小説カイコ

作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第四話 昨日の消しゴム編◇-11


                       ◇

突然、顔面に痛みを感じて目が覚める。
驚いてまぶたを開けると、最初に目に見えたものは、俺の顔面に落ちてきた小久保の左腕と、明るい電球のぶら下がる、ほっしーの家の天井だった。

「……夢?」
いまいち今見ていた夢がリアルすぎて、むしろこちらが夢なんじゃないかと思えてくる。
寝そべっていたフローリングから起き上がると、周りではみんな疲れ果ててぐっすりと床で寝ていた。俺の右隣りにはさっき顔面パンチを食らわせてくれた小久保がまるで死んだように伸びているし、そのさらに隣では小久保に抱き着くようにして岡谷が猫みたいに丸まって静かな寝息を立てている。……駅伝ご苦労様、と心底思った。二人とも本気で走って疲れているのだ。
さらに飯塚なんかは騒音としか言いようのないイビキをかいて部屋の真ん中で大の字で熟睡していたし、新条さんは部屋の隅っこで乙海にもたれかかりながら、念仏のような寝言をムニャムニャ言っていた。若干怖い。


「よっ、高橋起きたか。」
後ろから声がしたので振り向くと、一人だけ鈴木がちゃんと起きていた。椅子に座って、机に教科書とプリントを広げてシャーペンをカリカリと走らせている。近くを見るときはいつもそうなのか、眼鏡は外して筆箱に半分突っ込んでいた。

「ん、鈴木偉いな。今までプリント解いてたの?」
タン、と鈴木がシャーペンをリズムよく机に置く。それから筆箱から眼鏡を引っこ抜くと、慣れた手つきでまた眼鏡をかけてこっちを見てきた。「まぁね、一応六枚終わったぜ。どやぁ。」
「わーすっげ。俺も早くやんなきゃな……」フラフラする頭を抑えて、よいしょっと立ち上がる。机の方まで歩いて、鈴木の真向いに座った。一番近くにあった鈴木の解答を取り寄せて見てみると、俺の大嫌いなCだのPだのといった記号がびっちりと並んでいた。「あたー、確率の問題か。俺これ嫌いなんだよね。」
「あはは、俺も確率アレルギー。でさ、この問3番分かる?全然解き方の予想が付かない。」
「どれどれ……」問題を見ると、一発で頭が痛くなってきた。……Aさん、Bさん、Cさん、の三人が1~5の数字の付いたクジを引き、それからその数字が若い順にゲームをする。ゲームの内容は、クジに書かれた数字の数だけ、箱からボールを取り出すというもので、その箱の中には赤、青、黄、白色の玉が6、5、3、2個ずつ入っている。
ではここで、Cさんが赤と黄の玉を引く確率はいくつか、だれも青の玉を引かない確率はいくつか、三回目に青玉が取り出される確率はいくつか……。もう意味が分からない。

「うっわ、何コレ。よしんば式が立っても途中で計算間違いそうだね。」
「だろ?でさ、一応解いてみたんだけど……」言いながら鈴木が途中式をずらりと書いた裏紙を渡してきた。「ここって、別々で考えるべきだと思う?それとも一気にかけ算でまとめてからやんのかな。あーちっくしょ、もう心が折れそうだぜ。」

「んー。まったく分からん。しかもさ、これ、もしかしたら全部足してから条件外のを引くパターンの解法かもよ……あわわ。誰か数学得意な奴居なかったけ。」
「山本。」鈴木が水筒のお茶を飲みながら言った。「おいっ、昭良、起きろ!」

すると、名前を呼ばれた山本が寝ぼけながら何かブツブツ言った。「んー…、もう、ちょっと寝かせてよ……ママ、もうちょっと……」

鈴木がくつくつと可笑しそうに笑いを噛み殺した。「今の聞いたか?いつもクールに澄ましちゃってる山本がっ……!」
「思いっきし“ママ”って言ったよね(笑) 録音しときゃよかった。」
「ね、超ウケル。へぇママちゃんだったのかー、山本の野郎。まぁいいか、今日アイツむっちゃ走ったんだし、もうちょっと寝かしといてやるかな。」

「ん、俺らだけでもう少し頑張るか。」






                     ■


ベルリン空港へ向かう電車に揺られながら、先程墓地に現れた“自分”のことを考えていた。
思い出したくも無い、黒い自分が言っていた言葉が勝手に脳裏で何度も何度も繰り返される。

 “鬼子はヒトでは無いんだぞ? 君は人じゃない。ましてや人が鬼になったのでもない。鬼が鬼に戻った、ただそれだけさ。本当は気付いているくせに。認めるのが嫌で、君は自分の過去を綺麗に脚色しているんだろ、違う?”


そんなの、言われなくたって分かっているのに。どうしてわざわざ思いさせるのだろう。
あの煩わしい黒蝶を思い出すたびに苛々する。あんなどうということ無いコトバに、一々動揺してしまう自分の心が鬱陶しい。
―――― そもそも、動揺できるだけの人間味が残っているだけありがたいと受け止めるべきなのか。


「ああ、鬱陶しい。早く始末しなきゃ、あんなニセモノ。」

それから、ゆっくりと目を閉じた。当然ながら眠ることはできない。この千年間、眠ることなど許されなかった。嫌でも、つまらなくて、灰色で、味気のない世界を見続けてきた。夢さえ見れない自分はやはり惨めなのだろうか?

ふと、過去を回想する。
気が付けば、自分はこのろくでもない世界に生を受けていて。生まれたくて生まれたわけじゃない。自ら望んでここに存在したかったわけじゃない。

いや、きっと誰だってそうなのだろう。誰だって、自分が世界に生み出された瞬間など覚えてはいないのだ。気が付けば、この世界に存在して、呼吸して、生きていた。ただそれだけだ。


                     ■


―――― 人売りが来たぞ。
―――――― 鬼子商人が町に来よったぞ。



平安京、一条大路より船岡山を越え遥か外京の地。

人商人(ヒトアキンド)の一団がどこからともなく現れた。
彼らは灰に薄く汚れたくたびれた直垂姿で、のそのそと、身売りの子供を入れた大きな檻をこれまたくたびれた牛にのそのそと曳かせてやって来た。その、あまり快くない一行に町の人々は明らかに嫌悪の表情をしたり、はたまた好奇心を剥き出しに騒ぎ立てたりと、多彩な反応を示す。

やがて人商人の周りに人だかりができ始めた。そこでもう十分に人が集まったと商人の長は判断したのだろう。歩みを止めて、牛を止めて、牛と檻とを繋いでいた綱を牛から放してやった。


―――――――― 檻の中の子供たちは、ここぞとばかりに急に大きな泣き声とも叫び声ともつかぬ騒音を立て始める。


檻の隙間という隙間から悲鳴と共にうじゃうじゃと伸ばされた何本もの小さな手を商人は鬱陶しげに一瞥した。一息吸うと、人だかりに向かって大声を張り上げる。

「おおや、礪屋の人売りじゃ、日暮れまでじゃ、買いたいもんは俺に言え。」


しかし野次馬な人々はなかなか子どもを買おうとしない。興味津々に、檻の中の子供を見ているだけだ。
「鬼子がおるぞ。」野次馬の大衆の中から、そう言った声が聞こえた。「どこじゃどこじゃ、」「左の奥じゃ、鬼子が一人おる。」「見えたぞ、鬼子だ、確かに居るぞ!」「俺にも見せろ。」「どこじゃどこじゃ……」

商人は心の中で舌打ちした。確かに仲間の言った通りであった。鬼子を一緒に売りに来るべきではなかった。きっと人々は不吉な、気味の悪い鬼子と一緒の檻に入れられた他の子どもまで気味悪がって買わないのだろう。
いらいらとする頭を抑えて、商人は檻の中の鬼子を探した。鬼子は、他の子どもがしているように檻の外に手を伸ばしたり騒ぎ立てたりすることもなく、ただただ一人静かに檻の端でじっと座っていた。その、不気味な琥珀色の瞳で人々を睨みながら。他の子どもとは違う、老人のような灰色の髪を微かに風にそよがせながら。

すると突然、人々の間にどよめきが走った。何が起こったのかと、商人は鬼子から目を離して大衆の方に向き直る。

「おお、陰陽師の旦那か。」
一際目立った、長身の人物が向こうからゆっくりとした足取りで現れた。深草色の狩衣姿で、薄青色の指貫を穿いている。
この陰陽師だと名乗る長身の男は、商人にとって数少ないありがたい常連客であった。何のためにかは知らないが、陰陽師はたまにふらりと現れては気に入った子供を数人買っていくのだった。何に使うのかと聞いても不気味に微笑むだけで教えてはくれない。人々はきっと怪しげな妖術の生贄に、子供の生血が必要なのだろうと勝手に推測しては恐ろしがっていた。

陰陽師は商人の前まで現れると、しげしげと檻の中を観察した後に、商人に向き直った。


「のう、鬼子がおるな。」いつも通りの、無機質な声音でそう呟く。「あれを私におくれ。いくらじゃろか。」

商人は正直に驚いた。絶対に売れないと思っていたのに。「でも旦那、いいのですか。あれは見ての通り見た目が……」
「構わぬ。それゆえ気に入った。」
「はぁ。」相変わらずにおかしな男だ。しかし、鬼子を買ってくれると言うのだからありがたいことこの上ない。

「そうだ、もう一人買おう。あの子と一番仲の良い子を売っておくれ。」
「は……?」
「きっと一人では寂しいだろう、鬼子も。」

鬼子と一番仲の良い子だと? 商人には見当も付かなかった。商人は子ども達をいかに上手に売りさばくかしか考えておらず、彼らの交友関係など考えたことも無かった。
第一に、もし商人が子どもたちを注意深く見ていたとしても、鬼子にはおおよそ友と呼べる者は居なかった。檻の中の子供たちも、大人たちと同じように、鬼子を気味悪がって遠ざけていたからだ。

商人は檻の中から鬼子と、もう一人適当に選んだ男の子を出させた。ほかの子供が羨ましがってぎゃあぎゃあと不愉快な叫び声を上げる。
商人は陰陽師の前に鬼子とその子を二人並んで立たせた。鬼子は、隣に並んだその子とやはり大きく違っていた。白すぎる不吉な肌、薄すぎる不気味な瞳、年老いた老人のような灰色の髪。

陰陽師はほぉ、と感嘆の声を上げた。そして商人に金を払うと、膝を折って鬼子と同じ目線になって、顔を覗き込んだ。
鬼子は、死んだ目付きで陰陽師を見つめ返した。まだ幼い子供だというのに、あらゆる意味でその子は年老いていた。

「そなたに名をやろう。」陰陽師が囁いた。「今日がお前の誕生日だ。さすれば五行の土が欠けておるな、通り名は 土我(ドガ)とせよ。」
「……土我。」
「そうだ、土我だ。またな、真の名もやろう。」

そう言って、陰陽師は声をより低くして、鬼子の耳元で囁いた。
「よいか、真の名は誰にも言ってはならぬ。しかるべき人に出会ったら、その時にのみ、口にしてよい。」