小説カイコ
作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第四話 昨日の消しゴム編◇-2
……あれから数十年近くが過ぎた。
今、歩いているレーゲンスブルグの街は、日本のそれとはやはり大きく違う。都市化と伝統保存のバランスがいい具合に取れた、どこの風景を切り取っても絵になる感じだ。
レーゲン川とドナウ川の水運により遥か昔から栄えて来たらしいこの街。老後の住まいをここに選んだギーゼラは本当に趣味がいい。
土我はそれから、おそらく初めて歩くであろう道を迷うことなく進んでいった。地図も見ずに、ただただ己の足先が向かう方向へと任せていく。
やがて一軒の、こじんまりとした邸宅に辿り着く。飴色のレンガでできた家で、洒落た小窓がその壁面を飾っている。蔦のいい具合に絡みついた門は童話に出てきそうな丸みを帯びたもので、その向こう側に大きな庭が見えた。庭の中央には小さな池なんかもあって、今が季節なのか大きな白いバラがいくつも咲いていた。白、ギーゼラがよく着ていた色だ。
思わずふっと笑みが浮かぶ。彼女は未だ元気なようだ。
そっと門に触れてみると、指先が付くか否かのうちに、風も無いのに扉が内側へとすーっと動いた。ふと門柱を見上げると、凝った装飾の中に、紛れるようにルーン文字で一文掘ってあった。" 来る者を拒まず "。きっと僕も入って良い、という意味なのだろう。
緑の茂る大きな庭を奥へ奥へと進んでいった。目に付くバラの白が、頭上から降り注ぐ陽の光に殊更輝いて見えた。
果たして彼女はそこに居た。
後ろ姿だけで分かる。けれど、もうだいぶ変わってしまっていた。腰が随分曲がって、僕の知っているギーゼラより一回りも二回りも小さい。金色だった長い髪も今では色が抜けて、短い白髪となっていた。
それでも、彼女から発せられる明るく優しい雰囲気だけは変わらず感じられた。綺麗に年を取ったな、純粋にそう思った。
少し悪戯をして、びっくりさせてみたくなった。
「Guten Tag, Frau Gisela ?」
割と大きな声で呼び掛けたつもりだった。が、ギーゼラは特別驚いた様子も無く、ゆっくりとこちらへ振り返った。
「久しぶりね、土我。来てくれるって、分かってたわ。」
そう言ってギーゼラは昔と何ら変わらない笑顔を見せてくれた。顔には皺が増えていて、随分老けて見えた。普通のおばあちゃんである。
「なあんだ、知ってたのかよ。」
そう言うと、ギーゼラは得意げに笑った。そしてお茶でもどうぞ、といつの間にか庭に出ていた白いテーブルと椅子に、座るよう勧めてきた。
「あれ?髪染めたの?灰色だったわよねぇ。」
「うん。ギーゼラ黒髪の方が好きかな、って思ってせっかくだから染めてみたの。」まさか鬼の血液でこうなりました、だなんて言えない。「でも驚いたな、どうして僕が来るって分かったの。」
木の葉の間から漏れる陽の光が眩しくて目を細めた。何かの小鳥が絶えずさえずっている。
「タロットよ。」ギーゼラが紅茶のポットとカップ二つ、それに細やかな装飾がなされた小皿を次々にテーブルの上に並べながら言った。「孫に教えてもらったの。試しにやってみたら案外楽しくってね。」
「Danke.……でもギーゼラったら前までタロットは邪道よ!とか怖い顔して言ってたじゃない。」
「Nichts zu danken~ 前って、あなたねぇ。何十年前の話よ。」小皿においしそうなフツーツケーキがちょこんと置かれた。「まぁ、あなたにとっては数十年なんてそんなものでしょうね。そうね、そういえばそんなこと言ったかもしれない。だってあれはラテン人の魔術だし。私には向いてないと思ったのよ。第一、バイエルンの誇りとしてもルーン以外には手を出したくなかったし。でもねぇ、年を取ると人間、随分寛大になっちゃうもんなのよ。」
「ほほぅ。そうかい。」
さっそくケーキにフォークを滑らせる。口に含むと当然、味なんて感じられなかったけど、それでもおいしいケーキなのだということは十分に分かった。
「で、面白半分にやってたらね、これが出たのよ。正位置にね。」
言いながら、ギーゼラは僕の目の前で一枚のカードをひらひらと振った。普通のタロットカードの……【 Death 】、つまり死神のカードだった。
「……ひどいな。僕は死神かよ。」冗談半分に笑うと、ギーゼラはそうね、と優しく笑った。
「覚えてるでしょう?あなたが満州に帰る夜のこと。フランクと張とあなたと私と四人で、約束したじゃない。もう一度生きて会おうって。」
「もちろん。それでこうやって約束を果たしに来たんだから。」
「ええ、あのあと張はすぐに会いに来てくれたわよ。でもあなたは待てども待てども来てくれなかった。でも私は魔女よ。知ってると思うけど魔女は契約に一番忠実な生き物なの。あの夜、“生きて”会おう、って言っちゃったもんだからねぇ、私は今日の今日まで死ねなかったのよ。どう?もうお分かりかしら?」
そう言い終わると、ギーゼラはポットを傾けて、二人分のカップに紅茶を注いでくれた。赤茶色の香ばしい匂いがふんわりと広がった。
「ああ、それはつまり……」また、友を一人失うのか。「僕、会いに来てよかったね。」
「ええ。これでやっと、フランクに会える。」ギーゼラはうっとりと瞳を閉じた。カップを口元まで運び、けれど口には含まずに、香りだけ楽しんでいるようだった。「そうだ、張は元気なの?日本と中国って、近いんでしょう。」
「いや、あそこは龍王の力が強すぎる。近くても僕の魔法じゃ何もできないよ。けど、張も随分昔に亡くなってる。逆に知らなかったんだね。でも、いいなぁ。フランクも張も、それからギーゼラも。僕だけハブで、これからみんなで楽しく過ごせるね。」
「ええ、そうね。でも私たち待ってるわよ、あなたがこっちに来ること。それに、私に会いに来たのはそういう意味なのでしょう?」
再びギーゼラがまぶたを開けた。僕を魅了して止まなかった、海のような、宝石のような、それでいて人の温かさも持ったブルーの瞳。もう二度と見ることができないのだと思うと、やっぱり寂しかった。
「うーん、半分正解で半分不正解。確かに僕はそっちに行きたいよ、でも。」少しだけ、言葉に迷った。「僕の好きな人は、そっちには居ないから。たぶん、もう二度と僕はみんなと会えないと思う。そのくらい手強い相手とこれから戦うから。勝っても負けても、そちらに行ける資格なんて僕には与えられないから。そのお別れの意味も込めてギーゼラに会いに来たんだけど……僕自身がギーゼラの死神なんじゃ、もう笑うしかないよね。」
よいしょ、と席を立った。そろそろお別れの時間だ。
「さようなら、ギーゼラ。実を言うとね、僕、君の事けっこう本気で好きだった。」
「まぁ今さら愛の告白ぅ?照れるわね。けど、好きだったって、“二番目に”でしょう?」クスクスと悪戯っぽく笑う。「私も土我のことかなり本気で好きだったわよ、二番目に。」
「なぁーんだ、二番目かぁ。」ガッカリして肩を落として見せると、ギーゼラが おあいこよ、と微笑んだ。
それから、軽く手を振りあってから庭を後にした。庭中に咲いていた白い大きなバラは、すべて黄色のバラになっていた。
黄色いバラ、確か、花言葉は「無事を祈る」「嫉妬」「薄れゆく愛」「美」「あなたを愛しています」……沢山あったはずだ。でもまぁたぶん、ギーゼラのことだから花言葉なんて全然気にしてないだろう。けれど、やはり黄色のバラというのは意味深だ。とりあえずいい意味で受け取っておこう。
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土我の後姿が完全に見えなくなると、ギーゼラは少し向こうのバラの茂みに話し掛けた。
「土我、もう出てきていいわよ。あなたのドッペルゲンガーは居なくなったわ。」
するとバラの茂みがごそごそと揺さぶられた。痛っ! と声がしてそこから出てきたのは、今さっき庭を後にしていったはずの土我だった。
いや、一点だけ違う。髪の色が灰色なのだ。黒色ではない。
「はー、危ないところだった。」土我がバラの棘を払いながら言った。「何アレ、僕なの?気味悪いなぁ。」
「ふふふ、どっちが本物の土我なんでしょうねぇ。」ギーゼラがフルーツケーキをもう一つ新しく出しながら笑った。「ほんっと、面白い人ね、あなた。飽きないわ。」
「ん、ありがと。」土我が紅茶も待たずにケーキを口へと運んだ。もちろん味は感じられない。「そうだな、たぶん両方とも本物の僕だよ。で、さっきアイツが言ってた“これから戦う手強い相手”ってのはたぶん僕のことだろうなぁ。あーあ、でも黒髪いいなぁ、毛根年齢じゃ絶対あっちの方が勝ってるって。」
「ま、頑張りなさいよ。私はお空からフランクと張と見物してるから。最後にこれくらいはいいわよね、七十年ぶりに。」
そう言うと、ギーゼラは腰をかがめてケーキを食べていた土我に、少し背伸びをして口づけた。唇が、ほのかに、自分の作ったケーキの甘い味がした。

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