小説カイコ

作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第三話 ふりだし編◇-29


戦争が始まると、土我はどこかへ姿を消してしまい、しばらく音信不通になった。あとから聞いた話だと、土我はこの時、戸籍も無いのにあの手この手を使って満州まで飛び、さらにはドイツにまで行っていたらしい。つくづく変な男である。
僕はと言うと、その頃は茨城の片田舎に居た。そこで、なんともう会えないと思っていた妹に再会した。なんとハツも虫になっていたのだった。

「死んだときね、蟲神さまに会ったのよ。」ハツは不思議そうに言った。「太一もそうなんでしょ?たぶん思うに、私たち近いうちに人に戻れると思うのよ。」
「え?どういうこと?」人に戻る事なんて、今まで考えたこともなかった。
「うーんとね、」ハツが言葉を選びながら喋った。「私が会ったとき、蟲神さまはとにかく謝ってきてね。ごめんなさい、って。その時に言ってたんだけど、いつか力を取り戻したら絶対に私のことを幸せにしてあげるって言ってたの。」

「ふーん。」めっきり蟲神に敵意しか抱かなかった僕とは大違いだな、と心の中でつぶやいた。「でも僕にはこう言ってたよ、私たち神とは人を救えない存在なんです、って。あんまり期待しない方がいいと思うな。それで裏切られた時に傷付くのはハツなんだし。」それでなくとも、僕は土我と出会った時からあまり神仏を信じなくなっていたのだった。

「わからないなー。」ハツは穏やかに言った。「私は信じるよ、蟲神さまのこと。それで裏切られたって、別にいいもん。だって誰かを信じるって私好きだもの。どうせ裏切られるか裏切られないかなんて未来の事、誰にも分からないんだからさ、だったら蟲神様のおかげで楽しい未来が待ってるって信じた方が得じゃない?」
「……変わったね、ハツ。」こんな前向きなハツを今まで僕は知らなかった。
「うん。前に出会った女学生でね、すごく素敵な人が居たんだ。長谷川って言うんだけど、今は軍部で勤めてるの。すごいよね、女の子なのに軍に入って頑張ってるんだよ!それで、その人が教えてくれたんだ。信じる事って、待っていることって、楽しくて素敵なことなんだよって。」ハツは照れたように笑った。

「へぇー、そんなことがあったんだ。」

僕にはできないな、と思った。
信じて、待っていて、それでいて裏切られたときの悲しみや憎しみを考えると、そんなふうに信じ切る勇気はなかった。ハツや土我と違って、僕は弱いのだ。傷付いてしまうことが怖くて、もう嫌で、そんなこと絶対にできない。



                ◇

時は流れて平成。
物質的には豊かになったこの世界は、それとは逆に人の内面は崩れていっているように僕には見えた。少しずつ、少しずつ人間味を失い、機械的で規則正しい社会の時間にはめ込まれた人々は、本当は今までで一番不幸なのかもしれない。民主化という名の元に、果たしてみんなはより幸せになったと言えるのだろうか。職業の自由、思想の自由、身体の自由…、様々な自由を約束されて、逆に選ぶことに疲れてしまって、自由の刑の中で不幸になった人は多いと僕は思う。

そんな時、久々に土我から連絡が来た。なんでも不思議な男を見たという。それにもしかしたらカイに会えるチャンスかも知れないと。
その男を訪ねて僕は茨城から千葉へ向かった。その頃、ハツは時木という女の子の幽霊の一部になっていて、しばらく僕とは会っていなかった。人は助けたことはあったが幽霊は初めてよ、とハツは笑いながら言っていた。時木は少し強気だがいい奴で、自分のことを「カイコマスターでどう?」とか面白がって言っていた。

それで、土我から教えてもらったその男は、まだ中学生だった。受験生らしい彼は毎日難しそうな塾に通って、夜遅くに家に帰っているようだった。僕が初めて見たときは、少しガラの悪い不良っぽい友達と楽しそうに夜の駅で喋りながら歩いていた。とてもその二人は仲が良さそうだった。
土我の指差したその子は優しそうな子で、中学生にしてはやけに落ち着きのある子だった。悪く言えばあまり若々しさの感じられない、爺さんのような落ち着きである。となりで歩いている不良君のおかげでその爺臭さが一層際立っていた。

「ほら、よく見てみ。」駅のベンチに座っている土我が、その子を指差して言った。「あの子左回りじゃない?僕の気のせいかな?」
言われた通りにその子の周りで渦巻く靄のようなものをじっと見ると、本当に左回りだった。
「あ、ほんとだ……」

僕と土我の言う“渦”とは、目を凝らして見ればうっすらと見える人の時間の渦のことだ。土我は持っていなくて、僕は完全に止まっている時間の渦。生きている人間だったらだいたい右回り、つまり未来へと向かう方向へと回っている。
それがその子は違った。左回りなのだ。つまりは過去に通じているということなのだろうか。

「なにあれ、もしかしてあの子幽霊なの?」僕が言うと、土我は首を振った。
「幽霊でも右回りだよ。ありゃ過去の残像が回ってる感じで見える。」
「じゃああの子何なんだろ。」本当に不思議な子である。それに渦の逆回転以外は至って普通の子にしか見えない。

「うん。それで不思議に思っていろいろとあの子の後を付けてみたの(笑) 姿は見えないようにして後付けてたんだけど、霊感は相当強いみたいでさ、しょっちゅう勘付かれちゃった。高橋任史、って名前みたい。それであの子、夜頑張って勉強してるせいかな、よく中学校の授業で居眠りするんだけどさ、その度に意識は過去に遡ってるんだ。それも彼の生前、ちょうどカイコがまだ人だった時代までだよ?彼自身には夢として見えてるみたいだけど、僕が見る限りではありゃ完全に過去に行ってる。僕、こんなに生きてきて彼ほど完全に過去と繋がってる人間は初めて見たよ。本当にびっくりしちゃってさ、彼の夢の中まで潜り込んでみたんだ。」

「……やっぱ土我ってすごい人だったんだね。」感心して言うと、土我が思いっきり笑った。
「ありがとう。でもこれ、人の夢に潜れるなんて悪霊レベルだから(笑)まぁでもそんな僕を褒めてくれるなら嬉しいかな。
って、そんなことじゃなくてさ、それでそう、その子が過去の、どこに行っているのか調べてみたんだよ。そしたらさ、驚くなよ、出羽だった。しかもその夢の中に出てくる人がね、“神蟲村”ってしょっちゅう言うんだ。これってカイコが昔住んでた村の隣村でしょ?あの蟲神様の神蟲村。じゃあきっとあの子は何らかの形であの土地に関係があるってことだよね?そう思ってカイコに連絡したの。」

呆気に取られた僕を見て、土我が悪戯っぽく笑った。「どう?驚いたでしょ。」
「驚くっていうか……信じらんないや。」こんな時間が経ってから、こんな遠い場所で、あの村に繋がっている子が居たなんて。
「どうする?さっそく話しかけちゃう?」土我が意気込んで聞いてきた。若干面白がっているようだ。

「ううん。」僕は首を振った。「あの子受験生でしょ?話しかけたいのは山々だけど、受験が終わって、あの子が高校に慣れてきてからにするよ。頑張ってる人の邪魔はしたくないからさ。」そう言うと、土我が感心したような声を出した。
「やっぱカイコはえらいなぁー。」

それから、その子は駐輪場へと続く道を、隣の友達とふざけ合いながら、……といっても一方的にいじられながら歩いて行った。それから、角を曲がると夜の闇の中に楽しそうな笑い声を残して消えて行った。