小説カイコ
作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第四話 昨日の消しゴム編◇-7
◇
「ねぇ、ハツ。」
高橋の去った後、静かになった高橋の部屋で二人でしばらくのんびりとしていると、急に太一が口を開いた。呼ばれたハツが、うん?と振り向く。
「僕たち、夢を見ているのかな。」
そう言って立ち上がった後ろ姿に、眩しい朝日が照り返した。「だってさ、ここに来るまで僕、高橋のこと綺麗さっぱり忘れてたもん。」
太一が窓の外を眩しそうに目を細めながら呟いた。鳥が、朝の歌をこだまのように麗らかに唄っている。
「そうね。そうかもしれない。」言われて、ただぼんやりと相槌を打つ。「私も忘れていたよ。高橋のことも、この世界のことも。……私が、弘化二年の夏の暮に、疫病で死んでしまったことも。それから、死んだ後、目が覚めたら……ふふ、可笑しいよね、蚕になってたことも忘れてた。ねぇ、太一。どっちが夢でどっちが現実なんだろう。蚕として百何十年も生きた時間が夢だったのか、それとも弘化二年の私たちが夢だったのか。それとも……。」
「今の僕らが夢、なのか?」悪戯っぽく笑うと、ハツも少し笑ってうん、と頷き返した。
「わっかんないね、頭がこんがらがっちゃうや。」あーあ、と面倒くさそうにため息をついて太一がベッドの上にでーんと胡坐をかいた。「そうだな、多分、今の僕らが夢なんだと思うよ。左廻りの高橋が見ている夢。つまりさ、」ハツが面白いくらいに不思議そうな表情になっている。思わず少し笑ってしまった。「確かに僕らは大昔にこの世界に生を受けて、弘化二年に一回死んだんだろう。それから蚕の姿に生まれ変わって、確かに平成の世まで生きた。あくまでも人外の者として。」
「それで……じゃあ、仮にそうだったとして、なんで私たちは今までそのことを全部忘れて、元の世界――― 弘化二年の世界に戻っていたのかな。そこが私にはぜんっぜん分からないんだけど。」
「蟲神様と高橋だよ。」はん、と太一が鼻で笑う。「高橋がカイの生まれ変わりだってことはハツももう分かっているよね?左廻り……つまり過去へと続く逆回りの渦を持った高橋は、カイの記憶のカケラを受け継いで生まれてきたんだ。それで、僕らを不憫に思った蟲神様は高橋と取引したんだよ。記憶のカケラの取引さ。あー、取引、って言い方は変かな。だって高橋は何も要求しなかったからね。ありゃあ心の底からお人好し野郎だよ。」ふぅ、と太一が一呼吸置いた。一気に喋りあげたので疲れたのだろう。「それで、究極のお人好し野郎高橋は、カイとして生きた時代の記憶を蟲神様にあげちゃった。あげちゃったつもりだったんだろうけど、それはどうやら違ったみたい。きっと逆なんだ、蟲神様は高橋の記憶を取り出して僕らに与えたんじゃなくて、高橋の記憶の中に僕らを閉じ込めちゃったんだよ。ハツと僕が、蚕として生きた時間、何もかもを忘れて、カイの記憶の中の世界、弘化二年の夏に戻れるように。」
「……ってことは、私たちは今まで蚕として生きたことを全部忘れて、高橋の頭の中で生きてた、ってこと?左廻りの高橋が持ってる弘化二年の世界で。」
「うん、多分。それが生きてた、っていうことなのかは微妙だけど。」
「そっか。」ハツが自分の両手を広げてしみじみと見つめながら呟いた。「そう、いうことだったのかもしれないね。だったら私たち、幸せ者だね。」
ハツが朗らかに笑って見せた。つられて、太一も自然と笑顔になる。
「そうだね、高橋にお礼をしなくっちゃ。それで……どうして、僕らは
今ここに居るんだろうね。記憶のカケラから抜け出して、この平成の世界に。」
「偶然じゃないとしたら、何か理由があるはずだよね。私たちがここに呼び出された理由。あ、そうだ、土我に連絡を取ったら?土我ならなんでも分かるんじゃないかな!」
「それがさ……、土我がどうしても答えないんだよ。実を言うとさ、僕さっきから心の中で土我のこと呼び続けてるんだよ?でも、全然応える声がしないの。いつもなら数秒もせずに 『何かあった?』って聞いてくるくせに。」
「それは変だね。海でも渡ったのかな。もし、すんごく遠くに行ってたとしたら心の声も届かないんでしょ。第二次世界大戦の時、満州とかドイツにふらふら行っちゃった時も届かなかったわけだし。」
「懐かしいな、そんなこともあったねぇ。」太一が胡坐を崩してごろりと寝転がった。「ま、ゆっくり待ちますか。どうせ高橋も月曜日の午後まで帰ってこないらしいしさ。」

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