小説カイコ

作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第二話 左廻り走路編◇-17


「殺してよ」



自分自身の生死までもふざけた顔で人にあずける。

もう、正直どうだっていい。

このままこいつに殺されたっていい。



別に、ここに居る意味なんて、私には無いんだから。




              ◇

今、気が付いた。
拓哉のお母さんの目の下には黒いクマがあった。

思わず掴みかかってから後悔した。なんで俺はそんなことに気が付かなかったんだろう。掴んでいた襟首を放すと、拓哉のお母さんは不満そうな眼つきで俺を睨んできた。

「ごめんなさい。自分で自分が抑えられなくなっちゃって。俺、どうかしてました。」サァ、と涼しい西風が吹きぬけた。「実の親子なのに。」
「……。」
「拓哉、拓哉のお母さんが思ってるほど、自分の母親のこと嫌ってなかったと思います。そりゃ小学校の頃なんかは うちのクソババァが、とかよく言ってましたけど。でもそれってきっと、拓哉はもっと構ってほしかっただけだったんだと思います。」

すると拓哉のお母さんは鬱陶しげに舌打ちした。「それで?」

夏の青い晴天に、真っ白な飛行機雲が尾を引いて行っている。
「小学校五年生の時のリレー大会、覚えてますか。俺、あの時喘息の発作がやっと出なくなって、初めてリレーのメンバーに選ばれたんです。俺が三走で、拓哉がアンカーでした。それで大会当日、俺の母親が俺のことを応援しに来たんですよ。五年生にもなって恥ずかしかったし、拓哉にさんざんマザコンとか言われて馬鹿にされました。
でも、よく見たら俺の母親の隣にあなたが居た。拓哉ったらそれ見て、なんでクソババァが来てんだよ とか言ってましたけど、かなり嬉しそうだった。あんなに拓哉の口数が多かった日はあれが最初で最後でした。」

「リレー、か。そんなことも、あったかもしれない。」フェンスの向こう側、遥か遠くを見ながら拓哉のお母さんが言った。「私、何も母親らしいことしてやれなかった。ごはんも作らなかったし勉強も教えなかった。最期すら看取ってやらなかった。確かに、任史くんの言う通り、私は嫌われてはなかったと思う。でも、それは好かれてたってことじゃない。好き嫌いの判断がつかないぐらいに、接触する時間が少なかったから。」カツン、とハイヒールの音が響いた。「……あの子の思い出の中に、私は居ないの。」

風が、一際強く吹いた。邪魔そうに、長い髪の毛を払いながら拓哉のお母さんは話し続けた。
「けど、拓哉の最後の言葉はちゃんと聞いてあげることができた。もっとも、私宛てじゃなくて任史くん宛てだけどね。何て言ってたか聞きたい?」

聞きたい、その一言が出なかった。ここで俺が伝言を受け取ったら、拓哉のお母さんの持つものは何も無くなってしまう。伝え終わった言葉は、もうその人のものではなくなるから。

「拓哉ね、」俺の答えを待たずに、拓哉のお母さんは口を開いた。「左回りぐるぐる、って言ったのよ。これがあの子の最後の言葉よ?思わず笑っちゃうわよね。」

茫然とする俺の隣を抜けて、拓哉のお母さんは階段の手すりに手を伸ばした。「でも、欲を言うなら。そうだな、最後の言葉だから、馬鹿にしないで大切に持っていてほしいかな。」


そう囁くように言い終わると、拓哉のお母さんはカツカツとヒールの音を響かせながら、地上へと姿を消した。