ゆめたがい物語

作者/紫 ◆2hCQ1EL5cc

第六話 ムイ教徒と異国の病院-5


 海岸病院の待合室。青いソファが何列か並べられているそこは、総合病院の縮図のような場所である。
 幸も不幸も知る。老若男女、様々な人が、それぞれ違う表情をしてソファに腰掛けては去っていくのだ。ある人は退院の喜びに顔をほころばせ、またある人は悲痛な面持ちで下を向いて座り込んでいる。
 ボリスは三笠の病室を出た後、そんなソファにしばらく座り込んでいた。目前で、バスが出てしまったのだ。右手には先程自販機で買った缶ジュースを握り、左手は特にすることもなくひざの上に乗っかっている。
 白衣の医師が、何度か目の前を通っていった。ボリスはその後姿を見て、思わず深いため息をつく。
 
「……兄さんも、本当は」

 シベル語のつぶやきは、誰にも聞かれることなく、アナウンスの音に混じって溶けてしまった。
 ボリスはゆっくりと顔を上げて、前の柱に掛かっている時計を見た。バスが来る十五分前。根が真面目で慎重な彼には、ちょうど良いくらいの時間だった。
 最後にもう一度、近くの医師の後姿を一瞥すると、少年は息を大きく吐きながらソファから立ち上がった。結局缶ジュースを開けることはなく、渋い茶色のかばんの中にしまい込む。
 出口に向かって歩き出そうとすると、何故今まで目に入らなかったのか。座っていたソファの後ろにある机の上には、薄紅色の花が鉢に植えられていた。あでやかで美しい花、という感じではない。控えめで、傍にそっと置いておきたくなるような可愛らしいものだった。

「何て、いうんだろ……」

 思わず手を伸ばし、花びらにそっと触れる。すると、薄紅色の花弁が一枚、はらりとその手のひらに降り立った。ボリスはじっと見つめる。思った以上に、それは柔らかく、儚げなものであった。
 花びらだけでも持って帰りたいが、このままかばんに入れてしまっては、いずれ押しつぶされてしまうだろう。
 そう考えたボリスは、先程の缶ジュースを取り出して一気飲みした。口の中に、甘いりんごの香りが広がる。
 それから、缶を捨てることなく近くの男子便所に向かうと、中を綺麗にすすぎ始めた。
 そして、トイレットペーパーで先程の花びらを丁寧に包むと、りんごジュースの缶の中に入れ、かばんの中にそっとしまった。家に帰ったら押し花にでもしようと、そんなことを思いながら。
 それは、いよいよ帰ろうと、先程の花をもう一度見たときであった。

 ――寂しい、暗い、助けて。

 頭に響く音。霧の向こうから聞こえてくるような、はっきりとしない声だった。かろうじて女性の声であることだけは分かる。
 ボリスはハッとして、周りをきょろきょろと見渡した。だが、近くの人は誰一人その声に気付いていないようだった。患者もその家族も、医師や看護師までもが、助けを求めるその声に耳を貸さずにいる。

 ――誰か助けて。

 その声が聞こえたとき、ボリスの足は自然と病棟のほうへと向かっていた。どこから声がするのかは分からない。だが、何とかしなければと思うほど、体は勝手に動くのだ。
 エレベーターではなく階段を使って昇っていくと、響いてくる声はさらに大きなものとなっていた。
 白く長い階段。踊り場の窓からは、まばゆいばかりの夏の日差しが差し込み、節電で切っている電灯の代わりを果たす。その光の中、何度も声に気を取られて躓きながら、少年はどこまで行くのかも知らずに足を進めていた。

「何が、どうなってるんだ」

 そうつぶやきながらも、足は止まらない。助けを求められている。その事実が大きかった。七階までの階段で、一度大きく転んで背中から数段落ちた。とっさに、自分の体ではなくかばんを庇う。花びらに傷を付けたくなかったのだ。
 やっとのことで辿り着いた七階。これも節電故か。三笠のいた三階とは、比べ物にならないほど暗いところだった。
 不思議なことに、受付はあるものの、全員が都合よくボリスを見ていなかった。ある人は電話に集中し、ある人はコーヒーを淹れて、またある人は日誌をつけていた。もしかしたら、この階まで階段で上がってくる人はいないから、油断していたのかもしれない。
 ボリスはあの声を聞きながら、誰にも遮られることなく、七階のとある病室の前で立ち止った。入院患者の書いてあるはずのプレートは真っ白で、どんな人がいるのかさえ分からない。
 
 ――誰か、来てくれたの?

 ドアに手をかけると、そんな声が聞こえた。先程までの悲痛な感じとは違い、少しばかり明るさと喜びが感じられる。
 暗い廊下の、一番奥の部屋。忘れられたようなその部屋で、彼女はどんな様子でいるのか。
 ボリスは、そっとドアを開けた。