小説カイコ

作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第三話 ふりだし編◇-34


                 。○。







――――――――――― 帰ろう。
                 一番好きだったあの頃に。







ふと、陽の光を感じて目を開ける。

若々しい緑色の草の生い茂る、見慣れた原っぱ。
草と草の間から垣間見る、空はどこまでも青くって、広かった。太陽の光が、キラキラと光って眩しい。


「たーいちっ!」
太一、そう自分の名前を呼ばれて立ち上がる。妙なことに、ずいぶん久しぶりなような気がして、心のどこかからか来る懐かさが変にくすぐったかった。どうしてか、思わず笑みがこぼれてしまう。声のした方を見ると向こうの方から緑色の草が押し倒され掻き分けられて、誰かがやって来るのが見えた。

「……ハツ?」
ハツだった。いつも通り長い髪を後ろで束ねて結っている。が、今日はどうしたことか少し洒落て、薄桃色に染めた麻紐をちょうちょ結びにしている。僕を見つけると、大声で笑って駆け寄ってきた。

「太一ったら、こんなところに居たんだね。どうしたのよ、そんな驚いた顔しちゃって……あたしの顔なんか付いてる?」ハツはおどけて目を見開くと、ずい、と僕に近寄ってきた。

「あ、いや。何も付いてないよ?なんか久々な気がしちゃっただけ。」
「何が?」
「うーんと…。ごめん分かんないや。」
変な感覚だった。何がこんなに久々な気がするのだろう。さっきまで川で弥助と魚を取って、少し昼寝していただけなのに。……さっきまで?

「太一の変なの。」考え込む僕を見て、ハツがからかうように言った。「そうだカイと弥助を待たせてるのよ、早く行かなきゃ!」
言うが早い、ハツは僕の手を握って強引にもパッと走り出してしまった。思わずこけそうになった態勢を急いで立て直して、ハツの後ろを追いかける。

「カイって、カイが?」
「なーにとぼけてんのよ。」ハツが呆れたように返事をした。「今日はお祭りよ。もう忘れたの?みんなでこの前約束したじゃない。」
「そうか……そうだったっけ。」


思い出せ、僕。そうだ、今日は待ちに待ったお祭りの日じゃないか。どうして僕は今までこんな大事なことを忘れていたのだろう。僕とハツと、弥助と、それにカイと。四人みんなで一緒に行く約束をしたんだった。急に、わくわくする気持ちがどこからともなく湧いてきて、変に胸がウズウズした。早くみんなに会いたい。早く、カイに会いたい。

緑の草原を抜けて、村境の川を渡って、神蟲村へ続く細いけもの道を夢中で走って走って。丘に着いたら滑り降りるように一気に下って。一昨日も歩いたはずのこの道が、やっぱりすごく懐かしい。久しぶり、そんな言葉がぴったりな感じがする。
それはまるで何年も昔の記憶を辿っているような、不思議な感覚で。

庄屋の家の前の、少し広場になっているところに二人は待っていた。
弥助はいつも通り少し不機嫌そうに笑っていて、小麦色に日焼けた腕を大きく振って僕の名前を呼んでいる。その隣では、弥助より頭一個分は小さい小柄なカイが、やっぱり弥助と同じように、色白な小さな手を僕らに向かって振ってくれていた。

「ごめんねー、カイに弥助。もう太一ったら原っぱん中で寝ぼけてたのよ。」ハツが二人にわざと僕に聞こえるように愚痴った。
「相変わらずアホだな。」弥助が皮肉っぽく笑った。「まぁ今日は許してやるべか。はよ行くぞおら。」

なんでか茫然としてしまった僕に、カイが心配そうに声を掛けてきた。
「太一、なんかどっか悪いの?ぼけーっとしちゃって……」
「ううん、」カイの心配そうな顔を見て、僕どうしちゃったんだろ、と内心自分で不思議に思った。「なんだか嬉しくって。頭がうまく回んなくなっちゃったの。」
笑いながらそう言うと、カイは安心したのか 良かった、と肩を落とした。弥助はやっぱアホだな、と毒づくと、ハツと一緒に神社への道をさっさと歩き出してしまった。

「ほら、私たちも行こう?」カイがそっと僕の手を握ってきた。にわかに、カイの体温が伝わってくる。温かい。「太一ったら、ほんと今日変よ。やだなもう、そんなに赤くならないでよ。」
「えっ、僕赤くなってる?」なんだか恥ずかしい。これじゃ、まるで。
「うん、真っ赤赤。」カイが僕を見上げるようにして笑いかけてきた。「ほら、与太話が過ぎるわ、だってハツたちあんなにもう先に行っちゃってるよ!そうだ、ハツたちのところまでかけっこしようよ。」

「えっ、ええ??」
カイは勝手によーい、どん!と叫ぶと走り出してしまった。慌てて後を追いかける。本気を出せばすぐに追い抜かせるような気もするが、多分そんなことしたらカイがご機嫌斜めになってしまうのでやめておいた。


「太一ったら、遅いよー!」
カイが振り向きざまにそんなことを言ってきた。その様子がおかしくって、くすぐったくて、たまらず僕は吹き出してしまった。
するとそれがカイの気に食わなかったのか、カイは走っていた足を止めると、怒ったように頬をぷくーっと膨らませた。

「何よ、どーせ僕の方がかけっこは速い、とか思ってるんでしょ。」僕の心の内を見透かしたような言葉に、一瞬ギクリとした。
「いや、そんな事思ってないよ……。」
するとカイはあはは、と陽気に笑い出した。「あたしだって前より足速くなってるんだからね!ナメてると後悔するよきっと!!」

元気よくそう叫ぶと、カイは一気に走り去ってしまった。は、速い……。冗談抜きで、負けるかもしれないな、と少し焦った。随分間も開けてしまったので、本気で力を込めて走った。お祭りの前の、少し蒸し暑くて騒々しい風が頬を掠めていく。ふんわりとどこかから漂ってくるおいしい匂いなんかもする。きっと、お祭り用の焼き餅を誰かが焼いているのだろう。

懐かしかった。こんな楽しい気持ちになったのは本当に久しぶりだ。
収まらない胸の鼓動は、少し苦しいくらいでもある。力の限り走りながら、カイの背中を追う感覚も。
全てがすべて、いつもと変わらない風景であるはずなのに、いつもより数倍輝いて見えた。数倍、愛おしく見えた。






                  ◇


携帯のアラーム音が静かな部屋に鳴り響いた。
うるさい、そう思いながら枕元の携帯を開いて時間をチェック。朝の五時半である。

「あ…。俺今、おじさんち居るんだっけ。」
寝ぼけて半分も回らない頭を持ち上げて、とりあえず布団から出る努力をする。恥ずかしいことだが俺こと高橋任史、低血圧なのである。従って朝は人の数倍辛い。前にそのことを鈴木に言ったら、「低血圧とか女々しいなお前w」、と大爆笑されてしまった。今思い出すとなんだかムカつく。

ずるずると身体を引きづるようにして階段を下りると、衣田さんはもう起きていた。おはようございます、と挨拶をするとあちらも眠そうな声で挨拶を返してくれた。

「任史、お前随分だるそうだな。大丈夫か。」
「あー俺、恥ずかしいことに低血圧で……いっつもこんなんなんで気にしないで下さい。」

すると衣田さんはプッと吹き出した。「俺も低血圧だげげんと。あーこりゃ遺伝だな。大婆さんも生きてる頃は、毎朝こんなんだったんだ。おめぇのせがれもこうなるっぺよ。」
「はぁ。」なんだ衣田さんもだったのか。「そういえば今日練習いつからでしたっけ。」

「あと三十分で始めるぞー。」衣田さんがニヤニヤした。「けっこうしばいたるからな。覚悟せい!」
そう言い放つと、歯磨き歯磨きーとか歌いながら洗面所へと姿を消してしまった。俺も取りあえず荷物から服を上下一式取り出して着替える。……眠い。

「そういえば……カイコ居ないな。」
朝になれば戻って来るかも、そう思っていたのだが、期待は外れカイコはどこにも居ないようだった。一体、どこに行ってしまったのだろう。
でも不思議なことに、昨日の蟲神様との信じられないような出来事もあってなのか、俺にはカイコは無事だという確信があった。決してこれといった根拠があるわけではない。けれど、直感的に大丈夫だ、と勘が告げているのである。こういう時の勘は昔から大抵当たっている。

簡単な朝食を済ませて、衣田さんと一緒に外に出た。
朝の外気は、ひんやりと冷たくて湿っていて、マイナスイオンだか何だか知らないが、そういう感じの健康に良さそうなものが充満しているような気がする。四方八方が山に囲まれているだけあって、まさに空気がおいしい、って感じである。
一番近くの家の西側にある山を見上げると、山腹の真ん中らへんから、ずっと天まで白い霧がかかっていて何も見えなかった。その霧の中から、盛んに鳥の鳴く声が延々とこだまして聞こえる。ここの山は前カモシカが出たんだぞ、と衣田さんが自慢げに付け加えた。