小説カイコ
作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第三話 ふりだし編◇-28
それから、じきに時は明治の世となり、それから、どこか浮かれた雰囲気の大正を経て、年号は昭和へと変わった。
あれほど神仏にすがっていた人々が、あっさりと西洋機械の文明に身を委ねる様子は、見ていて何か心を不安にさせるところがあった。この国は急速に変化し華々しい発展を遂げた。
昭和七年、端午の節句を過ぎた五月二十日。僕が死んでから、八十七年が経っていた。
そんなある日、僕は、茶色のコートを着た、不思議な男に出会った。
先日にあった犬養首相射殺事件の後、帝都では何か不穏な雰囲気が漂っていた。その頃僕はと言うと、人間のパートナーを探していた。あの出来事からはや数十年、蟲神の代わりになると意気込んだものの、虫の身では何もできなかったからだ。けれどこんな姿になった今でも、探せばちゃんと僕に理解を示してくれて、力になってくれる人がいた。
今まで手を貸してくれた人たちは、老若男女色んな人たちが居たが、僕はみんな大好きだった。みんなとてもよい人ばかりで、別れるのが惜しかった。惜しかったけれど、別れるようにしていた。
その日は、五月らしい大きな白い雲が青空に浮かんでいた。緑の匂いを含んだ暖かい風は、射殺事件などいざ知れず平和に吹き渡っていた。
昼下がり、上野公園の芸術院の木陰に僕は居た。ひどく空虚な気持ちだった。前のパートナーの佐野という初老の男と別れたばかりだったのだ。
佐野は、僕のことをよく、キヨ、と呼んだ。キヨ、とは彼の一人息子の名前であり、既に三十数年前に亡くなっていた。
佐野は物静かで優しげな男であったが、およそ友人というものを一人も持っていなかった。息子と同時に妻も亡くしたらしい彼は、言いようのない孤独の果てに気が狂ってしまい、ついには虫の姿である僕を、キヨだと思い込むようになってしまった。そんな彼は、僕にとってはパートナーであると同時に救うべき存在だった。僕が彼の子どもになればなるほど、彼の傷ついた心は救われていたのだと思っていた。
しかしきっと違ったのだ。
今朝、大きな音がして目覚めた。目の前に居た佐野はどこから手に入れたのか、銃身の華奢な黒い拳銃で自分の頭を打ち抜いて死んでいた。あまりにも突然の出来事であった。
赤く濡れた畳、白い障子に付いた朱の斑点、右手に抱いた写真、力の抜けた四肢。
全てがすべて、昨日まで一緒だった友人の死の証明だった。
それから銃声を聞き付けた大家がやって来て、鍵の掛かっていない玄関を開けた。彼女は高い悲鳴を上げると人を呼び、呼ばれた人がまた人を呼び、急に周りは騒がしくなっていった。しばらくすると事を聞き付けた憲兵までもがやって来た。
僕は佐野の家を後にした。きっと今が、去るべき時なのだ。
そんなことを考えていると、目の前の日なたに誰か立っていた。今まで誰か立っていることなんか気が付かなくて、少しびっくりした。
「あれ?ごめんね、驚かせちゃったかな。」
五月にしては暑苦しい茶色の重そうなコートを羽織ったその男は、膝を屈めると草むらの中に居る僕を覗き込むようにして話しかけてきた。若い男であったが髪の色は白髪の混ざったような灰色で、更に印象的だったのが、―――――― どこか人離れした、まるで遥か遠くを見ているかのような、色の薄い瞳だった。昼の日差しを受けた琥珀色の瞳に、蚕の身体をした自分の姿が映った。
「……もしかして僕に話しかけてる?」期待も込めてそう問い掛けると、その人は朗らかに笑った。
「勿論。だって君以外にここには誰も居ないじゃないか。」そして近くに落ちていた桜の葉を拾うと、僕に差し出してきた。「今暇でしょ?僕も暇なんだ。一緒にお茶でもしない?それにカイコって呼んでいい?」
あまりの彼の唐突さに、僕は佐野を失った悲しみも忘れて、思わず吹き出してしまった。「別にいいよ。それにさ、この体でお茶が飲めるとでも思ってるの?」……そう言いながら、彼の差し出した葉っぱの上に僕は乗った。
それが、僕と土我との最初の出会いだった。
世間は後に五・一五事件と語り継がれる大事件のさなかにありながら、僕たち二人は有り得ないくらいに平和な午後を送ったのだった。
苓見土我、と名乗ったその男は、人ではなかった。
彼は自分自身を外道呼ばわりしていたが、僕には彼がとても優しい人間にしか見えなかった。
お互いに同じ雰囲気を感じ取った僕らは、それからずっと青い五月晴れの空の下、お互いにお互いの話をした。なんと彼は千年以上前にこの世に生を受け、今まで生きてきて、これからも死ぬこと無く生き続けるのだと言う。
「想い人が居てね、」土我は恥ずかしそうに少しだけ頬を赤めた。「その人を待ってるんだ、ずっと。初めはほんのちょっとした行き違いだったんだ。それなのに彼女は神に心を売り、僕は鬼に心を売ってしまった。それがどんなことだったのが、どういう意味を持ってくるのか、いまだに分からないんだけど……きっと僕が馬鹿だからかな。」言い終わると土我は可笑しそうに笑った。
「ふぅん、」僕は相槌を打ちながら土我の話に聞き入った。「土我さ、神って言ったよね。神様を信じてるの?」
「さぁてね。信じてるような気もするし、信じていないような気もするなぁ。そんなのどっちでもいいんじゃない?普段会う人でも無いんだしさ。それに僕らみたいに死ぬことができない者にとってはそんなの関係ないじゃない。」
僕はびっくりした。今までそんな風に“どっちでもいい”なんて考えたことがなかったからだ。神様の存在の有無は九十年近く常に僕に付きまとう謎であり悩みでさえもあったからだ。
「……びっくりしたな。そういう考え方もあったんだね。」正直にびっくりしたことを伝えると、土我はうん、と返事をした。
「思うにさ、人って生きてれば色んな悩みとか不安や恐怖、苦痛とかがあるよね。それってさ、きっと人が死ねるから、人生の短いことを知っているから、そういうものを感じるんだよね。“死”っていう最高に怖くてどうなっちゃうか分からないような恐怖も無い僕にとってはさ、生に対する悩みも不安も無いわけ。だって永遠に死ねないのだから。
だから僕にとっては神様なんてどうでもいいの。救ってほしいだなんて思わないからね。だって何の不安も苦痛も感じないのだから。」
土我のやけにサバサバとした意見はすごいと思ったが、僕には到底できそうにない生き方だった。それに僕の寿命がどうなっているのかも僕には分からない。
「あー、なんかこんな話ばっかしてると頭おかしい人みたいだな。」土我が空を仰ぎながら言った。「カイコ、なんか楽しい話してよ。」
「いきなりそんなこと言われたって……」渋る僕を、土我は無視して話し続けた。
「なんでもいいよ。そうだな、そのカイちゃんっていう子の話してよ。もしかしたら僕にも力になれることがあるかもしれない。どうせ暇なんだ、何か助けが欲しくなったら是非僕に言ってね(笑)」
「わかったよ、もー。」
渋々ながら、僕はカイに出会った頃の話から始めた。村のこと、妹のこと、弥助のこと…… 自分の昔の話なんてするのは久々だったが、悪い気はしなかった。むしろこの不思議な男に話を聞いてもらっていると、話している間はまるで一番楽しかったあの頃へ帰れたような気さえしたのだった。

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