小説カイコ

作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第四話 昨日の消しゴム編◇-6


それから三人で歩き続ける事数十分、やっと駅伝の会場に辿り着くことができた。
時刻はまだ朝の六時半だというのに、もうすでに競技場の回りは賑やかな、それでいてどこか緊張感の漂う雰囲気に包まれていた。

「あーもしもし、乙海どこ?」
ほっしーが携帯電話越しに、同じく今日は出番無しの短距離女子、乙海と話しているらしい。陣地取りに必要なテントやブルーシート等々の荷物は、顧問の津田先生が車に積んでここまで持って来てくれることになっていて、乙海はその荷物と一緒に車に乗ってきている。とても一人じゃ運び出せない量なので、俺たちも手伝うことになっているのだ。そう言う訳で、ほっしーはしばらくうんうんと頷いた後、パッと携帯を閉じると俺たちの方に向き直った。

「どうやらあっち側のスタートゲートで待ってるみたい。津田先生ったら荷物と乙海だけ降ろしてさっさとどっかに行っちゃったみたいだよ(笑)」
「あはは、津田っちなかなかやるなぁ。流石だぜ。」鈴木が面白そうに笑った。

すぐに競技場をぐるりと右回りに移動して、スタートゲートに向かった。そこに着くと、なるほど山盛りの荷物の中に埋もれるようにして眠そうな顔をした乙海が途方に暮れている。俺たちを見つけると、こっちこっちー、と大きく手を振ってきた。

「わー良かった。もー先生ひどいんだよ。これ一人でどうしようかと思ったもん。」ヤレヤレ、と乙海が肩をすくめた。
「いやはや、そりゃあお疲れ様。寒い中ありがとう。」ほっしーが一番近くにあったブルーシートの束をよいしょっと持ち上げた。「んじゃ早速運んじゃおうか。うーん、場所だけどさ、あんま日陰に陣地取ると寒いと思うんだよね。第二競技場の横の芝生広場なんかどうかな?」
「いいと思うな。あそこならトイレとかも近いし。人目もまぁまぁあるから盗難にも遭わないだろうしね!」
「俺も乙海と同じく。そんでいいと思うー。」隣に立っていた鈴木がにょーんと大きく伸びをしながら言った。それと同時に、奴の身体からはバキバキと骨の鳴る凄まじい音がしている。
「ちょ、鈴木すごい音鳴ってるけど……。うん、俺もそれで異議なしだな。」




その後、比較的無事に陣地を取ることができた。四人でどうにかブルーシートを広げ、それから骨組みの錆びているテントをかなり苦戦しながら開いた。このボロテントがかなり曲者で、開いている途中から錆が頭に降ってくるし、ギシギシと不吉な音もするしで、これ本当に大丈夫なのか?という疑念が沸くばかりである。

「はぁーこりゃひどいな。」ほっしーが額の汗を拭いながら言った。
「同感。」ふと自分の手のひらを見ると、錆で茶色っぽいオレンジ色に汚れている。「部費で新しいの買えないのかな……。」

そんな具合でみんなでぶつくさ文句を言いながらも、なんとかテントは立ち上がり、遠くから見ればそれなりに立派な陣地ができた。達成感に浸ってぼうっとしていたら、視界の端ではさっそく鈴木が大胆にもブルーシートのど真ん中で寝っ転がっていた。それに続いて「うちもー」とか言いながら乙海が漫画を片手にゴロゴロし出している。なんだか楽しそうだったし、疲れたし眠いしで俺も遠慮なくエナメルを枕にして一眠りすることにした。

「ちょっと!三人とも何くつろいでんの、これ中長距離のために立ち上げたんだからね!」ほっしーが仁王立ちにになって俺たちの頭上からそう言った。
「ほっしぃは厳しいよー。」全然お構いなしに乙海がヘラヘラと笑った。「どうせ七時半まであいつら来ねぇよ。ほっしーも一緒にゴロゴロしようよ。」
「駄目。駄目絶対!せっかくなんだから寝てないで七時半まで第二競技場で練習してきなさい。今日は使用料フリーなはずだから。」

「えー。」鈴木がそれでも粘ったが、ほっしーがどこかの保育園の先生みたいに起きろ起きろと何度も催促するのでしょうがなく立ち上った。
俺も流石に観念して、エナメルの中からスパイクとバトン、あと飲み物を取り出して、みんなでまだ人気の少ない第二競技場に向かった。
それから、個人個人で好きな練習をすることにした。競技場に入ると、乙海はそこに居た他校の友達と一緒に練習すると言って一旦俺たちから別れた。俺と鈴木は特に練習の計画も無いので、とりあえずジョグから始めることにした。

朝の競技場は、決まって気分がいい。
まだ人の少ない、静かな競技場は別世界のような気さえする。誰も走っていない緋色のタータンと、その鮮やかな緋色とは対照的な、白色の、走路にまっすぐと引かれた八本の直線は、見ていてとても不思議な気分になる。白線はどこまでも正しい間隔で、規則的な曲線を永遠と左廻りに描いていく。その徹底した、どこか数学的な美しさを含んだ無機質さが、爽やかな朝空によく似合うのだ。
少し肌寒いくらいの、水気をたっぷりと含んだ空気はさっきまで眠っていた体にとても心地よかった。朝露で湿った芝生を踏みしめる時の、ふかふかと気持ちのいい感覚は、まるで選ばれた人だけの特権みたいで、いつも無意味に楽しくなる。まったく自分の精神年齢の低さに笑ってしまう。

トラックの中の芝生を三周回って、体操をして、初めはアップシューズで軽めに走った。それからもう一度、万が一怪我をしないようにストレッチをしてからスパイクに履き替えた。

「あれ、鈴木いつの間にかスパイク変えた?ってかそれ新しいモデルだよね!!めっちゃ高いやつ!」
確か鈴木のスパイクは、この前までごく普通の紺色と白色のやつだった気がする。それが今履いているのは、下地が赤と黒の、金色のラインの入った新しいモデルのスパイクである。確かお化けのような値段がしたような……。

「あーうん。俺さ、実は一昨日、誕生日だったんだよね。んで実家からなんと誕生日プレゼントで三万円が封筒に入って来たからさ(笑) キタコレ!と思ってその日のうちに買っちゃった。ほぼ衝動買いだわ。エヘ。」
「へぇ、三万!」その額にびっくりだが、鈴木の思い切りの良さにもびっくりである。「いいなぁー、俺なんかさ、親が『野郎は誕生日プレゼントなんかいらないだろ』って感じでさ、俺も弟も何も貰えないんだよ……。かろうじて妹の誕生日にみんなでファミレス行くぐらい。」
「アハハ!なんかそれ猛烈に高橋っぽい!あははははは。」鈴木が可笑しそうに笑った。
「なんだよー、高橋っぽいとは心外な。」でもまぁ確かに、高校生にもなって家族でファミレスとは世間的に見たら変なのかもしれない。
「でもさ、なんか微笑ましくていいんじゃん?」鈴木が相変わらずに笑いながらそう言った。「考えてみろよ、三万って額はいいけどさ、これけっこう悲惨なもんなんだぜ。あー今日誕生日だなー、とか思って部屋に帰るとさ、下宿の家主のおばちゃんが『鈴木君、お母さんからお手紙来てるわよ。』とか言って封筒渡してくるわけよ。開けてみると諭吉さんが三人ドドンと入ってるだけ。……まぁ、嬉しいけどさ。」
その時の、鈴木はいつも通りに笑っていた。でも、どこか、誰も気が付けないような心の隅っこでは、鈴木は寂しがっているんじゃないかと思った。鈴木と一緒に居ると、時々こういうことがある。そして俺はこういう時、どう返事していいのか分からなくなってしまう。
前に、時木のことがあってから、一度だけ鈴木の家族について聞いたことがある。鈴木の両親は元々別居していたが、時木の葬式の後に正式に離婚してしまったらしい。その後、母親と一緒に暮らしていたが、鈴木が中学へ上がる前に母親が再婚したという。短い間に名字が時木から宮川、鈴木、とコロコロと二回も変わったというから驚きだ。
そして父親違いだが、鈴木には今、二歳とちょっとになる妹がいる。けっこう可愛いんだぜ、と鈴木は得意そうに言っていた。新しい父親は、継子である鈴木を嫌がったりはせずに、むしろ同年代の友達のようにフレンドリーに接してくれると言う。母親も、邪険にしたりは決してしないという。高校受験の時なんかは、下宿しなきゃ通えない今の学校ではなく、家から通える地元の学校を進めてくれたらしい。
けれど鈴木はそれを押し切って、地元から遠く離れた今の学校を受験して受かり、今は学校の近くで下宿しながら通っている。「俺のこのイケメン顔さ、前の父親にそっくりなんだよね。だから家に居たら迷惑じゃん?」と鈴木は冗談紛れに言っていたが、たぶんそれよりずっと深い理由で、鈴木は家を出たのだと思う。

「そっか。えっと……鈴木って実家は茨城だっけ。」どう返事していいか分からずに、出てきた答えがこれである。つくづく自分の無能さを呪いたい。
「ああ、うん。ちなみに水戸市な。高橋んとこよりかは田舎じゃないぜ。」
「むぅ、どーせ我島岡はド田舎ですよ。水戸……か。あ、あれだ。」
「アレって?」
「ほら……、納豆、とか特産品、じゃなかったっけ……。」もう駄目だ、俺はどうしてこんな変なことしか言えないのだろう。

すると鈴木がギャハハハハと盛大に笑い出した。「ちょ、納豆っておい、アハハハハ!なんだかそれじゃあ水戸中ぜんぶ納豆臭ぇみたいじゃんかよ!あ~、もう高橋可愛いなぁ~。別に俺相手に変な気ぃ遣わなくていいんだぜ。高橋のそういう不器用なトコロ、俺けっこう好きだぞ~。グヘヘ。」


ああ、なんだ。全部バレてたのか。
そう分かると何だかスッキリしたと同時に、なんだか自分がとても幼いような気がして、恥ずかしかった。ふと、やっぱりこんなんじゃまだまだ駄目なのかな、と思った。