなった。等間隔で現れる電灯だけが、先へ先へと続いている。住宅街も終わりに近づいてきたのか、ところどころに小さな畑が見えるようになってきた。
 そんな寂れた通り。イヴァンはある建物の前で足を止めた。瓦屋根から下がっている看板はさびていて、文字も掠れてよく読めない。
 だが、ガラス張りの引き戸は開いていて、中からは楽しげな声がいくらか聞こえている。
 そこが、イヴァンの目指していた銭湯であった。

「ここはいいぞ、良心的な値段で、露天風呂まであるんだ」

 番頭に二人分の料金を払い、紺色ののれんを潜ったイヴァンは、ものめずらしそうに辺りをきょろきょろと見る弟に笑いかけた。
 周りの客は寂れた銭湯にやって来た外人の兄弟に、はばかることなくじっと目を向けている。近所の住民しか来ないような場所である。よほど奇怪に見えたことだろう。
 そんな中でも、イヴァンがペースを崩すことはない。にこやかに挨拶をしながら、脱衣所の空いたかごの前まで来て、服を適当にたたみながら放り込んでいく。
 一方でボリスは、裸になることはなく、どこから取り出したのか、地味でゆったりとした海パンをはいていた。

「ボリス、シベルの公衆浴場とは違って、大和ではそんなのいらないんだよ」

 イヴァンは少々呆れ顔をして、弟を傷つけないように努力しつつ、やんわりと諭した。考えてみれば、彼が大和に来たのは今回が初めてで、それは致し方ないことだった。シベルと大和の文化の違い。それは単に宗教だけではなかったのだ。
 ボリスは兄から目を逸らし、ため息交じりで海パンを見た。よく見ると、“2―B福井竹丸”と白い糸で縫われている。

「だから竹丸さん貸してくれたときに変な顔してたんだ」
「諸悪の根源は竹丸か。何で止めないんだ、あの馬鹿。あいつもせっかくの銀時計の頭、どうも有効活用してないよなぁ」

 黄緑色の髪をくしゃくしゃとかいて、イヴァンは天井に目を向けた。ちょうど、そこではプラスチック製の汚れたファンが左、右と回転方向を不定期に変えながら回っていて、彼の頭の中を表しているようだった。

「竹丸さんは悪くないよ、兄さん……でも、絶対、着てっちゃだめ?」
「郷に入っては郷に従え。というより、赤信号、みんなで渡れば、怖くないってな。みんな裸だ、気にするな」

 天井から視線を戻し、編み込んだ右側の髪を解きながら、イヴァンは弟に向かって輝く笑顔を向けた。
 ちなみに、彼はもうすでに何も身につけていない。シベル人らしさの欠片もない、そんな男であった。

「赤信号って、それ、兄さんの造語? ルールはちゃんと守らないと」
「大和の慣用句だって竹丸が言ってたぞ……それはどうでもいいから、大和のルールはちゃんと守らないとな」
「……大和の文化って、シベル人には難しすぎるよ」

 理論を逆手に取られ、ボリスは結局しぶしぶ大和風の入浴方法に従うことにした。
 それでも、言いようのない違和感と恥ずかしさが体にまとわりつき、少年は小走りで浴場へ入っていく。
 大和語を解さない彼に、“それ”が分かるはずなかった。浴場へのドアには、一枚の張り紙。

「おい、ボリス、走ると転――」

 ――浴場のほうから、何やら大きな音がした。時すでに遅し、という奴である。
 イヴァンが浴場へと入った時には、ボリスはすでに起き上がっていて、特にどこを強く打ったという様子はなかった。上手いこと受身が取れたのだろう。つい忘れてしまいがちだが、彼は中学生であると同時に、シベル軍見習士官でもあった。またの名を、アルバイト軍人。
 だが、そんな見習士官の雪国育ちの白い顔は、見ていて可哀想なほど耳まで真っ赤に染まっていた。見ると、浴場のほぼ全員の視線が、哀れなアルバイト軍人に集まっている。兄が入ってきたのにも気付かず、少年は湯船へと早足で歩いていった。
 そんな弟の様子を後ろから眺め、「ボリス」と青年は大声で呼び止めた。
 少年の足が止まる。振り向いたその顔は白いもやでよく見えなかったが、何となく、家族の第六感とも言うべきか、怒っているとイヴァンは感じた。

「何? 兄さん」
「え、いや……大和では、湯船に入る前に、体洗うんだよ」

 弟に怒りの矛先を向けられたような気がして、しどろもどろに教えるイヴァン。彼の行動は予測できたはずで、これでは竹丸のことを悪く言えない。
 ボリスは早足で兄の方へ行き、決まりが悪そうに引きつった笑顔を造る彼の手から、石鹸などが入った籠を強引に奪い取った。終始無言である。
 
「俺は、悪くないよな、何も悪くないよな」

 肩を落として、弟に悟られないように、大和語でつぶやいたイヴァン。すると、背後から、突然、肩をぽん、と叩かれた。
 振り返るとそこには、細い骨と皮だけでなんとか魂をこの世にとどめているような、一人の老人。感慨深そうに何度もうなずき、その度に老人とは思えない力で肩を何度も叩く。
 老人は、何も言わないでシャワーの方へと歩いていった。
 齢百といったところだろうか。人としての大先輩に背中を押されたイヴァンは、背筋を伸ばして老人に軍隊風の敬礼をすると、機嫌の悪そうな弟のもとへと、その足を進めていった。